「ああ、じゃあそれでいい……あ、いや。さすがにピンク系は嫌だな。シルバーがいい」


「やっと自分の意見を出してくれましたね。じゃあ、これのシルバーに決まり」


 日和は冷蔵庫についていた商品カードを手に取り、別のコーナーへと歩き始めた。



「じゃあ次は洗濯機にしましょうか。ドラム式と縦型、どっちがいいですか?」


 しかし、亘は動こうとしない。冷蔵庫によりかかり、疲れたような低い声で彼女を呼び止める。


「ここはうるさいから疲れたし、腹が減った。先に食事にしよう」


「疲れるの早すぎません? まだ冷蔵庫しか決まってませんよ。……ああ、なるほど。もうすぐ十二時なんですね。じゃあ混む前に食べちゃいましょうか。近くに安くておいしい定食屋があるんです。そこでいいですか?」


 亘が素直に頷く。どうやら本当に疲れているらしい。



 日和が案内したのは、大通りから外れた狭い通路の奥にある、小さな定食屋だった。看板も小さくて、知らない人が見れば普通の民家と勘違いするかもしれないほどに質素な佇まいだ。

 店主の男性は七十は超えていそうな老人だが、見た目からは想像できないほど元気で、てきぱき動く。それに何より、食事がおいしい。だから日和は、池袋に用事があるときはよく顔を出していた。


「らっしゃい!」


 扉を開くと、店主の元気な声が出迎えた。


「こんにちは」


 にこやかに挨拶を返しながら席を探した日和の視線が一点で止まり、次の瞬間、表情が硬くこわばる。


 急に立ち止まったせいで後ろにいた亘がぶつかりそうになり、何やら文句をつぶやいた。しかしショックを受けている日和の耳には入らない。こわばった表情のまま、店の奥へと足を進め、カップルが座っている席に声をかけた。


「……透君?」


 笑顔で会話していた男が顔を上げ、明らかに狼狽する。


「うわ、日和? なんでここに……」


 亘から解放されたあとに訪ねようと思っていた日和の恋人が、別の女性と一緒に食事をしていた。



 相手の女性は、甘ったるい香りをまき散らす商品開発室の峰岸とどこか似ていた。最近は日和に見せたことのない楽し気な笑みを浮かべていた徹だったが、日和に声をかけられた直後、慌てた様子で中腰になった。相手の女は値踏みする視線で、日和を見ている。

 その女性を正面から見た日和は、さらに顔を引きつらせた。透き通るような白い肌、大きな瞳、グロスでつやつや輝いているぽってりとした唇。まるでスイーツのような雰囲気の、かわいらしい女性だ。女性版塩顔と呼ばれる自分とは、まったく別のタイプ。


「ここにいつまで立ってるつもりだ? 早く座ろう」


 日和の背後から、亘の苛立った声がした。


 動揺した透の視線が日和の頭上へと移動し、今度は複雑な表情を浮かべる。驚きの中に、怒りと戸惑いが入り混じっているような。

 女性も亘の美貌に目を見張り、そしてその大きな瞳に媚びるような色が浮かぶ。ぽってりとした唇がうっすらと開き、頬を上気させた。


(なんなの、これ)


 日和は必死に平静を装おうとしたが、視線はどうしても目の前の二人に吸い寄せられる。


 ――なぜ透は、私を責めるような目で見ているんだろう。私は、単に亘の買い物に付き合っているだけだ。


 しかし透は同席している女性と恋人同士のように見える。


 店主は何も気づいていないといった顔で淡々と作業をしているが、おそらく日和たちの間に漂う不穏な空気には気づいているのだろう。そして、修羅場になりかけていることに。

 その店主が、料理を運んでいる中年の女性店員にちらりと目を向けた。店主の娘で、どこか面影が似ている。親子は視線を交わしあい、何かを語り合ったあと、女性店員がにこやかな笑みを浮かべて日和のもとへやってきた。


「席をお探しですか? こちらへどうぞ」


 そう言って、透たちの席よりさらに奥にあるパーテーションで仕切られた席へと案内する。そこは基本的に予約席として扱われていた場所だったが、今回は特別に利用させてくれるらしい。


 通り過ぎるとき、透の視線が日和と亘を行き来した。そして何か言いたげに口を半開きにしたあと、怒ったようにぎゅっと引き結ぶ。


「とおるぅ、知ってる人?」


 見た目と同様に甘ったるい声で尋ねた女性の視線は、亘に引き寄せられている。透が見て驚いている知り合いは亘だと思っているらしく、彼に向かって微笑みかけた。


「あ、いや……うん、まぁ……」


 女性に尋ねられてぎょっとした透は、後ろめたそうな顔をしてしどろもどろに答えている。



 日和と透の間になにかあると気づいたのか、亘の口調がいきなり親し気に、しかも感じの良いものに変わった。


「落ち着いた雰囲気のいい店だね、日和」


(はぁあ?)


 驚いてぐるりと振り返った日和の目に、白い歯をキラリと輝かせながら彼女に向かって微笑む亘の笑顔が映る。


(なんなのその全力の営業スマイル)


 唖然とする彼女に、透がおそるおそる声をかけた。


「ぐ……偶然だね、日和」


 日和がそちらに視線を転じると、透が引きつった笑みを浮かべていた。その前では、スイーツ顔女が日和を上から下まで舐めるように見下ろした。そして微かに、唇の端を上げる。


(――なんか嫌な感じ)


 不愉快に思いながら、日和はここ数日でマスターした完璧な愛想笑いを返す。


「本当に。透君はデートなの?」


「えっ、あ、いや……」


 そう答えながら、透はちらりと向かいに座る女性を見た。きちんと答えない彼に、彼女は不満顔だ。


「この方は日和の友達? 松坂です、よろしく」


 いきなり亘が日和と亘の間に割って入って挨拶した。


「あ、どうも。日和と大学のゼミで一緒だった井上です」


 透がペコリと頭を下げると、亘はさりげなく日和の肩に手を置き、奥の席へ向かって軽く押す。


「では、俺たちは向こうの席なので……失礼します」


 日和は肩に乗った手を振り払いたい衝動にかられたが、スイーツ顔女が羨ましそうな顔をしているので、耐えた。透はもの問いたげな表情で日和を見つめている。これも無視を決め込んだ。


(なんなのもう……!)


 ――気持ちを確かめるために距離を置きたい――。


 もっともらしく言っていた恋人が浮気しているのかもしれないなんて、ちっとも考えていなかった。彼を信頼しすぎていた自分が情けないし、それに……


――悔しいし、悲しいし、むかつく。



 腹の中で渦巻く黒い感情をもてあましていた日和は自分のことで精いっぱいで、亘の気遣うような、それでいて独占欲をにじませているような視線に気づいていなかった。

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