亘のマンションは、池袋の駅から電車で三十分、駅から徒歩十分程度の場所にあるということだった。だとしたら、距離的には新宿も池袋もたいして変わらない。しかし彼としては、数分の違いとはいえ新宿のほうが近い……ということで最初異議を唱えていたらしい。


(だったらこの人の言う通り、新宿にしておけばよかったな。そしたらあの女に会うことも――でもそうなると、いつまでも透に騙されていたことになるのか)


 そんなことを考えながら駅前のスーパーで食材を購入し、亘の住む五階建てのマンションへ向かった。彼の部屋は最上階にあるというので、エレベータに乗り込む。亘はまだ不機嫌なままで、エレベーターの中に重苦しい沈黙が漂っていた。


(いつまでいじけてるつもりなのかな。ほんと、めんどくさい人。コンロの使い方を教えたところで、どうせ自分では作らないだろうし――ていうか、お姉さんの予定が空いてる日に作ってもらえばいいじゃない。それともチーフ、料理ができないのかな……)


 エレベーターを降りると、角の部屋へ向かった。彼のあとについて玄関に入ると、引っ越したばかりの部屋特有の新しい匂いが漂っている。家具が少ないせいか、荷物を置いただけなのにやたら音が大きく響く。


 勝手にやってくれと言われ、日和は遠慮なく吊戸棚を開く。そこにはまったく使われた形跡のない鍋や食器が整然と置いてあった。というより、日和が選んであげたものしか入っていない。彼女が今使いたいと思っているものは、どこを探しても見当たらなかった。


「あ……そういえば、この間は圧力鍋を買いませんでしたね……」


 オーソドックスな形の鍋やフライパンは提案したものの、圧力鍋は最初から候補に入れていなかった。

 亘は料理をするようには見えなかったし、そもそも日和に言われるまで必要だと感じていなかったのなら、基本的なものだけ揃えておけばいいだろうと考えたからだった。


(どうしよう。普通に鍋で煮込むと時間がかかるよね)


 下ごしらえから完成まで、だいたい二時間はかかるだろう。別のメニューを提案しようかと思ったが、購入したのは豚バラブロック肉八百グラム。角煮以外で使い切れるメニューが咄嗟に浮かばなかったし、亘のリクエストは角煮だ。別のにしようと言ったところで、今の亘はいつも以上に依怙地になっているから聞き入れないだろう。それに言い争いをする気力も残っていない。


(……角煮もどきでいいか)


 一度も使った形跡のない真っ白なまな板で野菜を切ったあと、肉を1センチ弱くらいの厚さにスライスしていく。それに塩こしょうしてフライパンに乗せた。香ばしい匂いが漂い始めると、フライパンの表面に大量の脂が浮いてくる。それを拭き取りながら、さらに焼き色がつくまでじっくり焼き、あらかじめ下茹でしておいた大根とゆで卵を投入して煮込み始めた。


 時間を短縮することができるから、個人的に角煮風煮込みと呼んでいるこのメニューは、透にも好評だった。煮込みすぎると、赤身部分が固くぱさぱさになるのが難点ではあるが。



 調理している間、二人の間に会話はまったくなかった。亘はスーパーで買ったばかりのフロアモップで(なぜかとても嬉しそうに)床を拭き、その後は床に座って黙々とスマホをいじっていたし、早く帰りたい日和はかつてないほど調理に集中していたからだ。


「さてと。あとは煮汁が少なくなるのを待つだけです。じゃあ、帰りますね」


 日和はハンドタオルで手を拭き、床に置いてあったバッグを持ち上げた。


「まだ途中じゃないか。完成させろよ」


不機嫌な亘の命令口調に、日和はあんぐりと口を開く。


(作ってもらっといて……こいつ、何様!)


「だから、あとは煮汁が少なくなるまで――」


「その加減が分からないんだけど。焦がしたらどうするんだよ。それにおまえ、さっさと一人で作ってるから、コンロの使い方を教えてもらってない」


「ああ……そういえば、そうでしたね」


 言ってくれれば、難しいことでもないからすぐに教えたのに――と日和はため息をついた。こちらから声をかけなかったというだけで、さらにへそを曲げてしまったようだ。


(めんどくさーい! うちの弟たちよりめんどくさい!)


 イライラしながら、日和は手にしたバッグを床に戻す。


「……ああ、そうですね。じゃあ説明しますから、こっちに来てください」



 ガラストップの真新しいビルトインコンロは、こちらもまた使用された形跡がないように見えた。


「使い方、本当に分からないんですか? このレバーは火の強弱を調節するもので、このスイッチを長押しすると火が点くんですよ。すごくシンプルだと思うんですけど……」


「押しても点かなかった。何かコツが必要なんだろ?」


「コツって――あ、もしかして。元栓締めたままだったんじゃ……」


「元栓?」


「……よく、今まで無事に生きてきましたね」


「初めての一人暮らしなんだよ! 以前は姉さんがぜんぶやってくれてたし、アメリカでは友人がやってくれたし」


(だからって――どんだけお坊ちゃまなんだよ……)


 呆れかえった日和は、哀れみの視線で目の前の大きな男を見上げる。


 ――甘やかされたままここまで成長してしまったから、こんなにも常識知らずなのだろうか。



「あのな、今までは別にやってくれって俺が頼んだ訳じゃないんだよ。みんなやってくれるから、任せていただけで」


 何を思ったのか、いきなり言い訳を始めた亘に、やれやれと首を横に振る。


「なるほど。でもこれからは一人なんですから、ちゃんと覚えてくださいね。……あ、事故防止のため、この元栓は使い終わったらきちんと締めてください。出かける前も締めといたほうがいいですよ」


「ふーん」


「ふーん――じゃなくて。ほんと、元栓開きっぱなしは危ないですから」


 説明するうち、弱火で煮込んでいた角煮の鍋から、香ばしい匂いが漂ってきた。

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