彼のうめき声を聞きながら、日和はどんどん締め上げていく。そして、低い声で告げた。


「鍵を返して」


 透が頷く気配がしたので、技を少し緩める。すると彼は苦労してポケットから鍵を取り出し、床に落とした。


「じゃあ、あとは静かに帰ってくれる? そして二度と連絡しないで」


 再び透が頷く気配がしたので日和は腰を上げ、彼を解放した。


 いきなり襲い掛かられたときのために、ベッド脇に置いてあった懐中電灯を握りしめる。しかし気力を完全に挫かれた透は、伏せたまま動けずにいた。


 日和は透から目を離さないようにしながら鍵を拾い上げ、表情の消えた顔でかつての恋人を見下ろしながらもう一度告げる。


「帰って」


 すると透はのっそりと起き上がり、痛む腰をさすりながらベッドから降りた。膝も痛むのか、ぎこちない足取りで玄関へ向かう。ドアに手をかけたあと振り向き、日和に向かって


「……えぇえ? なんで?」


とつぶやいた。その顔には、驚愕の表情が浮かんでいた。





(……気持ち悪い)


 透の姿がドアの向こうに消えたあとも、彼の手の感触が残っていた。その余韻を完全にかき消そうと腕でごしごしこすったが、痛くなっただけだ。


 乱れたシーツを見て湧きあがってきた強い怒りに任せ、手にした鍵を床に向かって思い切り投げつける。


 ――完全に油断していた自分が悔しいし、抱けば仲直りできると勘違いしていた透も腹立たしい。


 ローズの香りの湯船に浸かっても、バラエティ番組を見ても気は晴れず、その晩はなかなか眠りにつくことができなかった。



 ベッドの中で悶々と考え事をしていた日和が、やっと眠れたのは明け方。おかげで目覚めたのは昼を過ぎた頃だった。


 リズムが狂ったせいで重い身体を引きずるようにキッチンへ行くと、紅茶のティーバッグをカップに入れて湯を注ぐ。抽出を待つ間に携帯電話を確認したら、亘からのメールが届いていた。


『今日の殿下』


 そう題されたメールには本文はなく、写真だけが添付されていた。


 仔猫は何かをねだるように、首を捻って鳴いている。金と青の目には邪気がなく、カメラを構えているだろう亘をまっすぐに見上げていた。


(動画を送ってくれるって言ってたのに。でも写真だけでもほんとかわいい)


 自分の膝をよじ登ろうと仔猫が苦戦していた様子を思い出し、日和の頬が緩む。ほんのりミルクの匂いが残っている、小さな毛玉。


(ああ、もう。バニラに会いたくなってきちゃった。飼い主があれじゃなきゃ、遊びに行ったのに……)


 日和は今、癒しを欲していた。ここ数週間はストレスの連続で、これ以上なにか起きたら頭も心もパンクしてしまいそうだ。


 ――バニラには会いたいけど、あいつには会いたくない


 亘は日和を嫌っていたわけではなく、むしろ親切にしてくれた自分に感謝していると言っていた。


 しかしそれを知ったところで彼の高飛車な言動はやはり癇に障るし、振り回されたことによる疲労は拭いきれるものではない。


 とにかくこの日曜日はたまった家事を片付けて、一歩も外に出ないでずっと一人で部屋で過ごそう。そう決意した日和は、カップからティーバッグを取り上げ、無糖練乳を少し垂らしてかき混ぜた。



 仔猫で忙しくてそれどころではなかったのか、その日、亘から呼び出されることはなかった。


 しかし10枚もの写真を、なぜかおよそ一時間ごとに送ってくる。


 写真は嬉しかったのだが、同時に亘の存在をつねに思い出させられることになったのが多少鬱陶しく感じた日和だった。







 平日になっても毎日写真は送られてくる。いつもタイトルのみだ。


「寝てる殿下」


「遊んでる殿下」


「虫と闘う殿下」


 などなど、いつもタイトルのみで本文はない。まぶたにはまだ炎症が残っているが、日に日に良くなってきていく様子が分かる。



 しかし日曜日の夜遅く、写真ではなくメッセージが届いた。


『返信がないけど?』


 それだけ。


『なんのこと?』


『写真ありがとう、とか。殿下かわいいね、とか。一度も返信こないけど』


『ごめんなさい。バニラのかわいさにやられて、返信忘れてました。写真いつもありがとう。バニラに毎晩癒されてます』


 実際その通りだったから、素直に謝罪する。


『バニラじゃなくて、殿下だけど。なら、今夜も送ってやろう』


 数分後にいつもより多い五枚の写真を受信し、中身を確認した日和は思わず噴き出した。おかしな格好にねじくれて、股間から顔をのぞかせる仔猫の姿を連射したものだったからだ。


『ありがとうございます。今夜も癒されました』


 今度は即レスした日和に、またメッセージが届いた。


『週末、また動物病院で診てもらう予定なんだけど』


仔猫の写真は嬉しいが、明日も仕事だから、そろそろ休みたい。スルーしようと思ったのだが、既読マークがついてしまったので、日和はため息をついて返信する。


『そうですか。早く全回復してほしいですよね』


『この間は腹いっぱいだったから無理だったが、殿下にミルクをあげたいと思うか?』


 日和も女性だし、母性本能をくすぐられると弱い。しかも相手はあの小さな毛玉だ。指が止まり、逡巡する。


 ――今週はメールのやりとりだけで顔を見ることはなかったからまだいいが、友達でも恋人でもない男性の部屋に何度も通うのはどうかと思う。


(でも仔猫にミルクをあげるなんて経験、今後あるかどうか分からないし……。それに私のことは女として見てないようですし?)


 そう考えて、日和は意を決した。


『土曜ですか、日曜ですか』


『土曜日。午後診療が始まる十六時に受け付けしたいから、十五時半には駅に来い』


(来い、って……何様!)


 一気に苛立ちが募ったが、新しくメールに添付されていた仔猫のへそ天写真を見て頬を緩ませる。


『分かりました。その時間帯を目指して向かいます』


 返信しながら、結局、仔猫を言い訳に亘のいいように振り回されている自分に気づく。


 しかし少なくとも透のことは思い出さずに済むし、バニラの成長具合を確認したいし――と考えて、気にしないことにしたのだった。

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