震災文芸誌『ららほら』読了

『ららほら』読了。本書は東日本大震災にかかわる言葉や物語を集めた震災文芸誌である。企画を知った時から気になっていた。

最初の章「当事者たち」の最初の一編「家族という壁」を読み出して驚きと困惑に襲われ、それから感銘を受けた。率直に言ってひどく読みにくい文章だったが、それが雑だからではなく懸命に言葉を紡いだ結果のものと伝わってくる。日頃、肌触りのよい文章、のどごしの柔らかい文章ばかり与えられている私にとって、かけがえのない貴重な体験となった。

現在市場に流通している書籍は肌触りのよい文章、のどごしの柔らかい文章ばかりだ。「胸が張り裂けそう」、「泣いた」と多くの人が感想をよせる小説を読んでも、それはあくまで「感動したい」という準備の整った相手になんのひっかりもなく届いているだけの話だ。多様性のかけらもない、お約束の範囲内でのバリエーションのテーラーメイドの書籍の洪水。

『ららほら』にあるのはむきだしの生の体験と言葉だから、想定してたように物語は進まないし、いくら読んでも結論にはたどりつけない。触れた時に思わず手を引っ込めそうになる人間の体験がそこにはある。のどにもつっかえる。


そして『ららほら』は他人事ではない。日本人が共有する体験なのだ。さまざま境遇の人々が、それぞれの思いであの体験を抱えて生きている。『ららほら』には、あの日、あの場所にはおらず、震災後に戻っていった人の物語もある。メディア関係者の物語もある。


日本人は多様性のコストを嫌う傾向がある。社会は多様である方が豊かで優しくなれるが、それはその分のコストがかかる。なので同調による低コストになれた我々はリスクを忘れて多様性を排除する。

震災の使いについても同じだ。『ららほら』の『語りにくさをくぐり抜ける小さな場づくり』では、福島を語ることが面倒になったと説明し、特にSNSがそれぞれの正義の極論をぶつけ合い、人格を否定し合う場になったと書いている。


福島を語ることは、確実に面倒なものとなっている。そうして風化や無関心は進み、「風評と呼ばれるものだけが残るのかもしれない。(『ららほら』117ページより引用)


『「亡き人への手紙」から考えざるをえなかったこと』では手紙という表現を通して、当事者の抱える問題が浮き彫りにされている。特に「二重の時間」については、はっとさせられた。震災で亡くなった相手に手紙を書く時に、亡くなった年齢を想定して書くのか、それとも成長を続けていると考えて書くのか、を迷い、苦しんで手紙を書けなくなるのだ。


『ららほら』は震災が私自身の問題であったことをあらためて思い出させてくれるとともに、多様性を失った小説に埋没している日常を再確認させてくれる貴重な一冊だった。

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