②
日和が冷蔵庫の中身を確認し、作ったのは、肉豆腐だった。
亘が買った食材は、豆腐と牛肉と玉ねぎ、人参、じゃがいも、長ネギだけ。最初はカレーかシチューでも作ろうかと思ったのだが、小麦粉がないし、カレー粉もない。
調味料は先日日和が揃えたものと同じものが入っていたから、簡単にすぐできるものをと考えたとき、肉豆腐が浮かんだのだった。
「この間の角煮もどきもおいしかったが、これもおいしい」
「もどきってなんですか。少し薄切りにしただけで、れっきとした角煮のつもりでしたが」
仔猫が人間が食べているものをなんでも欲しがるため、食事の間だけ――とゲージに入れられたのだが、それからずっと切ない鳴き声を上げている。二人は心を引き裂かれるような痛みを覚えながら、罪悪感と必死に戦っていた。
結果、亘は素直においしいと言ってしまい、しかし失言を聞き洩らさなかった日和に突っ込まれたのだった。
「……もう少し、野菜を買ったほうがいいですよ。葉野菜とか――栄養が偏ってしまいます」
「今日のお勧め献立コーナーとかいうところにあったのを適当に取ってきただけだし、葉野菜はカフェのモーニングで食べてるから大丈夫だ」
「それだけじゃ、足りな――まぁいいです。亘さん自身のことなんですから、お好きなように。私は何も言いません」
「そうしてくれ。ああしろ、こうしろと口うるさいのは姉さんだけで十分だ」
そう言って、亘は空になった食器を持って立ち上がった。
「ごちそうさま。じゃあ俺はビールを飲もうかな。日和は……」
「いりません」
「だよな」
亘が冷蔵庫の扉を開くと、食材より大量に入っている缶ビールやワインを見て、日和の顔が引きつる。
「さっき冷蔵庫を開いてびっくりしましたよ。なんでそんなに大量に入れてるんですか?」
「飲みたくなったときにすぐ飲めるように」
答えながら、亘はビールのプルタブを上げた。グラスには移さず、その場で立ったまま軽くあおる。
「そんなに飲んだら、ビール腹になるんじゃないですか? うちの父さんみたいに、こう、ぽっこりと腹が出るんですよ。まるでアニメの狸のように」
「大丈夫だ。鍛えているから」
亘はそう言って、シャツの裾を上げて自慢の腹筋を見せびらかした。
その腹筋は二日酔いの日にもちらりと見ていた日和だったが、あのときは具合が悪かったし動揺も激しくて、それどころではなかった。しかし今こうして改めて見ると、その美しさに思わず目が釘付けになる。きれいに割れてはいるが、作りすぎている感じはなく、ウェストも滑らかなラインを描いている。
シックスパックに憧れる弟たちがあまりに騒ぐので、フェチとまではいかないが、日和もそれなりに筋肉に興味を持つようになっていた。なかでもアスリート系の引き締まった筋肉が好みだ。
その好みど真ん中の筋肉を目の前にして、日和の鼓動が大きく跳ねる。指で突いて固さを確認してみたい誘惑にかられたが、両手を握りしめて耐えた。
(……性格はあれでも、目の保養にはなる)
今一つ形になりきれていない弟たちの腹筋や父親のビール腹、そしてどちらかというと細めで筋肉も少なめだった透の腹を見慣れていたから、よけいに惹きつけられたのかもしれない。
翌週、出社したとたんに日和は松坂から会議室に呼び出された。
ドアを開いておそるおそる中を覗きこんだ日和に、上司は眉を寄せた不機嫌な顔で振り向いた。
(この顔、姉弟だけに、そっくりだな……)
そんなことを思いながら日和が中へ入ると、挨拶もそこそこに松坂がまくしたてた。
「亘がね、高丸さんと一緒に猫を拾ったって言ってたんだけど。あの子の部屋には、あの後も何度か行っているの?」
「ええ、まぁ……でも仔猫に会いに行ったのは一度きりですが」
「だったらどうして報告してくれないの? 亘の部屋に行こうとしたら、猫がいるっていうから驚いちゃったじゃない。高丸さんもかわいがってるって聞いて、二度びっくりよ」
「亘さんがお話しているかと思いまして。それに職場のみんなにはあまり知られたくないとおっしゃっていたので、あえてここでは話題にしないほうが良いかと思い……」
別にやましいことをしたわけではないし、責められるいわれはないのに――と幾分不愉快に思いながら日和が答えると、松坂は盛大なため息をついた。
「高丸さんに限ってそういうことはないと思っていたんだけど、やっぱりあなたも女性だったのね。残念だわ」
さすがにこれには日和もかちんときた。振り回されたのは自分であって、好きで亘と会っていたわけではない。
「あの。そういうこと、といいますと? 私は仔猫に会いに行っただけで、頼まれたから夕飯を作っただけです。それに仔猫を飼うと決めたのは亘さん自身ですし、私が口を挟んだわけではありません。それにそういう話は、ご家族で直に話していただけませんか? 業務外で巻き込まれるのは、正直なところ、困りますし」
すると松坂は黙り込み、しばらく考えたあと、言い放った。
「とにかく。今後弟が何か頼むようなことがあれば、私に報告してね」
(だから、そういうのは弟と話せって言ったじゃん!)
呆れて言葉が出てこない。亘が姉のもとへ行きたがらないのは、この過干渉がイヤなのかもしれないなと日和は思う。
(私だって、さすがに今は弟たちに細かいことは言わないのに。これはひどい……)
もう成人して独り立ちしているというのに、交友関係にまで口を出されるのなら、それは一緒に暮らしたくないだろう。
普段は癪に障る亘だが、この時ばかりは深く同情した。
――それに、そんなに女性を警戒するのなら、松坂を敬愛している飯島にでも頼めば良かったのに。
カツカツとヒールの音を響かせながら会議室を出ていく松坂を見送りながら、日和はため息をついた。
日和なら大丈夫だろうと勝手に決めつけ、そして勝手に失望するくらいなら、最初から男性に頼めば良かっただけではないか。
(そんなに大事な弟なら、外に出さずに養ってあげればいいんじゃない? ほんと、揃いも揃って面倒くさい人たちだな)
松坂が十分離れたと感じてから、日和はゆっくり会議室を出た。
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