季節の変わり目のこと

 人差し指の先、渦巻いた紋様のある腹のあたりに砂でざらつく感触がまとわりついて、なかなかに消えてくれなかった。

 わざわざライターを買うお金がもったいない。そう思って近所の喫茶店に置いてあるブックマッチを一つ貰ってきた。三本目でようやく火がついて、隙間に丸めて詰め込んだ新聞紙が燃え始める。徐々に細い煙がいくつか立ちのぼり、わずかだった火種が緩やかにその勢いを増していく。積み重ねた木片の隅々まで燃え盛る炎を眺めながら、あの時に飲んだウインナーコーヒーの方がよっぽど高くついたことをぼんやり後悔した。

 パチパチと火の粉が爆ぜる度、夜空に浮かんだ星と混ざっては消える。波が思っていたよりも近くまで打ち寄せていた。

「消えちゃったけど、大丈夫かな」

 僕は焚き火に向かって独りごちて、最後に一冊の手帳を投げ入れた。疑惑と願望と悪意、背徳感も一緒に封じ込めて。

 そう、今年も夏が終わってしまったのだ。


 テレビのコマーシャルや、新聞広告、陳列された商品のショーカードなんかによくパーセンテージを見かける。「九十パーセントが実感」だとか「八割の顧客が満足」だとか。堂々たる宣伝はさぞ購買意欲をそそることだろう。僕なら、それがたとえ五割の確率であったとしても十分買うに値する、と思える。この多種多様の人間がひしめきあう日本で、半分以上が良しとするならば、それだけでも信頼すべきデータであるのだ。批判や皮肉や悪意なら、一割だって心に響いてしまうのだから。

 ふと陳列された商品の先、窓ガラスに映っていた自分に気がついて嫌気がさす。うねった前髪に腫れぼったい一重まぶた。張り出た頬骨、とがった顎。ごつごつした砂利道のような肌。思わずため息が零れてしまう。

 どうしてこんな顔が表を歩いているのか、と自分を貶めれば、やれ陰湿だの、やれ性格がひねくれているだの、眉目秀麗な男を片手にした輝かしくも眩しすぎる女性たちから罵られてしまうのだ。「だからモテないんだ」といった具合に。かといって、自信満々に過ごしていたって容姿のことをとやかく言われてしまうのだから、これはもう打つ手なしのバッドエンド確定だった。

「おや、これは蓮沼くんじゃないか。こんなところでいったいなにをしてるんだい」

 ふいに後ろから僕を呼ぶ声がした。頭に響く少し高めの声、いけ好かない喋り口調。間違いない、奴だ。咄嗟に警戒態勢を敷いた僕はゆっくりと振り向く。やはり、そこには煤賀が立っていた。

「買い物だよ」

 できる限りの冷淡さで対応したつもりだが、この男は全くと言っていいほど意に介した様子はない。同じ研究室に通う煤賀。はっきりと名言しよう、僕は煤賀が嫌いだ。だけれど、煤賀はそれに気がつく素振りを見せない。むしろ、ぐいとこちらに歩み寄り距離を縮めようとするのだ。

「なになに、何を買いに来たのかな。見せてよ! お、君は普段から料理でもしてるのかい?」

 予感が的中した。けれど、ただ無視して突っぱねるようなことができないのは僕の悪いところで、ぎこちないながらも返答してしまっていた。

「一応、自炊してる」

「そりゃあ、すごいね。僕なんかもっぱらコンビニ弁当だよ。僕の住んでいるのは大学の近くの学生マンションなんだけれど、その一階、ほらコンビニが入ってるだろ? 全部そこで済ませちゃうんだ。よかったらさ、今度、蓮沼くんの料理を振舞ってもらおうかなぁ」

「食べさせられるようなものじゃないから」

「またまた、謙遜しちゃって」

 右手を顔の前で振るオーバーアクションで煤賀が答える。仕草にも口調にも、いちいち腹が立ってしかたがない。

「あ、ヨシカだ」

 ドキリ、と心臓が鳴った。煤賀は指さした方向に流れるように歩を進め、目的の人物に声をかける。すぐに名前を呼ばれた女の子が返事をするのが聞こえてきた。

「あら、すぅさんじゃん」

「あっちに蓮沼くんもいるんだ」

 やや離れたところから煤賀が僕を指さした。彼女はどうも、とこちらに会釈して煤賀に向き直る。隣の研究室に通う甘木佳香だ。煤賀のことをあだ名で呼んでいるなんて、差を感じざるを得ない。僕はセルフレジで会計を済ませ、話し込む二人を尻目に、さっとその場を離れ家に帰った。

 思わず把手を握る左手に力が入る。いつものように身が入らず、結局、夕飯は簡単な炒めもので済ませることにした。ごうっと音を立てる換気扇が、フライパンの上で弾ける水蒸気を吸い込んでいった。

 根暗でひねくれ者の僕の趣味といえば料理と漫画収集くらいで、あとはギターをやっていたが随分と前に弾くのはやめてしまった。似合わないのだ。

 もう一つ趣味と呼んでいいのかわからないが、自宅のパソコンでネットサーフィンをすることが好きだ。最近の日課、マイブームである。どこかの知らない誰かの日記を覗いたりもするのが主で、人間という膨大な数に埋もれてしまっている誰かが、人生という途方もない旅路の中で感じる何か、を知りたいのだ。そうしていないと、ただでさえ何もない僕自身が押し潰されて、中身が飛び出して次第に空っぽになっていくような気がしてならないのだ。

 さっそく二十分ほど眺めていたところ、やがて楽しめそうな個人サイトに行きついた。「アノユキコノユキ」というハンドルネームの人が日記を書いている。偏屈な日課を持った僕にだけ向けて書かれているのではないかと思うほど、閲覧数はわずかしかなかった。これくらいが丁度良くて、発掘しているような気分にさせてくれるのだ。

 ざっと目を通せば、意外にも上品な語り口で好感が持てる。まるで文学作品を読んでいるようだった。どうやら女性の方らしい。気を良くした僕はさらに過去へと遡る。

 三ページ目で僕は目を見張った。なぜだか五年も前の記事が並んだページにジャンプしてしまった。それに、一つのタイトルだけ夥しいほどのコメントがついていた。

『季節の変わり目のこと』

 どうしてこんなにも多いのだろう。訝しがりながらも内容が気になって仕方がない。ページを開いてからしばらくして、再び驚愕することになる。初めは先程までと同じ形式で、季節が変わることにしみじみとした趣を感じ入る内容だったが、突然話の内容が変わった。

 読み切ったあとで、慌ててコメント欄にスクロールする。

 ――半信半疑でしたが、見事に報復できました。

 ――本当に成功してしまいました。救われました。ありがとうございます。

 サクラではないかとも疑ったが、こんな木っ端みたいな日記に得な話があるとは思えない。でもなにより僕はこの文章が醸し出す異様な雰囲気に、惹きつけられてしまっていた。念のため日付を確認する。エイプリールフールではない。奇しくもそれは五年前の今日だった。

 価値がある。それだけで実行すべきなのであろう。時間との兼ね合いもあるけれど。後先を考えないのは僕の悪い癖だった。賭け事をしたら、きっと大敗してしまうに違いない。


 実行してから、一週間が経った。指先のざらつきがまだ消えていない気がする。

 大学に着く直前、僕の目の前を黒猫が横切った。たいていの迷信は、それ自体が僕に嫌な予感を抱かせるのではない。不幸に見舞われた人の声が僕を警戒させるわけである。実際、不吉なことが起きた人なんてごまんといるわけで、それ以前に起こった稀な現象と結びつけて凶兆ではないか、と考える人が偶然重なっただけなのだろう。そこに因果はないはずなのに、それでも嫌な予感がした。

 研究室の扉を開けてすぐ、せかせかと急いでいる様子の留学生とぶつかりそうになった。舌打ちは万国共通なのだろうか。僕はため息をついて腰を下ろす。僕のデスクは研究成果をまとめた資料やプリントアウトした論文なんかで、雑然としていた。背中側の棚には数年に一度開かれるかどうか分からない膨大な資料たちが並んでいる。

 手早くパソコンを立ち上げ、メールチェックを簡単に済ませた僕は壁にかけられた鍵を手にとって、実験室へと向かった。煤賀はまだ学校に来ていない。煤賀の机も相変わらず汚いままだった。

 昨晩から反応させ続けていた溶液を各濃度ごとにサンプリングし、測定機器にかけていく。今日は金曜日なので明日の測定分は反応させなくて良いが、午後からは結果をまとめて教授に報告に行かなければならない。秋の学会も近づいているし、てんてこ舞いだった。

 昼休憩になってからようやく煤賀がやってきた。悪びれた様子もなく「おはよう、諸君」と言っていた。実験をサボりがちな煤賀の口から出てくるのは、いつも無意味な話ばかりである。巻き込まれた後輩が一人、相槌を打ち続けていた。何の気なしでいる風に装って、耳をそばだてる。

「それでヒロインが、主人公を殴っちまうんだよ」

 小説だかアニメだか映画だかの内容だった。僕が聞きたいのはそんな話ではない。まだ何も起きていないのだろうか。ちょうど研究室にやってきた弁当屋さんから、僕は一つ弁当を買った。おかずは唐揚げと白身フライだった。

 就学の時間が終わりを告げても午前の実験、結果の整理と報告、学会の要旨作成に追われていた僕は、しばらくは疲れて動けなかった。三十分ぐらい経っただろうか、皆が続々と帰っていく中そのまま突っ伏していたら、研究室の反対側でひそひそ話が聞こえてくる。頭に響く少し高めの声、煤賀の声だった。

「先輩、ここだけの話ですよ」

 一瞬、まずいと感じたけれど、「ここ」には僕もいるのだから、僕にだって聞く価値はあるはずだ。それに僕には聞かなければならないことがある。そんな屁理屈を持ち出し、寝たふりを続けたまま音を立てないように意識して耳を傾けた。

「どうしたんだ? いきなり」

 先輩の問いに煤賀がわずかに声のトーンを落としてこう答えた。まぶたの裏ににやついている顔がありありと浮かぶ。

「彼女ができたんですよ」

「おいおい、またできたのか。色恋沙汰もほどほどにしとけよ」

「絶対に内緒ですからね?」

「わかったよ。で、誰なんだ? 次の犠牲者は」

「人聞きが悪いなぁ。先輩も知ってるでしょう? 隣の研究室の甘木さんですよ」

「あぁ、あの子か。かわいそうに」

「それじゃあ、僕これから用事あるんで」

 煤賀はそそくさと荷物をまとめて帰っていったが、僕は全員が研究室を出払ってしまうまで寝たふりを続けることになった。思わずため息が出る。そしてすぐに、寒気がした。どう考えても二人はお似合いなのだ。

 家まで帰ってきたけど、その道のりはショートしたように記憶が繋がらない。鞄を放り出し、着替えも済ませずにベッドに倒れ込む。そのまま寝て、起きてからも何も手につかなかった。学生のうちの貴重な休日があっさりとスキップされていく。

 日曜日の夜になってようやくパソコンの電源を入れる。インターネットの履歴を遡り、あの個人サイトへアクセスした。

「ふざけるなっ」

 どうしようもなくて机を叩く。僕はもう一度丁寧に記事を読み返した。


『季節の変わり目のこと』

 この世界に美しいものは溢れ返っております。個々人の捉え方によって、それらは無限大に成り得るかもしれません。

 殊に、私には季節の変わり目というものが最も美しく感じられるのです。

 たとえばですが、しんと覆い尽くした雪が溶けて、自然が潤うように現れる。爽やかだった春色はぐっと濃さを増して太陽が輝き始める。世界は滑らかに落ち着いた色へと変わり、やがて長い夜がやって来る。そしてまた、息も白くなる。

 こうした何の変哲もないようで、確かな変化がそこにはあり続けます。季節と季節が綯い交ぜになったような、終わりと始まりがくっついたような、滋味掬すべき情景がそこにはあるのです。

 ところで、あなたがここに辿り着いてしまったということは忌み嫌う相手が身近に存在しているということなのでしょう。

 だから私は義務として、教えるべくしてあなたに人の呪い方を教えます。手順は以下の通りです。

 まず、地面に呪いたい人をフルネームで書いてください。名は体を表すものですから、書き損じのないように気をつけてください。次に、その上で焚き火をします。規模はどれほどでも構いませんが、よく燃えるほどに効果がでます。

 最後に呪いたい人の私物――できれば長く使い込まれている物を投げ入れ、きれいさっぱり灰になってしまうまで燃やします。火が消えるまで祈り続ければ、効果はさらにあがることでしょう。

 では、あなたの季節の変わり目に、祝福があらんことを。


 何一つとして間違っていないではないか。だったらどうして、煤賀の恋が成就してしまったのか。


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