私はあなたの部下じゃない
「さっきはごめんなさいね、高丸さん。姉弟ふたりきりなものだから、どうしても甘やかしてしまって」
まだ人気のない会議室でそれぞれの席に書類を並べている日和に向かって、松坂が声をかけた。
「いえ。――す、素直な弟さんなんですね」
物は言いようだと思いながら、日和は必死に褒める言葉を絞り出す。
「そうなの! それで、私の手が空いていないときは、高丸さんに彼の窓口になってもらおうと思ってるんだけど」
「……え? どうしてですか?」
話がいきなり切り替わり、表情を作る間もなかった。あからさまに拒絶の表情を浮かべてしまった日和は、上司の鋭い視線を受けて慌てて笑顔を取り繕う。
「だってあの子、見た目が良いでしょう? 世間知らずなところもあるから、チャラチャラした子に任せる訳にはいかないと思って」
(そうですね。世間というか、常識を知らないですよね、彼)
笑顔は崩さないよう心掛けながら、心の中でそう答える。
「あの子もあなたを気に入ったみたいだし、これからよろしくお願いね」
(とても気に入っていただけたとは思えなかったし、私はあなたの弟さんがとても苦手ですが! 本来なら絶対に近づきたくないタイプですが!)
日和はまた心の中でこっそり文句を言いながら、
「こちらこそ。――あ、そろそろ皆さんがいらっしゃる時間ですね。お茶の用意をしてきます」
と上司のそばから離れる。
(――顔面神経痛になりそう)
愛想笑いのしすぎでこわばった顔の筋肉を指でもみほぐしながら、日和は給湯室へ向かったのだった。
会議室に役員が集まり、上司がプレゼンを開始すると、日和は広告企画室に戻った。すると飯島が近づいてきて、
「さっき第一ブースに来てた客、松坂チーフと妙に親しげだったけど……どういう関係なのかな。以前からの知り合い?」
と小声で尋ねた。
「違うよ。チーフの弟さん。カラさんとこの営業で、今度からうちの担当になったんだって」
「へえ。弟なんだ? どんな人だった? チーフと似てるのかな。だったらきっとイケメンだよね」
「顔はなんとなく似てるような気がするけど、性格は……ぜんぜん違う、かも。そんなに話してないから分からないけどね」
思わず愚痴を言いそうになり、日和は口ごもった。
何気ない噂話がもとで、身を滅ぼした社員を見たことがある。だからここで自分が上司の弟に関する愚痴を飯島に話したら別の誰かの耳に入り、その誰かから松坂の耳に入るかもしれない――と考えたのだった。
松坂が弟の窓口に自分を指名したのも、こういった慎重すぎる性格を見越してのことかもしれない。
「そっか。弟さんだったのかぁ。……俺、仲良くなれるかな」
松坂に憧れている飯島は、亘から情報収集をしたいらしい。
「ど……どうかな。あ、内線だ!」
亘に関する話題から離れたい日和は、いそいそと受話器を取った。自分の席へと向かう飯島の背中を見送りながら、
「広報企画室、高丸です」
と応対する。
「商品開発室の久山だけど」
「ああ、お疲れさまです。チーフはまだプレゼン中ですが……」
「うん、知ってる。だから高丸さんに連絡したんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「カラさんの松坂さんとの打ち合わせが終わったんだけど、そっちになんか連絡したいことがあるとかで」
「カラさんの……えーと、どんな用事でしょう?」
また買い物でも頼むつもりなのだろうか――と、日和は思わずため息をこぼす。すると久山が声を荒げた。
「知らないよ! そっちに関する話だろ? 俺、これから外に行かなくちゃで時間がないのに、頼まれたから連絡しただけで!」
商品開発室のベテランでヒット商品も数多く担当している久山は、短気でも有名だ。その久山の不機嫌な声を聞いて、日和は飛び上がらんばかりに椅子から立ち上がった。
「す、すみません! すぐに向かいます!」
「四番ブースを取っておいたから、そっちに行って」
「はい! ありがとうございます!」
亘とは会いたくないが、今は久山の不興を買うほうが怖い。
走り出さんばかりの勢いで、日和は打合せブースへと向かった。
「ずいぶん慌ててきたんだな。息が切れてるぞ。そんなに俺に会いたかったのか?」
長い足を組んで椅子に座っている亘は、まるでポートレートを撮るためにポーズをとっている美しいモデルのように見えた。
――黙ってさえいれば、だけど。
残念に思いながら深く息を吸い、息を整えてから日和は尋ねた。
「チーフは現在、役員との会議中でして……あと一時間程度かかると思いますが、お急ぎですか?」
「うん、それは聞いた。だから高丸さんを呼んでもらったんだけど」
そう答えて、亘は片方の口の端を上げてふてぶてしい笑みを浮かべた。
「それで……どのようなご用でしょう?」
「この後、買い物に付き合って」
「はい?」
「俺、日本に戻ってまだ一週間なんだ。ずっとホテル暮らしで、住むマンションも昨日決まったばかりでさ。だから生活に必要な諸々の物を揃えようと思うんだけど、なにがいいのかぜんぜん分からないし」
日和の顔がこわばった。筋肉が攣ったように痛んで、愛想笑いを浮かべることができない。
「え、だって――アメリカでは、一人暮らしをしていたんですよね?」
「あー、違う。向こうで暮らしている友人宅の空いてる部屋を貸してもらっていただけだから」
「……チーフに頼めば良いのでは……。それに、それは業務外――というか、完全にプライベートな用事ですよね」
いくら弟に甘くても、仕事に関係ないところで部下を使われたら、さすがに松坂も怒るだろう。松坂が怒らなくても、この行為はビジネスコンプライアンスに反するのではないか。好意で頼みを聞いたとして、こいつの依頼がどんどんエスカレートする可能性は非常に高い――と思い、日和はきっぱり断ろうとした。
「プライベートな用事は、ご家族に頼んだほうが良いと思います」
「ああ、うん。でも姉さんは忙しいし、今日も遅くなるみたいだから――どうせ高丸さんは定時で上がるんだろ? だったら付き合ってくれたっていいじゃないか」
完全に見下している発言に、日和の頭にカッと血が上った。
「わっ、私だって、忙しいんです! なんの用事もないと思ってるんですか?」
すると亘は心底驚いたといった顔をした。
「え、あるの?」
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