機能性置き土産

「やっぱりスメルハラスメントだと思うんだけどなぁ」

 伝票を握りしめて栞さんは言う。モラル、カラオケ、ブラッドタイプ。なんでもハラスメントをつけることは良くないと思うけれど、たしかに臭いに関しては被害は甚大としかいいようがなかった。

「私、くさいのは嫌だよ」

「そうでしょう? つまり効果的に攻撃できるってことだね」

 下品な話題なのに栞さんからは不快の「ふ」の字すら出てこない。私とは根底から違うことの裏づけでもあった。

 証拠として、栞さんの素敵な所を挙げていくと、まるでキリがない。まずは、料理が得意だ。そしてスタイルも抜群、スポーツ万能。多趣味多芸で聡明で。おまけにお金まで持っているときた。同時に、私の短所が猛烈な勢いで浮かび上がったので、ここらで数えることを止めにする。あきらかに住む世界が違うような気がした。

 たとえばこれから二年が過ぎて私が今の栞さんと同じ歳になれば何かが変わるのだろうか。万が一のそういう変化が、きっと突然変異と呼ばれるのだろう。

「いいのよ、佑未。ほら、わたし先輩なんだから」

「そんな、申し訳ないよ」

 せめて端数だけでもとレジに置かれた受け皿に私は小銭をねじ込む。

「おー、気が利きますなぁ」

 くどくどと拒否はせずにありがたく受けとるところがなんとも栞さんらしくて好感が持てる。

「ほら、二次会もとい作戦会議いくよー!」

 私の右手を引っ張ってずんずん先を行く栞さんは、アルコールがまわって少しだけふらついていたが、それでもいても美しかった。街のネオンサイン全てが栞さんのためにあるように思えるくらいだ。終わりかけの夏に立ち込めていた人いきれはどこかに消し飛んでいるようだった。

 結局、二人で二十四時間営業のカラオケ店に足を運んだ。ほんの数刻前に隠れ家みたいな料亭の個室であれだけ練った作戦は歌うたび頭から抜け落ちていった。うまくいくのだろうか。栞さんは地上波で流れているような最新ナンバーを、ヒールを脱いでソファに立ちあがり歌っていく。しなやかな立ち姿だった。一方、地味な私も選曲は古いけれど、精一杯に声を張り上げる。思いの外、すっきりとした気分になった。

 彼氏と分かれたばかりの栞さんは、時折――三曲に一回くらいのペースで「泉はどうしようもない男だ」とか「ちょっと顔がいいからって調子に乗ってる」だとかこぼした。利用時間の終わりを告げる内線電話が鳴った後で、挙げ句の果てに「泉はほんとにクズだぁ!」とマイクに向かって叫んだりもしていた。

 私はそれらを右へ左へ適当に受け流しながら、栞さんみたいな人でも愚痴をこぼすのだ、と意外に思って聞いていた。なんだか大昔に登場する天使のようなことを想像してしまっていたのだ。すべての悪事を許しましょう、みたいな。栞さんも人間ではあるらしい。なんだかほっとする。

 要約すれば、本質として泉さんは嘘つきの見栄っ張り、プライドが高くて強情で、豪勢な詰め合わせセットみたいに盛りだくさんな性格らしい。栞さんとはまるで真反対だ。極めつけは女性にだらしない、とのこと。ボロが出るまでに半年以上の時間がかかったということは、どうも表面上は取り繕うことがうまかったということになってしまう。わたしはともかくとして、栞さんが鈍感すぎるなんてことはないだろうから。

 二度の時間延長を乗り越えて何杯目だかのハイボールが空になった頃、私というよりは栞さんがようやく満足することになった。カラオケ代は宿泊代と称して栞さんが全額出してしまった。一人あたり二千五百円だったのだ。

「私、これでも社会人なのよ」

 これでいつも押し通される。私は大学四回生で、栞さんは社会人二年目である。ちなみに、栞さんと泉さんは同い年だ。

 栞さんが家に来るのはこれで五回目になる。第一印象はとっつきにくい人かと感じたけれど、それは美人顔のせいで、話してみるとかわいらしく笑う人だった。だからあっさり仲良くなってしまった。二回目以降は、そこにいることが当たり前のように思えるまで親密になっていた。これに関しては私の一方的な思い込みではないと確信を持って言えることだ。

 二人ともお風呂を済ませて布団も敷いて、部屋着に着替えた。ようやく落ち着いたと思ったらお腹が減った。散々飲み食いしたのに人体というものは謎が実に多いし、実に深い。私は買っていおいた夕暮れ饅頭の包装を丁寧にはがして食べ始めた。

「ねぇ、夕焼けと朝焼けって写真で見たら分からないと思わない?」

 饅頭に刻印された「夕暮れ」の文字を見ながら栞さんが聞いてきた。

「確かに、タイトルだったり時間表示とかがなかったら分からないかも」

「そうだよね。じゃあ夜明け饅頭でも成立するってわけだ。そもそもどこらへんが夕暮れなのかは分からないけど」

 きっと基準が必要なのだろう。それに、そこにたどり着くまでの過程も大事なのだ。朝焼けに胸を打たれるまでの過程、夕焼けに思いを馳せるまでの過程なんかが。

「おいしいかったらなんでもいいや」

 私はそう誤魔化してもう一つ饅頭を手にとり、二つに割った。「夕暮れ」の文字はいとも簡単に裂けてしまった。

 しばらく後で、栞さんの寝息が聞こえてきたので、私はそっと電気を消す。限りなくゆっくりとスイッチを押したけれど、ピッという電子音が二度、部屋に鳴り響いてしまった。


 ノイズの混ざったアラーム音で目が覚めた。時刻はすでに午後三時を過ぎたところだ。いつからか目覚まし時計の調子が悪い。「買い替えたほうがいいよね」と、栞さんに相談したところ、栞さんの頭の中の電球がピコーンと点灯したのだ。当の栞さんは昨日で全てを出し切ってしまったのか、生まれたての子犬みたいにくぅくぅ寝息を立てて眠っている。一週間分の仕事の疲れもあるだろうし、そっとしておこう。

 私は熱めのシャワーをさっと浴びて出かける準備をした。ドライヤーで髪を乾かして、黒のパーカーとジーンズに着替える。簡素なメイクを終えても栞さんは、まだぐっすりと眠っていた。レースカーテンから漏れ出た柔らかな光の中では、まるでおとぎ話の中に出てくる眠り姫のようにも見える。

 音がしないように鍵をかけて、そっとアパートの鉄骨階段を降りながら、栞さんから貰っていた買い物リストを順番に眺める。軍手にセロファンテープ。そして、プチプチ。

 それなら、と私は交差点の先にあるディスカウントストアへ向かった。店に着くまでに調べてみたところ、プチプチの正式名称は気泡緩衝材というらしい。プチプチの日なんてのもあったので驚いた。由来は潰した時の音がパチパチと聞こえるから、とのことだった。なるほど。

 オレンジ色の買い物カゴに目当てのものを入れていく。軍手は掃除で使えるかもしれないから三組セットのものにして、セロファンテープは活躍しなさそうなので一番小さなやつにした。プチプチは、よく分からないから手頃なサイズ二種類をカゴに放り込んで、レジへ向かう。

 日曜日だったので人が少し多かった。三番レジの三番目に並んで、列が一つ進んだ時、ふと思い出す。あぁそうだ、新しい目覚まし時計も買わなきゃだった。すっかりリストから外れてしまっていた。

 帰りにアパートのすぐ近くのスーパーに寄って、いくつかお惣菜を買って戻った。揚げたてのコロッケとアジフライ、ポテトサラダ、それにしば漬け。栞さんの好物はしば漬けだ。渋い。

 玄関をくぐったら、さすがに栞さんは起きていて右手に携帯電話が握ったままこちらに駆け寄ってきた。

「佑未、ターゲットの情報を手に入れたわ」

 画面に目を落としたままで栞さんは話を続ける。

「泉はね、来週の土曜日、どうも大事な用があるみたい。やるならここしかないわ。遅刻しないように前乗りするらしくて、あいつケチだから夜行バスで行くし、ホテルじゃなくて先輩の家に泊まるんだって」

 栞さんは言って「つまり、タイムリミットは金曜日の夜」と付け加えた。

「金曜日か。でもどうやって渡すの? というか持たせるの?」

「持たせるのは簡単よ。泉は本当に卑しいから必ず食いつくわ。渡すのはこれで、泉の……」

 部屋の隅に置いていた鞄の中をまさぐって、栞さんは何かを取り出した。広げた手のひらの上には鍵が乗っていた。合鍵だ。私は合鍵を貰ったことなどなかった。こういった些細なことでも差を感じてしまう。

「佑未は木曜日の夜までに組み立てておいて、私に届けること。それでいい?」

「分かった」

「それじゃあ私、用事ができちゃったから。面倒なこと任せちゃってごめんね」

 矢継ぎ早に言って玄関へ向かう栞さんの後ろに投げかける。

「そうなんだ。ご飯買ってきたんだけど、食べていかない?」

「また来週ご馳走になるね。ごめん、ちゃんと埋め合わせもする」

 玄関の扉が閉まる直前、こちらに手を振った栞さんは特急列車のようでいて、なぜか優雅だった。私はおかしなものでも見たかのように、閉まった扉をしばし見つめ続けていた。


 軍手をはめる。箱の中身を気泡緩衝材で埋めつくす。壊れてしまった目覚まし時計を埋葬するようにそっと閉じ込め、念入りに剥がした包装を復元した。セロファンテープを、貼られていた面積分と同じだけ貼りつけて完成した。軽く振ってみる。音はしない。重さも特に違和感はなかった。どこからどうみても夕暮れ饅頭のお土産だった。

「どうかな?」

「すごい! 本物みたい」

 栞さんもひっくり返したり、振ったりして出来栄えを確認していた。

「佑未は器用ね」と、言われたが絶対に栞さんのほうが器用である。なんたって栞さんはなんでもできてしまうのだ。

「さてと。それじゃあ私、突撃してきます!」

 栞さんは敬礼して言う。右手の角度とか隠れたおでこの面積とかが黄金比になっているんじゃないか、と思う。

「絶対、ぎゃふんと言わせたいでしょ? 佑未も応援しててね」

「もちろん」

 私だって憤っている。ターゲットの煤賀泉さんは、栞さんの元彼氏、つまるところ私の元彼の名前でもあるのだから。


 ――九月三日。午後九時のニュースです。

『九月一日の夜。最終便の高速夜行バス「とくやま号」に不審物が持ち込まれる事件が発生しました。発車時刻に突如鳴り出したアラームが、爆弾騒ぎを引き起こした模様です。一人の男性乗客が「お土産から変な音が鳴り始めた」などと訴えて、車内はパニックに陥った。乗客の避難を優先したため「とくやま号」の発車は直ちに見送りとなり、乗客二十三名はその場で立ち往生、バス会社の手配したホテルで一泊するという処置がなされました。この事件について、バス会社は会見で詳しい情報を開示しました。こちらがその様子です』

 バス会社の役人三人が頭を下げる会見の映像に切り替わる。

『この度は誠に――』

 再び我が家に集合していた私と栞さんは残っていた夕暮れ饅頭を食べながら、余ったプチプチを手持無沙汰に潰しながら、その報道を見ていた。

 やがて、綺麗なハイタッチがぴしゃりと部屋の中に響き渡った。

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