第2話 あの…どちらさま……?
目が覚めて一番最初に視界に入って来たのは、ちょっと親近感が湧く男の人の顔。
仰向けで寝ていた彼女の視界を塞ぐように、真上から顔を覗き込まれていた。
(……ん?)
理解不能な状況に寝起きの脳みそが付いていかず、目をパチパチと瞬いた彼女の顔にぐっと近寄り、「やっと起きたか」と呆れた様子でその人は言った。
(……んんっ!?)
頭は回っていなくても、顔の距離がやたらと近いのは判る。
その距離、凡そ二十センチ。
見知らぬ男に顔を覗き込まれていただけでも充分驚くことなのに、しかもその近さと言ったらとんでもない。
彼女は力一杯の悲鳴を上げた―――筈だった。
喉からスカスカの空気音だけが、空しく漏れ聞こえてくる。
この緊急事態になんてことだと、焦りを感じた彼女が次に取った行動は、躰を起こすことだった。しかしベッドに縛り付けたように、力が入らない。
恐慌状態に陥っている彼女を見下ろしている男が、ほとほと困りましたと顔に書いて、とんでもないことを口にした。
「ねえ。俺のこと知ってる?」
一瞬、何を聞かれたのか理解できず、声にならない声で「ほえ?」と漏らす。彼女が呆気に取られていると察したのだろう。彼は困ったように眉を寄せ、
「気がついたらここに居たんだけど、どー言った訳だか、俺記憶ないんだわ」
(……はい?)
一応口は動かしてみたけれど、やはり声が出ない。
それだけでも焦るのに、初対面だと思われる男性に、記憶喪失をカミングアウトされて、一体どうしろと言うのだろうか?
傍らには記憶喪失だと言う男がいて、困り顔で事情説明を始めたのを流し聞きしながら、己の置かれた現状を思い起こしていた。
真っ白い無味乾燥な空間と、消毒液の匂い。
ああそうか、とぼんやり思い出した。
半年ほど前からここに入院していて、見つからないと諦めていたドナーが現れ手術をしたのだ。
十九の時に劇症型心筋炎に侵された。
ドナーが現れなければ、そう時間が経たないうちにこの世を後にしていたはずだったが、幸運なことに救いの手が差し伸べられた。
この場合、救いの心臓と言うべきか?
沙和の腕から長い管が伸びている。ポトリポトリと規則正しく落ちていく滴。
今しっかりと呼吸をしている。
心臓は、もう痛くもないし、苦しくもない。
沙和は深く息を吸い込んだ。
生きている実感が湧いてくる。
声が出ないのも、躰が思うように動かないのも、きっと手術の後だからだ。
時間が経てば、きっと元通りになるだろう。
「おい。沙和! 俺の話、聞いてるか?」
唐突に頬を抓まれて、一気に思考を引き戻された。
やはり目の前に顔を突き出した男がいる。
(何であたしの名前知ってるの? この人)
「ほれ。ベッドに名前付いてんじゃん」
(………んん!?)
沙和の垂れ目がちな相貌が大きく見開かれ、記憶喪失男を凝視した。
声を出した覚えなどないのに、会話が成立しているのは、これ如何に?
これまでにしたこともない体験に、沙和の頭がパニックを起こしている。にもかかわらず、彼はお構いなしで「人の話はちゃんと聞きましょうって、幼稚園で習ったろ?」と説教を始める始末だ。
(考えが筒抜けって、そんなんアリなの?)
「アリだろ。現に話してるじゃん」
(手術して、何か特殊能力に目覚めた!? あたしの手術って、心臓の手術だよね!? 改造なんてされてないよね!?)
心臓移植もある意味改造か、との考えはひとまず置いといて、真剣な眼差しで食い入るように彼を見た。
「特殊能力の有無は分からないけど、俺の知る限りでは人間だと思うぞ? ちゃんと排泄されているし」
(……はい…せつ?)
言葉の意味が理解されるまで、五秒弱。
手術して動けないのだから当然なのだろうけど、うら若き乙女がどこの誰だかも判らない男に、下事情の報告を受けるなんて、死んでしまいたいくらい恥ずかしい。
躰の自由が利くなら、枕の一つも投げつけていただろう。
せっかく生き延びたから死にはしないけど、そのくらい居た堪れない事情を彼には察して欲しかった。
「そう恥ずかしがるなって。生きてるって証拠じゃないか」
そう言うことじゃないと思うが、この男にデリカシーが欠如していることは理解した。
沙和は溜息を吐いて、どこか憎めない面立ちをしている男を見る。
(それで? ココにいつまで居るの?)
声を出さなくても会話ができるのは、今の沙和には有難い。体力が戻ってないから、すこぶる疲れて目を開けているのも億劫だ。
とは言え、この順応力の高さはどうしたことか。
沙和の思考を読み取った彼が、呆れた顔で溜息を吐いた。
「その説明、先刻したんだけど。ほぼ最初から聞いてなかったわけね」
(……そうみたい)
「そうみたいって……今度はちゃんと聞いてよ?」
(はぁい)
「返事は短く。もう。何か心配だなぁ」
(お母さんみたいなこと言ってる)
「茶化さない」
(…はい。すみません)
ニヤニヤして返事をしたら、彼に思い切り睨まれた。
***
自称、記憶喪失の彼が言うには、気が付いた時には沙和の隣に立っていたらしい。
どうしてこんな所に?
たった一つの疑問からぼろぼろと綻び、分からない事だらけの自分に愕然とした。
傍らで眠っている女の子に見覚えがあるような、ないような、覚束ない感覚。
彼女に訊いてみようか。そう思ったけれど、よく寝ているのに起こすのも気の毒だ。しかし起きるまで待ってみるには、切羽詰まっている。
居ても立ってもいられず、他の誰かに訊いてみようと部屋を出た。
ところが、誰に声をかけても見向きもされない。
看護師すら彼に目もくれないで、忙しなく通り過ぎて行く。
言いようもない不安が押し寄せた。
誰か、自分を知っている人。
知らず速足から、駆け出していた。
突然、何かに引っ張られ、前に進めなくなる。それでも負けじと前に進もうとして、抗い難い力が作用した。
ぐんっ!
強い力が彼の躰を容赦なく引っ張り、それはさながらバラエティーで見たことのあるゲームのように、極太のゴムで後ろに退き戻されていく感覚。躰のバランスを失い、足が宙に浮き、物凄い勢いだった。
彼は肩越しから後ろを振り返る。
背後には壁。
叩きつけられる、そう覚悟して固く目を瞑った―――ら、通り抜けていた。
先刻は背後にあった壁が、目の前から遠ざかって行く。そして気が付けば、また振出しに戻っていた。
安らかな寝息を立てる女の子を、呆然とした表情で見下ろし、いま通り抜けて来た壁を見る。
彼は天井を仰ぎ、しばらく考え込んだ。
(これって、もしかして俺、死んでる?)
自分で自分の考えに震えた。
これまで壁を通り抜けた記憶がない……と言うか、記憶そのものがない訳だが、彼が有する概念では、トリックでもない限り人が壁を通り抜けることは不可能だ。とするならば、やはり自分は人ではないと結論に達する。
何とはなしに寝ている彼女を見下ろし、徐に走り出した。生きていた頃の概念のまま、壁をちゃんと迂回して。
ただし戻って来る時は、最短距離で戻って来る。彼女の隣に。
何度かチャレンジして解ったことは、この眠り姫から五十メートル以上離れることが出来ない事だった。
となれば、彼女に訊くしかないようだ。
(俺って誰? とか訊くなんて、映画かドラマの中でだけだと思ってたよ)
まさか自分がそんな目に遭うとは、思いもよらなかった。
(しかも死んでるとかって……ちょっと待てよ。もしかして、この子にも気付いて貰えなくないか?)
誰にも見向きもされなかった事実が突き付けられる。
だとしたら、分からないまま彼女の傍に居続けなければならない。それはたとえ死んでいるとしても、辛い現実だ。
(何でこんな目に遭わなきゃならない!? 生きてる時に俺、碌でもない事やらかしたのか!?)
考えれば考えるほど、深みに嵌って行く。
自我はちゃんとある。
なのに記憶だけがない。
自分の存在を確立するために、一縷の望みを賭けてみることにした。
(彼女から離れられない理由も知りたいしな)
そうして待つこと半日。
けれどこのお姫様が起きる気配は見られない。
(ほんとに眠り姫かよ)
一時は収めた不安が、また膨らんでくる。
そうして彼は、不安を忘却の彼方に押しやるために、いろいろと試してみることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます