夕陽、自転車、それと晩御飯
ベランダに並べられた二つの椅子にちょこんと腰掛けて、落ちかけている夕陽を浴びながら秋口へと向かう夜が深まるまで、とりとめのない会話を続ける。いつ始まったのか、いつ終わってしまうのか分からない日課が、ぼくとリリにはあった。真っ赤とオレンジとの間の空が、柔らかくて濃い藍色に染まっていく――。
「ねぇ、あなたは今日なんの話をするつもり?」
「そうだね、リリ。決まってはいないけれど、終わってしまった夏についてでも話そうか」
「今年もあっという間だったわ。私は毎日忙しかったけれど、あなたはどうせクーラーの効いた汚い寝床で、心ゆくまでぐうすかやっていたんでしょう? 勿論ろくな運動もせずに。全くいいご身分だことね」
「否定はできないから、おおむね正解ってところかなぁ。でもね、ぼくはいつだって頭だけは働かせているんだよ」
タオルケットに潜り込んで、わずかに出した足に冷房が当たる時間と当たらない時間とを、うとうとしながら過ごした日々を脳裏に思い浮かべる。あんなに長かった夏の日々が、永遠にも思えた時間が、気がつくとまるで初めからなかったかのように終わってしまっていた。これはいったいどういうことなのだろうか。閉め切られた窓の向こうでかすかに聞こえる風鈴の音が、ずっとずっと昔の事のように感じる。
「ということで、質問をさせてもらおう。一週間についてだ。月曜日から日曜日までの七日間という時間の長さを、リリはどう感じる?」
「うーん、どうだろう。かなり膨大な時間なはずだけれど、何か出来そうでできないのよね。少し短く感じるかしら」
答えたリリは中空を見つめ、過ぎ去ってしまった今週のことを振り返っているようだった。
「では、次の質問。リリは早朝に目を覚ました。そうだな、河川敷へと散歩にでもいこうか。朝露の匂い。川がせせらぐ音。海のような空の色。あるいは空のような川の色。薄くてまばらな雲の群れ。天気がすこぶるよろしい朝だ。さて、これから一日何をして過ごそうか」
「そうね。散歩ついでに、友達の女の子のところまで足を延ばそうかな。河川敷の先、橋の向こうに住んでいるの。そのまま駅前のパン屋に寄ってもいいわね。毎日とってもいい匂いがしているのよ。帰ってきたらお昼寝でもしようかしら。ずっと迷えるくらい時間があるわ、困っちゃう」
「そうなってしまうよね。ここに座ってぼくと話をし始める夕方は、うんと先の方にあるように思える。けれど、さっき答えたように一週間を考えるとどこか短いような気がする」
「時間って不思議なのね」
「それがなんでか分かったんだ」
「どうして?」
「考える地点によって変わってくるんだよ」
「わかりやすく言ってよ」
「じゃあ、質問。昨日は何をしたか教えてくれないかな」
「起きるのが遅かったからお昼を簡単に済ませた後で、お出掛けしたわ。さっき言った彼女と海まで行ってきたの。いいでしょう? 帰ってきてからは、あなたとくだらない話をしたくらいね。あっという間に終わってしまった気がする。あ、そういうことね」
「そう、極端な言い方をすると……、想像は無限大で、記憶には限りがあるってことかな」
もし、常に一挙手一投足を覚えていることができるのであれば、時間はいつだって同じように流れるのかもしれない。あるいはこれから続く未来を余すことなく想像できる人であれば、もう一刻の猶予もないと感じるのかもしれない。ぼくはリリの形の良い鼻を眺めながら心の中でそんなことを思った。
「この世界はとてつもなく広いから、悠久を彷徨っている人間も、もしかしたらいるのかもしれないね」
「それなら……」と、リリが言いかけたところで、ちょうど夕方のチャイムが近所に鳴り始めた。途端にリリは話を中断し、少し遠くを眺める。たぶん、あの夕焼け空のあたりを見ているのだろう。ぼくもおよそ同じところに視線を移した。
「遠き山に日は落ちて」が鳴り止めば、夜の気配が忍び寄ってくる。また一日が終わろうとしていた。
「と、まあこの話はこれくらいかな。ほら、そろそろあの子が帰ってくる頃だよ」
ほどなくして、演劇の小道具らしきものをたくさん身につけて自転車をこぐ少女が通りの向こうからやってきた。ワインレッド色をした車体が規則的に夕日を反射させていた。
「あの子だ。どうだい?」
「狐の面にチャイナ風の服。背中には機関銃を背負ってるわね。随分と変な格好をしてる、とてもじゃないけど趣味が悪いわ」
「そこじゃないよ。先週も白仮面に黒マント、紐付きのシルクハットを頭に乗せて、腰には日本刀、と変な格好をしていたじゃないか。何色だったかちゃんと覚えているよね?」
「えぇ、あなたが何度も何度も耳にたこができるまで言うから。目が覚めるような真っ青の自転車だったわ」
「ほら、言った通りになったでしょ」
上の方から、ほんのりと焼き魚の匂いが漂ってきて、二人してそちらにつられそうになった。そろそろお腹も空いてきた。くちゅん、とリリがくしゃみをする。相変わらず、すらりと高い形のいい鼻をしている。
「ま、今回は珍しく本当のようね」
「心外だなぁ。ぼくは嘘をいったことなんてないよ。さらにおかしなことがあるんだ。ぼくの記憶を辿ったところ、平均して一週間のペースで一日だけ色と形の違う自転車に乗って彼女は帰ってくる。どうも色が変わる曜日が正確に決まっているわけではなさそうで、同じような形の色違いに乗っていることもあるし、乗っている自転車は、見るからに古ぼけていたり、さらには電動アシスト付きだったりもする。ちなみに彼女が本来乗っているのはリリが見たあの真っ青な自転車だよ」
「あぁ、分かったわ。あの子の背景を考えればいいのね」
リリはちょっぴり微笑んで返事をした。
「察しが良いことで」と、僕は返す。
リリは目を細めて考える。その姿は夕陽が眩しいような感傷的な姿で絵画みたいに映えた。そして、しとやかに口を開く。
「自転車が好きなのね、きっと。わたしは乗ることができないけれど、風が気持ちよさそう。一度でいいから河川敷なんかを走ってみたいわね」
「ぼくはたまに乗っているよ。言う通り速くて気持ちが良いのは確かだ。だけど、虫が顔にあたる嫌な思い出しかないや」
リリは一瞬、顔をしかめてから次の考えを口にする。虫が苦手なことはないだろうが、顔に当たるのは誰だって嫌か。
「彼女は大金持ちのわがままお嬢様。同じ自転車ばかりに乗っていたら飽きちゃうわ!」
リリは照れくさそうに頬を撫でながら「なんて言ったりしているんじゃない?」と、付け足した。
「確かに、可能性はあるかもね。この先の高校は有名な私立女子校だって言うし。お嬢様だったらながーいヘンテコな車で登校しそうなものなのに。けれど、それだと一日だけってところが引っかかるんだよね」
「じゃあ、あなたはどう思うの?」
ぼくはわずかに考えたフリをして予め用意していた推測を披露する。
「ぼくの推理によるとね、彼女はものすごく早起きで、ものすごく大泥棒なんだ。決してその片鱗を見せない裏の世界に生きる人間さ。おそらく学校に放置されている自転車を狙って盗みを働いているんだ。問題にならないのは、次の日の早朝にはこっそり元の位置に返してしまっているから。つまりこれは盗まれていないのと同義だね。バレなければなんでもやっていいんだよ」
「でも、なんの意味があるんだろう?」
「やっぱり自転車フェチなんだよ。そこは揺るがないだろうね。人の自転車の乗り心地が気になってしかたがない。変則ギアが入れ替わる瞬間。錆びたチェーンが擦れる音。サドルの柔らかさとかペダルの重さとかがね」
「たしかに服装からも、変人の様相がひしひしと伝わってくるわね。でも、そもそもの話、これくらいの時間ならまだ学校が閉まるには早すぎるんじゃない? 放置されている自転車は見分けがつかないと思うけれど」
「さすがリリ。なかなか鋭いじゃないか」
「相変わらず遠回りが好きなのね、あなたは。よそではその癖やめといたほうがいいわよ。きっと嫌われちゃうと思うの。ところで、もうとっくに結論は出てるんでしょ?」
「実は、彼女は被害者なんだよ。頼まれてやっているんだ」
「まさか、そんな極悪非道なことをやらせる悪魔がこの世に存在しているって言うの?」
「違うよ。ごめん、被害って言い方は悪かった。彼女たちは善意でやっているんだ。利用者の安全を守るためにね」
「さっぱり見えてこないんですけど」
「つまりは、こういうことだ。この先の大通りにあるおっきな交差点があるのはもちろん知っているよね」
「えぇ、ほぼ毎日通っているわ」
「そこに随分と錆くさい自転車屋があるだろう? 彼女の家はそこなんだ」
「それって答えになってる?」
「じゃあ、こんな売り文句をリリに授けよう。『自転車修理承ります。安全確認ため、ご返却に時間がかかる場合があります(代車無料サービス有り)』ってね」
リリは「なるほどね」と、ごたいそうに喉を鳴らした。
「ぼくの推理はどうだったかな?」
「素敵だわ。まさに真実は可変なりってところね」
「なんだよそれ」
「私の友達の女の子の口癖よ」
「意味は?」
「さあ、なんだったかしら。たしか真実は状況によって変わるとかなんとか……。そんな、どうでもいいことより、やっぱりあなたは、つくづく計算高い猫なのね」
そうリリが言うと同時に、後ろでガラガラと窓が開く音がした。
「また白猫ちゃんとデートかい? ご飯の時間だよ。ほら、君も食べていくといい」
掠れた声でいつもぼくに良くしてくれるここの主人は言った。ぼくはリリに目配せしてから「にゃー」と、甘えた声をあげた。
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