風に乗って

 目が覚めた。なんだか夢の続きみたいで、眩しいとは思わなかったし、感じることもなかった。視線の先には、あまりにも白い天井がある。普段はうつ伏せで寝るため、新鮮な気持ちがした。

 頬がひんやりと心地良い。冷房が効いているのだ。枕の上でゆっくりと頭を傾け、部屋の中を見回した。レースカーテンから入り込む明かりは朝焼けだろうか。夕焼けだろうか。窓がどちらの方角を向いているのか分からなかった。足元の方でテレビ放送が流れている。夕方のニュースだった。そこから伸びた安っぽい白のイヤホンを両耳にはめ、何かを食べている仕草の後ろ姿がある。肩まで伸ばした黒髪の毛先が外側に少し跳ねていた。

「ねぇ、なに食べてるの?」

 やっとのことで出た俺の声は掠れてしまっていた。受けとった橙子は胸のあたりをトントンと叩きながら慌てて水を飲む。手に持っていたのは饅頭だった。

「聞こえてる、よね?」

「もちろん! よかった」

 イヤホンを外した橙子が言った。ちゃんと声が伝わっている。そういえば俺も腹が空いていた。意識が向いた途端、今にも鳴り出しそうなほどだった。空腹を喜びに感じたことはこれまで一度もなかった。


 やがて、深呼吸をした橙子は事の経緯を話し始める。

「あの日、実家に帰るために予約していたバスに問題が起こってさ、それが爆弾騒ぎだって。一日後にしか代わりの便は出ない。って言うからさぁ、だから私すぐ家に帰ってきたのね。そしたら家であなたが倒れていた。これが虫の知らせか、と思ったわ」

 それからすぐに救急車を呼んで、入院させられたとのことだ。

「昨日から、症状が落ち着いたみたいで、安心してたけど、最初は、もう少し発見が遅れていたら命はなかったでしょう。今も非常に危険な状態です。意識が戻ることはないかもしれません。なんて言われちゃったんだからね」

 橙子は長いこと付き添ってくれていたらしい。だから一日ずれていたのか。

「あなたならきっと戻ってくると思ってた。もしも一人で先にいってしまうなんてことがあったら呪ってたわよ」

「じゃあ、それが怖くて戻ってきたのかも」

「なにそれ、とにかく愉快犯に感謝しなくちゃね」

 そう言って橙子は笑うのだ。思わず俺も一緒に笑った。

 これで、ようやく合点がいった。道理で家に俺の死体がなかったわけだ。

「そういえば、家で不思議なことがあったの。教えてくれたのはあなた?」

「さあ、どうだろうね」

 嬉しそうに微笑む橙子はきっと指輪をまたあの引き出しに戻しておいたのだろう。ということは……しまった。タイミング失ってしまった。いつ渡したらいいだろうか。全く困ったものだ。

 俺は言葉が自然に伝わることを今一度、今ままで生きてきた人生分、噛みしめて言う。

「なぁ、橙子。夏も終わったことだし、落ち着いたら紅葉でも見にいかないか?」

「えぇ、嬉しいわ。ぜひとも行きましょう」

 橙子の跳ねた毛先がまた、ふわりと揺れた。

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いくつかの夏の終わりに 京町正巳 @masamimachi

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