面倒な過去の恋①
この週末にはとくに用事も入っていなかったため、久しぶりにのんびり過ごせると気楽に考えていた。
土曜の昼過ぎに予約を入れていた美容院へ行って髪を揃え、これからやってくる寒い季節に備えてブーツを物色するため街に出る。
立ち並ぶ店は今、一週間後のハロウィンに向けてオレンジ色や黒色で彩られていた。その色合いも、ハロウィングッズも好きな日和は、それだけでなんとなく楽しい気分になる。
ぶらぶら気ままに店を覗くうち、気づいたら日が暮れていた。結局は何も買わずに帰路につく。いったん帰宅して、その時どうしても欲しいとなれば再び買いに行くつもりだった。
(……ここ二週間でものすごく疲れたし、今日こそゆっくり過ごそう)
自分の時間というものをほとんど持たずに過ごしていたから、精神的な疲労が蓄積している。
アパートの近所にあるドラッグストアにふらりと立ち寄り、ローズの香りの入浴剤を購入する。本も持ち込み、ゆっくり湯船に浸かりながら、来週のための鋭気を養おう。そんなことを考えながら、二階にある自分の部屋へと向かった。
が、ドアの前の人影を見たとたん、日和の表情が険しくなる。
「なにしてるの?」
「なにって……日和を待っていたに決まってるだろ? 先週も来たんだけど、帰ってこなかったから」
透の責めるような口調に、日和はさらに苛立った。氷のような冷たい声で答える。
「なにそれ。私、別れるってメール送ったよね。荷物もぜんぶ送ったはずだけど、なにか不足でも?」
「いや、だから――俺は別に、別れるつもりなんてなかったし……」
まさかこれほどきつい対応をされると思っていなかったのだろう。透はたじろいだ表情をして、言い訳を始めた。
「距離を置きたいって言ったすぐ後に、べつの女性と一緒にいたでしょ。しかも私が彼女だってこと、隠してたよね? だからあの人、『とおるぅー、あの人って元カノなんでしょおー』とかなんとか言ってたんだよね?」
「それは……まぁ、その場の勢いで……。でもおまえだって、男と一緒にいたじゃないか!」
言いよどんだあと、透は突然逆ギレした。目を吊り上げて詰め寄ってくる。そんな彼に日和は怯むことなく、睨みつけて言い返した。
「ああ、あの人? 彼は上司の弟さんで、海外勤務から戻ったばかりだから生活基盤を整えるためにいろいろ手伝ってほしいって頼まれただけだったんだけど。
その途中、お腹が空いたからあの店に寄ってみたら、あなたがいたんだけど? ……じゃあ逆に聞くけど、あの子は誰なの?」
「えーと、あの子は……友達の友達だよ。相談事があるっていうから、聞いていただけで」
「そう? はたから見ると、恋人同士のように見えたけど」
「それを言うならおまえだって!」
――嫌がったのに無理やりつき合わされた自分と、スイーツ女に元カノだと説明してへらへらしてた男と同列にされたくない。
日和は深いため息をつき、そしてそっけなく言い放った。
「おまえ、って言わないでくれる? もうあなたの彼女じゃないんだし、なれなれしくしないで」
「なっ……」
初めて見る日和の冷たい態度に衝撃を受けた透は言葉を失い、ぱくぱくと口を開け閉めしている。
(なんでこんな情けない男になっちゃったんだろう)
哀れみさえ感じ始めていた彼女の目の前で、透はポケットに手をつっこみ、鍵を取り出して勝手に部屋のドアを開いた。
「ちょ……なんで入るの? 返してよ、その鍵」
荷物を送ることで自分の中ではきっぱり区切りがついていたのと、すでに彼はあの女性に夢中なんだろうと思っていたのと、亘やらなにやらで合鍵の存在をうっかり忘れていた日和は、慌てて彼のジャケットを引っ張って侵入を阻止しようとした。
しかし一歩及ばず、透はその手をすり抜ける。
(どうしよう……。どっかに逃げる? 私の部屋で勝手なことをされたら困るし――ああ、なんで最初に返してもらわなかたんだろう)
後悔しても、もう遅い。
自分の部屋で何をされるか分からない――と不安になった日和は、思い切って後を追って部屋の中へと入る。すると透は我が物顔で、日和のベッドに腰掛けていた。
「降りてよ、そこから」
かつて何度も彼と愛し合った場所ではあるが、今は不快感しか覚えない。透に抱かれた過去のことなど、思い出すだけで吐き気がするほどだ。
「俺は別れたくないって言ったら? 別れるって言われて、初めて日和の大切さを痛感したんだ。もう距離を置きたいなんて言わない。だから……」
上目遣いでおもねるような口調で懇願する透が気持ち悪くて、日和は小さく身震いする。
「あの子に振られでもして寂しくなったの? どちらにしても、私は別れたい。先週の透を見たら、完全に冷めちゃった。もう恋愛対象として見ることなんてできない」
「あの子のことは気にしなくていいよ。もうなんでもないし、二度と会わないからさ」
「透の言葉なんて信じられないし、もう気持ちはないって言ったでしょ? 顔も見たくないんだから、さっさと帰って」
「――ふざけんなよ」
日和の言葉を呆然と聞いていた透だったが、その顔がふいに険悪なものと変わり、日和の手首をつかんで力任せに引っ張った。
ベッドの上に投げ出され、日和の身体がスプリングの反発で少し跳ねる。
「なんでそんなに偉そうなんだよ。ちょっとよそ見をしただけじゃないか」
「私は一度もよそ見はしませんでした」
「……もうよそ見はしないから。日和だけだ」
「そんなこと言われても困る。私はもう透とは関係ないと思っている……というか、むしろ嫌い」
「なんでそんなに簡単に割り切れるんだよ!」
「いろいろ重なって?」
日和が答えたとたん、透は彼女が着ていたネイビーのプルオーバーシャツを乱暴に引っ張り、ボタンが引きちぎれてどこかへ飛んでいく。そしてベッドの上にドンと突き倒し、無理やり抱きしめた。
思い通りにならない苛立ちと、なんとか日和を引き留めたいという焦りからとっさにそんな行動に出てしまった透だが、彼の期待通り、日和は諦めたように首に腕を回してきた。安心した透がほくそえんだ次の瞬間、下にいたはずの日和が消えて、視界がシーツの白だけになった。
いつの間にか透の腰の上に移動していた日和が、彼の両足を抱えた状態で彼の尻の上に腰を下ろす。
「……!!!!!!」
とたんに透は苦悶の表情を浮かべ、声にならない叫び声を上げた。
弟たちと喧嘩になったときのために、日和はいくつかのプロレス技を習得していた。彼らが自分より背が高くなった頃から取っ組み合いの喧嘩はなくなり、技を使うこともなくなっていたのが――
(けっこう身体は覚えているものなんだな)
本来なら、成人男性が相手では日和の付け刃的なプロレス技など通じないだろう。今回はふいをつくことができたのと、透が百七十弱と小柄なおかげもあって、綺麗に技が決まったのだった。
日和の頭の中で、
「3、2、1、(ゴングの音)」
が鳴り響いた。
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