④
「……あ、そろそろかな。使い方も説明したし、角煮もできたようなので帰ります」
すると亘の仏頂面が、さらに険しくなる。
「なら、食っていけばいいじゃないか。あんなに大量には食えない」
「最近はけっこう気温が低いし、一晩くらいならもつと思いますよ。残ったら、明日食べてください」
「今日は角煮が食べたい気分でも、明日は別のが食べたいんだ」
「はああ?」
――もしかして、この人の精神年齢は二~三歳なのだろうか
一人分には十分な量のブロック肉を買おうとしたら「それじゃ少ない」とごねたから多めに作ったのに、今度は食べきれないと言う。
(幼児のイヤイヤ期じゃあるまいし)
睨みつける日和の視線には構わず、亘はホテルでよく見かけるような小さな白いドリンク冷蔵庫を開いた。
「引っ越し祝いにもらったビールとワインも減らしたいし、今日のお礼にやるから食べながら飲んでいけばいいだろ」
そう言って缶ビールを取り出し、日和に向かって放り投げる。
――お礼という割には喧嘩腰。まだ大学生と高校生の弟たちでさえ、もっと上手に感謝の意を伝えることができるというのに。
日和は言葉を失ったまま、反射的に受け取った缶ビールに見入る。
(……もう限界)
透といい、スイーツ女といい、亘といい、今日は人の気持ちをまったく考えない勝手な奴らに振り回されてばかり。おかげで精神的にこれ以上ないほどに追い詰められた。だから目の前の高慢男があと一言でも嫌味を口にしたら、ヒステリーを起こして怒鳴り散らしてしまいそうだ。
日和の顔から、突然表情が消えた。
無言のままおもむろにプルタブを引き上げ、両足を肩幅に開き、腰に片手を当てて勢いよくビールを煽る。
ごくごくと喉を鳴らして一気飲みしている日和を見て、亘は若干引き気味だ。
「栄養ドリンクのCMじゃあるまいし。もっと味わって飲めよ」
350ミリリットルを一気に開けた日和は、空の缶を亘に突き付ける。
「おかわり」
そう言ったあと、唇を引き結んで喉の奥でゲップをかみ殺した。
「……だから、角煮をつまみながら飲もうって言ってるんだろ。なにも食わずにここで一気飲みとか――キッチンドランカーかよ」
「いいから、おかわり」
それほどアルコールに強くない日和の頬はすでに赤くほてり、目は吊り上がって凄みを増している。
日和の勢いに押されたように、亘は素直にもう一本ビールを渡した。彼を睨みつけながら受け取った日和は、再びビールを飲み始める。再び中を開け、もう一本を亘に催促した。
「とりあえず、座って飲めよ。……あと、なんだか焦げ臭いんだけど」
自分が飲むはずだった缶ビールを渡しながら、亘はちらりと鍋に目を向ける。
「あ! 焦げてる! ただ突っ立ってるなら、火を止めてくれれば良かったじゃないですか!」
すでに酔いが回り始めた日和は、鍋を覗き、いつになく大きな声で答えた。そしてまた、3本目のビールをぐいとあおる。
「だから、止めるタイミングが分からなくて――」
「それっくらい、分かるでしょー! 匂いで、分かるでしょー! ……まったく。子供じゃあるまいし、一から十まで指示されないと動けないの? 少しは自分で考えたらどう?」
日和の口調が、完全に弟たちに対するものと同様になった。いつもはビール一本でいい気分になる日和が、その倍以上を一気飲みしたのだ。あっという間に完璧な酔っぱらいへと変貌した彼女に、亘はただただ呆然としている。
「そ……うか。そうだな、うん。じゃあ、あっちに座ろう」
亘が初めて彼女の言葉に素直に従ったというのに、酔っ払いはそのことにまったく気づいていない。
「これ、食べるんでしょ! 少し焦げたけど、ぜんぜん大丈夫だから! むしろ香ばしくておいしいかもね。じゃあ皿!」
日和は飲みかけの缶ビールをコンロの脇に置き、片手を差し出した。バランスを取りにくいのか、身体が前後に揺れている。
「いいよ、俺が取り分けるから――日和はあっちに座っていて。……疲れているようだし」
亘は日和の肩に手を置き、座り心地の良さそうなローソファへと誘導した。今の彼女に皿を渡したら、何枚割られるか分かったものではない。
「そぉお? じゃあお願いしちゃおうかな! あ、ビール置きっぱにしちゃった。あれ、持ってきて」
日和はソファーのど真ん中に座ってふんぞり返り、戸棚から皿を二枚取り出した亘に命令する。
「いや、もう飲まないほうが……」
「飲めって言ったり、飲むなって言ったり。男って、ほんと幼稚で自分勝手だよね。弟たちもそうだし、亘さんもそうだし、あのくそ透だってそう! 飲まなきゃやってらんないでしょ。今日は本当に大変な一日だったんだから」
「はいはい。……ったく、こんなに酒癖悪いって知ってたら、別の手を使ったよ」
亘は返事をしたあと、こっそり文句をつぶやいた。
「ちょっと! 聞こえてますよー! 私はなんの義理もないあなたに、親切にも買い物に付き合ってあげたうえに食事も用意したんだから、感謝されこそすれ、文句を言われるいわれはありません。なのになんなの、その態度は!」
日和の口から、先ほどまでは言えなかった本音がぽんぽん出てくる。
「……」
これ以上何か言えば絡まれて面倒だと思ったのだろう。賢明にも亘は口をつぐみ、黙々と料理を皿に移し始めた。
翌日の朝。
(き……気持ち悪い……)
目を覚ました日和がまず感じたのは、二日酔いによる不快感だった。頭の中も視界もぼんやりとしている。
再び目を固く閉じて気持ち悪さをこらえていると、背後で誰かが身じろぎをした。
(えーと……あれ? 透?)
驚いて目を開くと、見覚えのない景色が飛び込んできた。
(ゆうべは透とホテルに泊まったんだっけ? 会社に行く前に着替えないと。……って、あれ? 今日って何曜日? 土曜……それとも日曜日かな)
日和は前日の記憶を辿ろうとしたが、なかなか思い出せない。透が別の女といたことでさえ、脳の奥底にしまい込まれて忘れている。
起き上がろうとして、パンツ以外は何も身に着けていないことに気づく。寒くてもう一度布団の中にもぐりこむと、透が日和の腰に腕を回して抱き寄せた。
肌が密着する。
彼の体温が、心地よい。
「ねえ、透。ここってどこのホテ……なっ――」
振り返った日和の目に飛び込んできたのは、透とは似ても似つかない超絶整った顔立ちをした男の寝顔。その瞬間、前日の記憶が一気に蘇った。
(透はあの女と帰ったんだった! で、この人の家で料理を作って……え? ちょっと待って。それならどうして、私は裸なの?)
混乱した日和はまだ眠っている亘から厚手のタオルケットを奪い取り、身体に巻きつけながらベッドから転がり落ちる。強烈な吐き気と頭痛に襲われながらも、腹ばいのまま衣服を求めて必死の形相で辺りを見回した。
(ない……ない! 私の服はどこ?)
床に落ちていたのは、亘のシャツだけ。
(なに? なんで?)
恐る恐る亘を振り返り、彼がパンツ一枚だということに初めて気づく。
(いやああああ!)
日和は転がるように寝室を出た。
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