やけ酒飲んだら
席についた日和はメニューを手に取ったが、文字が頭に入ってこない。凝視するだけで、頭の中は透とスイーツ女のことでいっぱいだ。
「俺は特上天丼。日和は?」
尋ねられて我に返った日和は、文字を追うのを諦めて
「私も同じものを」
と答えた。
亘が店員に注文を伝えるのを聞くともなしに聞きながら、パーテーションの向こうの二人に思いを馳せる。
――今まで、透の浮気の兆候はまったく感じなかった。
彼の態度が多少違ってきたのは、長年連れ添った夫婦のような落ち着きから来るものだと思っていたし、部屋に遊びに行ってもほかの女の気配を感じたこともない。
(……私が鈍感なだけ?)
自分も多少マンネリしていたから、彼をちゃんと見ていなかったのだろうか。
(それか、私と距離を置きたいって言ったのは、とりあえずあの子と付き合ってみてどっちがいいか決めるためだったとか?)
それはそれで非常にむかつく。
どちらにしても、透と日和は別れた訳ではないのだ。やっぱりこれは、浮気になる。能天気に「久しぶりに会ったら喜ぶかな」なんて考えていた自分が情けない。
「おい。食わないのか?」
怒ったような低い声で亘に尋ねられ、日和はいつの間にか目の前に置かれた天丼に気づいた。ボリュームのあるそれが、湯気を放ちながらおいしそうな匂いを漂わせている。
「……いただきます」
一番上に乗っていたししとうを選び、口に運ぶ。
一口噛み切ると、衣がさくっと音を立てた。その後、濃すぎない甘辛のたれとししとうの味わいがじんわりと口の中に広がる。
「おいしい」
一言そうつぶやいたとたん、日和の目からポロリと涙がこぼれた。
「あ……ごめんなさい。アレルギーが……ちょっと花粉症で……」
日和は実際花粉症だが、その日は症状は出ていなかった。咄嗟に出てきた言い訳がそれで、我ながらうまく誤魔化せたと思いながら、バッグからハンカチを取り出して目元を拭う。
「花粉症って春だろ? ずいぶんずれてんだな、日和」
亘の言葉に、日和はむっとして鼻をすすりながら顔を上げた。
「秋もあるんですよ、花粉症! 春は杉、秋は菊科。ちなみにですね、アレルゲンはイネ科とか、昆虫っていうのもあるんですよ。知らないなんて……亘さんは花粉症になったことないんですね、きっと」
「ないね。俺はそんな軟弱な体じゃないから」
「……! ひどいこと言いますね。今、全国の花粉症患者を敵に回しましたよ! ……あ、このおいもの天ぷら、すごく甘くておいしい」
言い返しながらさつまいもの天ぷらを食べた日和は、目を見張って箸の先を見つめた。
「ふーん。俺は甘いのは苦手だから、エビと交換してくれ」
亘が自分のさつまいもを箸で取り、日和のどんぶりに移動しようとした。すると彼女はどんぶりを片手でガードしながら、断固として首を横に振る。
「やです。エビも好きなので」
あんなに落ち込んでいたのに、いつの間にか亘のペースに巻き込まれている自分に気づき、日和は密かにため息をついた。
(そういえば、この人と会った日からついてないことばかりだな)
それでも彼の憎まれ口のおかげでなんとか平常心を取り戻すことができたから、苛立つ反面、感謝もしている。
「じゃあそっちの茄子と……」
粘る亘に、日和はすまし顔で答える。
「私、全部食べたいので交換は嫌です。苦手って言ってないで、さつまいもも食べてみてくださいよ。おいしいですよ」
しかしその気分転換も、スイーツ女の甘えた声で一気に打ち消された。
「ええ? そうなのぉ? あの人って、透の元カノだったんだぁ。透から別れようって言ったの? それじゃさすがに気まずいよねえ」
怒りを抑えようとした日和は、知らぬ間にまた俯いていた。箸を握る指の関節が、白く浮き上がっている。
(今カノだったはずですが! ……あの女、私に聞こえるようにわざと大声で言ってるよね? ふざけんな)
怒鳴りつけてやりたいと思ったが、透が日和と距離を置きたいと言い始めたのは、(おそらく)あのスイーツ女のためだろう。文句を言ったところで、透はきっとあのスイーツ女を選ぶ。みじめな思いをするのは自分だ。
鋭く息を吸って顔を上げた日和は、エビを大事に端に避け、最後に取っておこうとしている亘を見ながら唇を噛みしめる。彼の耳にもスイーツ女の声届いているだろうが、今はそしらぬふりをしていた。
――それにこの高慢男の目の前で、恥をかくわけにはいかない。絶対、あとでバカにされる
「あとは洗濯機とオーブンレンジを買えばいいのか?」
何事もなかったかのように、突然亘が尋ねた。
「……ああ、そうですね」
日和はエビを箸でつまんだまま、食べる様子もなく生返事をする。
心ここにあらずの彼女に、亘は思い切りしかめ面をしてさらに質問した。
「ほかに必要な物はなんだと思う?」
「……なんでしょうね」
答えながら、日和はエビを丼に戻した。
「いらないのか? なら、エビをもらうぞ」
「……そうですね」
エビに手を伸ばしても無反応な日和に業を煮やした亘は、指先でトントンとテーブルを叩きながら思案し始める。そのまましばらく沈黙が続いたが、亘がふいに何かを思いついたようににんまりして、ぼんやりと丼の中身をつついている日和に話しかけた。
「日和、料理は作れるのか?」
「……でしょうね」
「じゃあ今夜、俺の部屋で作ってくれ。電化製品の使い方も教えてほしいし」
「……そうですね」
「なら、家電を選んだら今度は食材だな」
「そうですね……って、え? 今、なんて言いました?」
本能でなんとなく危険を察知した日和が、不安な面持ちで亘と視線を合わせた。
「だから、家電の使い方を説明しながら、料理を作れって頼んだんだよ」
およそ頼んでいるとは言い難い態度でそう答える。
「いや――いくらなんでも、私がそこまでする必要はないでしょう? チーフにも頼まれたから、今日は家電選びを手伝っただけで。これ以上なにかをする義理はないというか……もう早く帰りたいというか……」
――本当はこの買い物が終わったら透の家に行って、秋冬のイベントについていろいろ計画を立てるつもりだったのに……
バッグの中に入れてあるお泊りセットを思い出した日和は、眉を思い切りしかめた。
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