パーテーションの向こうからは、相変わらずあの女の声が聞こえてくる。しかし今は透が何か言ったのか、話している内容までは聞き取れない程度に抑えられていた。聞こえなければ聞こえないで、今度は何を話しているのかが気になってくる。

 再び自分の世界に戻っていく日和を見て亘はそっと嘆息し、わざと喧嘩腰の口調で話しかけた。


「とにかく、おまえはOKしたんだから。さっさと買い物を終わらせよう」


「……いや、だから――OKなんてしてませんし」


「した」


「してませんて! なにを勝手に――」


 思わず大声を出した日和は、パーテーションの向こうの二人が静まり返ったことに気づき、口を閉ざした。あの二人が聞き耳を立てているに違いない。……とくにあのスイーツ女が。



 客観的に考えれば、透に二股をかけられているあのスイーツ女も被害者だと言える。しかし日和を見たときのあの小ばかにしたような笑みが、どうしても引っかかっていた。


 スイーツ女は絶対に友達になれないタイプだと、日和の第六感が告げている。他人の不幸を喜び、幸せな人がいれば妬んでなんとか蹴落とそうとするタイプ。彼女が亘を見たときの物欲しげな表情にも、それは現れていた。


 ――そんな女に、勝ったなんて思われたくない。


 闘争心がふつふつと沸きあがってくる。



「仕方ないですね。今回だけですよ。……なにか、リクエストはありますか? 一般的な家庭料理ならこなせますが、横文字の小難しい料理はなしでお願いします」


 日和は怒りをバネに浮上し、てきぱきとした明るい声で答えた。いきなり営業スマイルを顔に張り付けた彼女に驚き、亘は軽く眉を上げる。が、すぐしたり顔になって即答した。リクエストはあらかじめ考えていたようだ。


「じゃあ角煮」


「分かりました。角煮ですね。……おうちに調味料はありますか?」


「あるわけないだろ」


「……まぁいいです。じゃあ調味料もぜんぶそろえるとして……そうと決まったら、早く食べて買い物に戻りましょう。――って、亘さん、食べるの早いですね。もう終わったんですか? ちょっと待っててください。私もすぐに……あれ? 冷えてる」


 ぼんやりしている間に冷えてしまった天ぷらに、日和はしょんぼりと肩を落とした。大好きだから後で食べようと思って残していた大葉の天ぷらも、衣がたれを含んでしなびている。

 それでも提供された食事は残さないというポリシーのもと、日和は黙々と食べ続けた。温かいうちだったら、もっとおいしかったのに――と後悔しながら。

 丼の底が見えてきた頃、透たちが椅子から立ち上がる音が響いた。その後、パーテーションごしに透の声がした。


「じゃあ俺たち帰るから。……また」


 気まずいのだろう。顔は見せない。


(なあにが、『俺たち』よ。『また』なんてあるわけないでしょ)


 そう思いながら、日和は機械的に返事をした。


「お元気で」


 それからほどなく食べ終えて定食屋を出た日和は、この店にはしばらく来ないほうが良いかもしれない――と残念に思っていた。またあの二人に遭遇するのは嫌だし、店の人たちに恋愛関係のもつれを知られたことも恥ずかしい。 この店の落ち着いた雰囲気は好きだし、味も好みで、値段設定も魅力的ではあったが……と名残り惜しく思いながら、日和は小さな店の看板をちらりと見た。



 午後の家電量販店はさらに混んでいて、人いきれで汗ばんだ二人は、店員の説明もろくに頭に入ってこなくなっていた。商品を決定したあとの在庫や発送日の確認、保証書関連の手続きに関わる待ち時間もどんどん長くなっていく。


「……日曜日よりはましですよね、きっと」


 心身ともに疲弊しきった日和がつぶやくと、亘は唸り声で返事をした。いつも顎を上げ、見下すような表情が定番の彼も、今は力なくうなだれている。


「配送が必要な大物だけ買ったら、今日はもう終わりにする。冷蔵庫、洗濯機、オーブンレンジ、炊飯器は決めたから、あとは……掃除機だったか?」


「そうですね。でもそんなに疲れているのなら、掃除機は後日でいいかもしれませんよ。カーペットならコロコロを買えばいいし、フロアモップも揃えれば、掃除機がなくても十分と思いますし。その二つはスーパーやドラッグストアとか、どこでも売ってますから」


「じゃ、そうする。あいつが戻ってきたら、さっさと帰ろう」


 そう言って、亘はオーブンレンジを担当した店員が消えた倉庫の入口を睨みつけた。



   ★



 買い物を終えた二人が駅へ向かう頃には、空は夕暮れに変わっていた。


「やっぱり止めません? すごく疲れたし……今日は外で食べたらどうですか? 考えてみたら、家電は今日は届かないんですし、使い方なんて教えようがないですよね?」


「……」


 日和の言葉を聞いて、亘は口をへの字に曲げてむっつりと黙り込む。そのまま数十秒間考え込んだあと、偉そうな口調で答えた。


「でもコンロはあるから、料理は作れるだろ? 角煮は煮こみ料理なんだし」



「そりゃあそうですけど……でもグリルくらいなら使えますよね? 小学生だって、家庭科の時間に使っているんですから――え、まさか。もしかして、コンロも使えないんですか?」


 小学生も使えるのに――と大げさに驚いて見せると、亘はプイッと顔を背けた。



 ――日和はとにかく、自分の部屋に早く帰りたかった。


 この常識外れのおかしな男から離れ、一人になって今日のことをゆっくり考えたい。そして自分の気持ちを整理し、透に関わる物はすべて捨てるなり送るなりして気配を消し去ろう。ぜんぶ終わったら、思い切り友達に愚痴を……


(あ。みんな今日は彼氏んちかな)


 友人にはみんな恋人がいるから、土曜の夜、急に連絡してもほとんど捕まらないことを思い出し、日和はため息をつく。


(仕方ないな。明日の夜でいいか。……とりあえず、透にメールしないと)


 ――『別れます』と。


 別れましょう、ではない。


 元ゼミ生同士の飲み会には参加しづらくなるかもしれないが、これからは仲の良い子とだけ個人的に連絡を取り合えばいいのだし。


 日和が険しい顔をして考え込んでいると、亘が脅すように低い声で告げた。


「約束したんだから、作ってもらう。約束は守りましょうって、小学生の道徳の時間に習わなかったか?」


 さっきの日和の嫌味が相当堪えているらしい。


(やだ。ムキになってる……)


 日和はあきれ顔で、背の高い男を見上げた。この日の亘がなぜ角煮を指定したのか、彼女には知るよしもない。

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