③
正直、こんな性格の歪んでいる男と一緒に歩くなんてごめんだ――と思ったが、道行く女性はみんな、目を見張って亘を見たあと、羨ましそうな視線を日和に向けた。
(確かに見た目はいいかもしれないけど、でも……)
性格は最悪だ、と周囲に教えてあげたい衝動に駆られた。
「落ち着くまで、チーフと一緒に住めばいいのに。そうすれば何が必要か分かるんじゃないですか?」
日用雑貨コーナーを物色しながら日和が言うと、亘は不機嫌に鼻を鳴らした。
「あいつと一緒に暮らすのは嫌だ」
「え? でもすごく仲が良さそうだったのに――」
「仲はいいけど……あの部屋では暮らせない」
「えっ? まさか、汚い――とか?」
仕事は完璧、服装に乱れもなく、清潔感漂う松坂の部屋が汚いなんてまったく想像できなかったが、人は見かけによらないというのは彼女の弟で十分実感している。また上司の知らない一面を知ってしまったような気がして、日和はがっくりと肩を落とした。
松坂姉を知れば知るほど、尊敬が哀れみへと変わっていく。これからどういう顔をして接していけばよいのだろう。
一人落ち込む日和を、亘はまた呆れたような顔をで見降ろした。
「いや、そうじゃない……というか、別にいいじゃないか。俺が誰と住もうが、日和には関係ないだろ。――それとも、そんなに俺のことが気になるのか? ……まぁ、その気持ちは分からないでもないが」
亘は得意げに顎を上げた。
「は? なんでそうなるんですか……」
何が彼を勘違いさせてしまったのかと困惑し、日和の肩がさらに落ちた。
疲労感が増さないように、亘とは必要外の会話はできるだけ避けながら買い物をするうち、あって当たり前と思っていたものが彼の部屋にはほとんど揃っていないことを知った日和は困惑した。
「これもないんですか? ……じゃあ逆に、今は何が部屋にあるんですか?」
「ベッドとテーブルと……トラベル用のアメニティグッズ?」
「調理器具や食器は……」
「俺、料理しないからいらないし」
「えっ、じゃあ、冷蔵庫とか洗濯機は?」
「冷蔵庫はあるが、ドリンク専用の冷凍庫がない小さいやつだから、普通のが欲しいな。洗濯機もない。シャツ系はクリーニングに出しているし、下着と靴下は手洗いで十分だから買ってなかった。まだ帰国したばかりだから、そんなに洗うものもないし」
日和はこの高飛車な亘がかがんで下着を洗っている姿を想像し、思わず吹き出しそうになった。腹が立ったらその姿を妄想して笑ってやろうと、想像した姿を脳裏に焼き付ける。
「――じゃあ、最低限必要な家電も揃えましょうね。とりあえず今日はそろそろ遅いので、帰りたいんですけど」
すると亘は怪訝な顔をする。
「どうして? 一気に決めてしまおう。何度も買い物に出るのは面倒だ」
「でももうすぐ閉店ですし……明日も仕事なので。それに、お腹も空きました」
「そうか。じゃあ今日はこの辺にしておこう。また連絡する」
付き合ってくれたお礼にご飯を奢る、というセリフは一切出てこない。こんな男と一緒に食事なんて……とは思うし、そう言われたところでどうせ断っただろうとも考えたが、なにも言われないのはそれはそれで腹立たしい。
(せめてありがとう、の一言は? ……ていうか)
イライラしていて一瞬聞き流してしまった日和だったが、彼の一言がふいに脳の中でクローズアップされた。
「あの、また連絡するって……え? 私、またあなたの買い物にお付き合いするんですか?」
「当たり前だろ、まだちゃんと揃ってないのに。もうやめるつもりだったのか? 無責任だな」
「無責任って……」
今回は善意で付き合ってあげたのに、まさか無責任なんて言われるとは思っていなかった。
(なにこの親切仇返し男は)
ぐらりと視界が揺れる。強い怒りを感じると眩暈を覚えることがあるということを、日和はこの日初めて知った。
「あの、私だってそんなに暇じゃなくてですね。当たり前のように付き合わされるのは迷惑なんですけど」
この際、上司の弟というフィルターは取っ払ってしまおうと日和は思った。
――この男にいちいち気を遣っていたら、精神的に参ってしまいそうだ。
「迷惑? だって日和は姉さんの部下だろ?」
「松坂チーフの部下ではありますが、あなたの部下ではありません! それにこれは業務とは関係なく、あくまで私個人の親切として今日はお付き合いしただけです。無責任とか言われる覚えはありません」
――これが自分の弟だったら、首根っこをつかまえて叱りつけるところなのに――。
「偉そうに。別に俺だって毎日暇って訳じゃないんだから、明日も――とは言わないよ。週末ならいいだろ? じゃあ、また連絡する」
「いや、だから! 私の話を聞いてました? 週末とかそういう話ではなくて……」
話の途中だというのに、亘は片手を軽く振って背を向け、スタスタと歩き始めた。
(あの人、じつはものすごい方向音痴?)
慌てた日和は、すぐ目の前にある地下鉄の階段を指さして叫ぶ。
「ちょっと! 駅はこっちですよ!」
「ああ、俺、違う路線だから」
どうやら自分を駅まで送ってくれたらしいと気づき、日和は苦笑して離れていく亘の後ろ姿を見送る。
(これだけですごく良い人に感じるなんて。今日一日で、感覚が麻痺しちゃたのかな)
「おい、邪魔!」
通路を塞いでぼんやりしていた日和は、酔っぱらいの中年男性に怒鳴られて慌てて歩き始めた。
――本当に、ついてない一日だった。
思い返したとたんに、どっと疲れが出た。
――これ以上なにも起こらないうちに、早く家に帰らないと。
家路を急ぐ日和は、足を止めて遠くから彼女を見つめている亘の視線に気づかなかった。
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