本人はそれでもかまわなかったのだが、さすがに姉がひどく嫌がったし、何より就職活動にも支障をきたしてしまう。


 といっても一人でサロンに行くと門前払いをくわされそうだったため、まずは姉に簡単にカットしてもらおうと、会社の前で待ち合わせていた。


 しかしいきなりのどしゃぶり。


 地面に落ちた雨粒は、そのまま太ももまで羽飛ぶほどの勢いだった。一分もたたないうちに、下着までびしょぬれになる。


 むさくるしいうえに雨に濡れながらガードレールに腰掛けている姿は、怪しいことこの上ない。行き交う人々はみんな、亘と目を合わせないように顔をそむけて通り過ぎていく。



 そのとき、彼の前にオレンジ色の傘を差した女性が立ち止まった。


 いかにも就職活動中といった紺のスーツを身に着け、疲れたような青白い顔をしている。


 その女性は目の前のビルと亘を何度か見比べたあと、

「どうぞ!」

といきなり傘を差し出した。


「大丈夫です。どうせもう濡れているし。もうすぐ待ち合わせてる相手も来るだろうし」


 ひっきりなしに雫が落ちる前髪の間から見つめながら答えると、その女性は少し怒ったような顔をして、ぐいと傘を彼の手に押し付ける。


「いいから! 風邪ひくでしょ! じつは折り畳み傘も持ってるし」


 女性はバッグからレースのついた折り畳み傘を取り出し、開いた。


 おそらく晴雨兼用の小さな傘。


 このどしゃぶりの中では、あっという間にダメになってしまうだろう。


「それ、ちょっと穴が開いてるから捨てようと思ってたし、返さなくていいから!」


 そして勢いよく身をひるがえし、ビルに向かって駆けていく。


 途中、パンプスの中に入った雨水で足が滑ったのだろう。片方のパンプスがすっぽ抜け、勢いよく前に飛んでいく。


女性は必死に片足でぴょんぴょん飛びながらその場へ行き、靴を履きなおしてまた走る。


 ビルの中に入る頃には、彼女は亘と同じくらいずぶ濡れになっていた。


「というわけで、一応恩は感じていたんだ。あの見てくれだった俺に親切にしてくれたんだし。その時の傘が――これだ。いつか返そうと思って取っておいた」


 亘は玄関へ行き、オレンジ色の傘を取り出した。


 その傘を見ても、日和はまったくその日のことを思い出せなかった。就職活動中はグレーの雲の中を漂っているような日々を過ごしていたからだ。


 何社回っても一次面接は通らず、説明会にすら参加できないこともあった。自分に自信を失くしながら、ひたすら企業に連絡し、訪問する。


 その年はゲリラ豪雨が多く、会社を回っている途中でずぶぬれになったことも幾度か。


 おそらくそのオレンジの傘は、折り畳みの傘では間に合わないだろうそのどしゃぶりの雨のために間に合わせで買ったのだろうから、とくに思い入れもない。


 首を捻る日和に亘は少しがっかりした表情を浮かべたが、見た目がぜんぜん違うのだから、覚えているはずもないと気持ちを奮い立たせた。


「――ということだ。だから別に怒ってたわけじゃない」


 その端正な横顔を見るともなしに眺めながら、日和は首を捻った。


「じゃあなんで初対面であんなに感じ悪くしたんですか? 覚えてます? いきなりコーヒーが『薄い』ですよ」


「まさか日和が現れるとは思わなかったから、びっくりしただけだ」


「……いや、びっくりしたからって……ないですよ、その反応は。その後もずっと喧嘩腰だったし、私をバカにするようなことばかり言うし」


「仕方ないだろ? これが俺の性格なんだから」


 くいっと顎を上げて高飛車に言い放つ亘を見て、呆れた日和は深くため息をついた。


「ほんっと、子供ですよね。それでよく社会人としてやっていけますよね」



 ――それから数十分後。


 ピザを食べ終え、午後九時を回った頃に、日和は立ち上がった。


「ごちそうさまでした。じゃあね、バニラ」


 眠っている子猫に挨拶したあと、駅まで送ろうとする亘に、日和は片手を上げて押しとどめるようなしぐさをした。


「バニラを一人にしないほうがいいですよ。今は気持ちよさそうに寝ているから、またキャリーケースに入れて連れていくのもかわいそうだし。大丈夫。一人で帰れます」


 そう言われた亘は素直に鍵を戻し、所在ない様子でポケットに手を突っ込んだ。


「じゃあ、今日はここで。ときどき殿下に会いにきてもいいぞ」


「バニラには会いたいですね。……ときどき写メで近況を教えてもらえますか?」


 スマホをつんつんと指でつつきながら日和が頼むと、また視線を逸らしながら亘は頷いた。


「写真どころか動画も送ってやろう」


「楽しみにしています」


 このとき目を覚ました子猫が、保護者を探して悲痛な声で鳴き始めた。一度強烈な孤独と恐怖を味わったせいか、そばに誰もいないととたんに不安になるらしい。


 日和は早く行ってあげてと目で合図し、亘が子猫を抱き上げるのを確認してからそっと玄関を出ていった。


日和が帰ったあと、膝の上で子猫を遊ばせながら、亘は物思いに沈んでいた。




 ――じつはあれが初恋だったとは、とてもじゃないけど言い出せなかった


 変なところで不器用になってしまう自分が情けない。


 男だからそれなりに女性と関係を持ったことはある。しかし(自分的には)その場限りのものばかりだった。気持ちが傾いたことなど、一度もない。


 まるで捨て猫のようにみすぼらしかった自分に優しくしてくれた日和だけが、あの日からずっと心の中に居座っていた。

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