②
「そうなんですか? 妊娠だなんて……! おめでとうございます! お大事になさってください」
打ち解けて話せるようになっていた折島から、この高飛車な男に担当が替わるなんて、ギャップが大きすぎる――と内心がっかりしながら、日向は笑顔で祝福の言葉を述べた。すると男は眉を上げ、バカにしたような表情を浮かべる。
「関係のない俺に言われても困るんだけど。俺の子じゃないし」
「……え? ――あ、はい。言葉が足りませんでしたね。おめでとうございますと、折島さんにお伝えください」
気力が萎えて、日向は顔を引きつらせながら言いなおした。すると亘はまた、小ばかにした笑みを浮かべる。
「ああ、そういうことね。だったら最初からそう言ってくれればいいのに」
――説明しなくても分かりそうなものなのに。
日向の中で、不快感がどんどん大きくなっていく。
この男はなぜ、取引先の者に対してこんなにも横柄な態度を取っているのだろう。カラの人なら、基本的にはこちらがクライアントの立場なのだ。いくら決定権のない事務という立場の自分が相手でも、いきなりため口をきいても良いとは思えない。
ビジネスの場でこのような態度を取る者がいればきつい一言を浴びせるであろう上司は、今もニコニコと微笑んでいる。
(松坂さん、なんでこんな男に骨抜きに……。ん? この人も松坂って言ってたような……)
二人の苗字が同じだということにやっと気づいた日向は、呆然として二人を見比べた。
そういえば彼を紹介するとき、松坂は呼び捨てしていたではないか。
よくよく見れば、どことなく面影が似ているような気がしないでもない。
「あの……もしかしてお二人は、ご親族でいらっしゃる――?」
「そうなの。実は、私の弟なのよ。先日まで事務所が提携しているアメリカのデザイン会社に出張していたんだけど、戻ってきたとたんにうちの担当になるなんてね」
「ああ、なるほど……。それは良かったですね。取引相手がお姉さまなら、きっと心強いことでしょう」
逆にやりにくくないのかと尋ねそうになり、日和は慌てて言葉を飲み込み、真逆の言葉を口にした。二人の表情を見る限り、むしろ自然体で気楽にやっているように見える。
「姉貴の部下なんだろ? これからよろしく」
亘の横柄な口調にむっとしたが、上司の弟なのだから――と、日和は愛想笑いを向けた。
「よろしくお願いします。では私はこれで……」
ブースを出ようとした日和を、今度は亘が呼び止める。
「なんだよ。俺が挨拶したのに、どうして名乗らないんだよ」
日和が今後亘と接する機会があったとしても、おそらくお茶を運ぶか電話の取次ぎ程度だろう。その程度の接触なら上司が打合せをしている相手に名を聞かれることはないし、まして自分から名乗ることもない。しかも上司は弟を紹介はしたが、日和を紹介しようとはしなかった。なのに自己紹介するのはおかしい。
――事務方は静かに茶を出して、静かに去る。
それが当たり前だと思っていたのに、この男はなぜ怒っているのか。
ため息がこぼれそうになったが、日和は気力を振り絞って愛想笑いをキープし続ける。
「……ああ、申し訳ありません。松坂チーフのもとで事務を担当しております、高丸日和と申します。よろしくお願いいたします」
ペコリと頭を下げる日和を見て、亘は満足したように頷いた。
まるで上司のような態度にまたむかついたが、日和は耐える。彼の姉である上司の不興を買えば、彼女か自分が異動するまで針の筵での生活が待っているから。
その上司が、ニコニコしながら日和に指示を出した。
「高丸さん、ありがとう。席に戻ったら、私のデスクの上にあるレジュメをコピーしてまとめておいて」
「はい」
ブースを出たとたん、日和は大きく息を吐いた。別のブースで打ち合わせていた同僚の飯島が日和に気づき、「どうした?」と尋ねるように眉を上げる。打ち合わせの相手は書類に目を通していたから、飯島の動作には気づいていない。
日和は苦笑を浮かべて小さく首を横に振り、なんでもないと答える。飯島はちらりと松坂のいるブースに視線を向け、訳知り顔で頷いた。
しかし背後からあの男の声が漏れ聞こえてきたとたんに沸々と怒りがこみあげてきて、早足でブースから離れる。
(まったく――ありえない。姉が一緒だからって、あの態度はないでしょ。商品開発室の人にもあんな態度を取ったら、即効切られちゃうんじゃないの?)
それとも自分が姉の部下で、いかにも下っ端な雰囲気を漂わせているから舐められたのだろうか。
(それにしたって……松坂さんも松坂さんだよね。ブラコンもいいとこ)
仕事には厳しいし、普段は近寄りがたいオーラを漂わせてはいるが、非常に仕事のできる上司に対して尊敬と憧れの念を抱いていた。しかしそのイメージが一気に崩れ去り、これ以上ないほどに幻滅している。
「もう! 信じらんない!」
思わず小声で吐き捨てていた。
――それから二時間ほど過ぎた頃。
「高丸さん、これから上にプレゼンするから、会議室にさっきの資料を持ってきてくれる? あと、十人分のお茶を用意して」
松坂から指示を受けた日和は、書類を両手に抱えて席を立った。
今はいつも通りのクールな松坂だが、どうしても先ほどのデレた表情が重なってしまう。その顔を見るだけでイライラしそうだったから、日和は俯いて会議室へと向かった。
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