第13話
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雛菊が走り去る姿を見た菖蒲達は、ぎょっとしながらお互いに顔を見合わせていた。
「な、なんじゃ?ㅤ一体、なにがあったのじゃ?」
「わかりせん……でっ、でも、追いかけた方がいいのは確かですね!」
「そうじゃな!」
互いに頷き合うと菖蒲と真司は慌てて雛菊の後を追う中、真司は稔のことも気がかりになっていた。
(先生、大丈夫かな……)
けれど、今は先に雛菊の方をなんとかしなければいけない。
(何を話していたかわからないけど、雛菊さんも大丈夫かな?……)
稔の紳士的行動に真司は驚き菖蒲は感心するような声を出していた。
だが、遠くにいるせいで会話は聞こえない。聞こえないにしても、二人の良い感じの雰囲気は遠くからでも見てわかった。
あんな良い雰囲気で一体何が起こったのか……真司も菖蒲も当の本人に聞くまでは知る由もない。
菖蒲達は雛菊の後を追い続ける。水族館の出口も近かったため、どうやら雛菊はそのまま外に出てしまったらしい。
出口が見えてくると、真司は菖蒲を呼び止めた。
「菖蒲さん、待ってください」
「どうしたのじゃ?」
振り返って真司に尋ねる菖蒲。真司はそんな菖蒲と目を合し「僕は、ここに残ります」と言った。
「先生も気になるし……一人になんてできません。だから、僕は今日のことを先生に話して一緒に外に出ようと思います」
「……そうか。うむ、わかった」
菖蒲は真司の意見に納得すると「雛菊が落ち着き次第、またお前さんに連絡する。やから、先生のことは頼んだえ」と言って真司に背を向け去って行った。
真司は菖蒲の背中を見送ると、ふと、ある疑問が頭に過ぎった。
(そう言えば、連絡するってどうやって連絡するだろう?)
ともあれ、先ずは稔が第一優先である。真司は来た方向に振り返り踵を返す。
(まだあそこにいるよね……。先生)
その頃の稔はというと雛菊の『好き』という一言と涙目になりながら自分の前から去ってしまったことに驚きを隠せないでいた。
「えっと……あ、あれ……?」
稔は気持ちと頭の整理をする為に一旦椅子に腰掛ける。
「いっ、今、雛菊さん俺に向かって好きって……いや、でもなんで泣いて消えたんだ? 俺、なにかやらかした!?」
頭を押さえて唸る稔。
「……わからん。何をやらかしたのか全然わからん。でも……」
俯いていた顔を上げ稔は恥ずかしげに首を触り「本当に俺と同じ気持ちなら、ヤバイぐらい嬉しい……」と小さく呟いた。
「あー、でも、泣いた理由がわからん!」
稔がグシャグシャと頭を掻いていると「先生!」と、小走りで稔の方に向かって来る真司がいた。
稔は真司の姿に目を見開いて驚く。
「宮前っ!? お前、なんでここにいるんだ!?」
稔の質問に真司は気まずそうな顔をして雛菊が一人だと不安だからこっそりと着いて来てほしいという事を稔の隣に腰掛けて話した。
稔は、そこまで雛菊を不安にさせていたことを知るとガクリと項垂れる。
「そんなに不安だったんだな……全然知らなかった……」
「落ち込まないでください先生! それに、雛菊さん、凄く楽しそうでしたよ。あんなに楽しそうにしてる姿、僕、初めて見ました」
「そ、そうか……?」
顔を上げ少しだけ元気を取り戻す稔に、真司は何度も頷く。だが、取り戻した元気も直ぐに元に戻ってしまったのだ。
「でもさ……泣いて去って行ったんだぞ……。宮前……俺、なにか雛菊さんに泣かすようなこと言ったりやったのかな……」
「そんなこと無いですよ! 先生、凄くかっこよかったです! 菖蒲さんだって、先生の行動には感心してましたし!」
稔は真司達に雛菊とのやり取りを見られたことに恥ずかしくなりポリポリと頬を掻いた。
「な、なんというか……自分の生徒にプライベートを見られるっていうのは気恥ずかしいものだな。励まされたのにはちょっと虚しい気持ちになるけど……」
「あ、あはは……」
真司が苦笑していると稔は膝の上で手を組んで悠々と空を飛ぶように泳いでいるペンギン達を見る。
「……上手く行ってると思ってたんだけどな。自分で言うのもあれなんだが、ここまで誰かを好きになるのって初めてなんだよ」
「そうなんですか?」
「あぁ。何人かと付き合ったことはあるし、ちゃんと〝好き〟っていう感情はあったけど……なんというか、この人と生涯を共にしたら幸せだろうなぁっていう気持ちは初めてなんだよな」
「先生……」
稔の横顔に哀愁を感じる真司。
真司はそんな稔になんて声をかければいいのかわからなかった。
(雛菊さんと菖蒲さん、今頃なにを話してるんだろう……雛菊さん、大丈夫かな?)
稔が溜め息を吐きながら落ち込む中、真司はどうしたらいいのかわからず菖蒲の連絡をただ待つしか無かった。
その一方で、水族館の外では雛菊がスカートの裾をギュッと掴み悲しそうな顔で立っていた。菖蒲はそんな雛菊の背中を見つけると傍まで歩き「雛菊」と優しく名前を呼ぶと、雛菊はビクッと肩をあがらせながら振り向いた。
「菖蒲、様……」
「雛菊。お前さん、急にどうしたのじゃ? 何があった?」
雛菊は眉を寄せ俯く。
「菖蒲様……私、私……言うつもり無かった言葉を言ってしまったんです」
「言うつもりが無かった言葉かえ?」
雛菊は黙ったまま小さく頷いた。
今にも泣きそうな顔をしている雛菊を菖落ち着かせるため、菖蒲は雛菊を海の前まで連れて行くと近くにあったベンチに腰掛けた。
後ろには水族館の裏側があり、前には広大な海が見える。水族館の裏側なだけあって人は全然居らず、とても静かだ。
菖蒲は雛菊の顔を覗き込むように窺うと、優しい口調で話を始めた。
「……それで、言うつもりの無かった言葉とはなんのこじゃ?」
「私……思っていたことを無意識に口に出してしまったんです。…………好き、と」
その言葉に菖蒲もさすがに驚いた顔をして「おやまぁ」と呟いた。
「しかし、なぜ言うつもりが無かったんじゃ? お前さんは、あの男のことを愛しているのじゃろう?」
「はい……でも……っ」
雛菊は両手で顔を覆い隠す。肩が震えるのを見ると、どうやら泣いているらしい。
菖蒲はそんな雛菊の肩を優しく撫でる。
「無理に言わんでもええ」
「いいえ……大丈夫、です……」
雛菊は涙を拭い少し俯いて話を続けた。
「私……怖いんです。あの人と一緒にいたい、あの人に触れたい……そう思っているのに、やっぱり怖いんです……」
「なにをそんなに恐れているのじゃ?」
「…………私の正体を知ったときの気持ちです。恐れを抱いていたら? 折角仲良くなれたような気がしたのに、その関係が壊れてしまったら……?」
雛菊は膝の上にある手をギュッと握る。
「何よりも、私……あの人が私の前からいなくなってしまうことに怖いんです。それでも頑張ろうと思いました。中々踏み出せずにいた気持ちを抑えて、今日この日を迎えました。それでも……」
言い淀む雛菊に菖蒲が優しく「それでも?」と聞き返す。
雛菊はゆっくりと顔を上げ、地平線に広がる海を真っ直ぐに見つめ話を続けた。
「それでも……私は、この想いはあの人には伝えないつもりでした。私とあの人は、生きている時間が違います……友人としての関係なら、あの人が私の前から居なくなってしまう時が来ても気持ちの整理も落ち着くと思ったのです……これは、私のエゴですけど……」
「なるほど」
「でも……想い人として、あの人の最期を見送ったとき、きっと私の心は壊れてしまいます……。私は、それが怖いのです」
顔を多い俯く雛菊。
菖蒲はそんな雛菊の肩を寄せ優しく抱き締めた。
「そうじゃな……人は、私達とは生き方も考え方も違う。想えば想うほど、その時が来たら辛くなる」
「教えてください、菖蒲様。菖蒲様は、どうやってそれを乗り越えたのですか……? 私にも菖蒲様みたいに強くなれるのでしょうか……?」
目に涙を溜めて悲痛な声で菖蒲に尋ねる雛菊。
菖蒲は雛菊を離し、そっと目を閉じた。
「私は、今もそれを乗り越えてはおらん。あ奴との過ごした時間は、今もハッキリと覚えておる。覚えておるからこそ、たまに寂しくて……悲しくなるのじゃ」
「…………」
雛菊は菖蒲の話しを聞いて目を伏せる。
「やはり、私はあの人とは……」
「これ、雛菊」
最後の言葉を雛菊が言う前に、菖蒲は雛菊の唇に指を当てその言葉を言わせない。雛菊は一瞬ビックリすると菖蒲はそっと指を離す。
「それは言ってはいかん」
「菖蒲、様……?」
菖蒲は苦笑いを浮かべ話しを続ける。
「私は……あ奴との別れを乗り越えてはおらんが、一つだけとても大きな後悔をしたことがある」
「後悔、ですか……?」
菖蒲は小さく頷く。
「それは、自分の本当の気持ちを伝えなかったことじゃ」
そう言うと菖蒲は前を向き直り広大な海を真っ直ぐと見つめた。
「人の一生は、とても短い。そして、人は脆い。ちょっとした傷でも大きな病へと変わることも、突然、目の前から消えてしまうこともある。……その日、その時を大事に過ごし『この瞬間が永遠に続ければいいのに』と思ったとしても、ふとした瞬間に目の前から壊れることもあるのじゃ」
海を真っ直ぐ見つめる菖蒲の瞳には、海だけではなく、菖蒲の大切な人との思い出がきっと写っているのだろう。菖蒲は、その思い出を一旦閉じるように目を閉じる。
「壊れる瞬間が訪れた時……私は、なぜ自分のこの気持ちを早くに伝えなかったのだろうかと後悔した。そして、それを言葉にした時にはもう……あ奴は……」
菖蒲は雛菊の方を向き、また苦笑いを浮かべながら「私には遅かったのじゃよ」と雛菊に言った。
雛菊は菖蒲の気持ちを思うと胸がギュッと締め付けられるように痛かった。雛菊には、菖蒲が無理に笑っているように見えたからだ。
菖蒲は雛菊の手を上からそっと重ねる。菖蒲の温かな体温が雛菊の手から伝わってくる。
「お前さんには、私のように後悔をしてほしくない。その時が来てからでは、もう遅いのじゃ」
「菖蒲様……」
「お前さんの恐れもよくわかる。けれど、雛菊……例えそれを乗り越えなくても、勇気が必要じゃ」
「勇気……」
雛菊は菖蒲の言葉を繰り返すと菖蒲はコクリと頷いた。
「私も……そして、きっとあ奴自身にも、お前さんのような不安があったのじゃ。私達は『不安』という暗闇から一歩を踏み出せないでいた。……今も思うのじゃ、その一歩を踏み出していたら何か変わったんやろうかと……」
「菖蒲様は……辛くはありませんか?」
恐る恐る菖蒲に聞く雛菊に、菖蒲はフッと笑みをこぼす。
「辛くは無い……というのは嘘になるが、私にはあ奴と過ごした楽しい思い出もある。なによりも、やっと……また、逢えたのじゃ」
菖蒲は目を細め意地悪そうに微笑むと「お前さんも、気づいておるのじゃろう?」と雛菊に言った。
雛菊は黙ったまま小さく頷くと、菖蒲はまた微笑んだ。
「雛菊。別れというの自ずと訪れるが、それは一生ではない。強い縁で結ばれれば、また逢えるのじゃ。いつ、どこで、どんな姿で逢えるかはわからん……けれど、姿形は違えどその〝魂〟は同じなのじゃ」
「魂が同じ……」
「うむ……巡り巡って、また巡る。そして再び出逢うのじゃ」
雛菊は目を閉じゆっくりと深呼吸をすると、決心がついたような目を菖蒲に向けた。
「菖蒲様、私……本来の私のことも、私のこの想いもあの人に伝えます。どのような結果になるかわかりませんが……菖蒲様の仰るとおり、伝えなくて後悔するよりも伝えて涙を流します」
雛菊の言葉に菖蒲は雛菊を抱き寄せギュッと抱き締める。
「あっ、菖蒲様?」
「ふふっ、大丈夫じゃ。お前さんなら、必ずやれるえ」
勇気を菖蒲から貰ったような気がして、雛菊は菖蒲を抱き締め返すと小さく微笑んだ。
「私……頑張ります」
「うむ」
菖蒲は雛菊を腕から離すと「では、先生をここに呼ぼうではないかえ」とにこやかに微笑みながら言ったのだった。
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