第2話

 真司は家を出ると、まず何処に向かおうか思案していた。

 あかしや橋の側にあるひつじ公園を目指しても良し、はたまたは、梅林で溢れる荒山公園こうぜんこうえんのベンチでまったりするのも良し。



「うーん……」


(学校に着いたら寄るつもりだったけど……今、会いに行ってもいいよね?)



 どこに行こうか悩んでいたが、真司の中でもう答えは出ていたらしい。真司は雛菊に会うことを決めた。

 もしかしたら門は閉まっているかもしれない。学校に向かうなら制服に着替えて無駄な時間を省けばいいと思う人もいるだろうが、真司はそんなことを一欠片も考えていなかった。

 いや、本当は考えているのかもしれない。しかし、それでもブラブラとのんびりと歩く方を選んだのだろう。


 真司は誰もいない住宅街を歩き、道路へと出る。道路は車が通っておらず、辺りはシンと静まり返っていた。

 その静けさは、あかしや橋を渡る時に少し似ているような気がした。



「静かだなぁ」



 家から中学校までの距離はかなり近く、ものの数分で学校へと辿り着いた。

 真司は誰もいないグラウンドを見る。



「グラウンドも静かだなぁ。いつもは運動部の人がいるんだけど、誰の声も聞こえない朝の学校って何だか不思議な感じ」



 グランドを見ながら歩いていた真司は、ドンッと誰かとぶつかってしまった。



「きゃっ!」

「わわっ! す、すみません!」


 慌てて前を向き、ぶつかった相手に頭を下げる。その時に目にした物に真司は「あれ?」と首を傾げた。



(これって……)



 恐る恐る顔を上げてみると、その人は目を瞑ったまま真司に向かって謝っていた。



「私の方こそすみません! この時間は普段誰もいないので、私ったらうっかりしていて」

「い、いえっ! 怪我とか大丈夫ですか!?」



 真司がぶつかってしまった相手――それは、目の見えない盲目な女性だった。

 女性は、見えない目の代わりに白杖はくじょうを持っていたのだ。自分がぶつかった人が障害を持つ人だと知ると、真司の顔からサーっと血の気が引いた。

 『もし怪我をさせたらどうしよう』

 『大切な白杖は大丈夫だろうか?』

 そんな心配と不安が真司の中にあったが、盲目な女性は一歩身を引いて頭を下げていた。



「ご心配をお掛けして申し訳ありません!」

「いえいえっ! 僕がよそ見をしていたので! 僕の方こそ本当にすみませんでした!」

「私の方こそすみませんでした!」



 ペコペコとお互い何度も頭を下げる。その光景は傍から見れば思わずクスッと笑ってしまうぐらいだった。

 そしてそれは本人達もそう思ったらしい。お互い謝り続けていると、それは自然と小さな笑いへと変わっていた。



「私達、お互いに謝ってばかりですね。ところで、あなたはこちらの学生さんですか?」

「はい」

「やっぱり。実は私もね、ここの学生だったの」

「そうなんですか?」



 女性は目を瞑ったまま、誰もいないグランドを見つめる。目が見えない筈なのに、まるで女性の目にはグランドが映っているように見えた。



「えぇ。本当は高知出身なんだけど、ここに来て卒業と同時にまた転校して、東京の方にずっといたの。……でも、また、ここに戻って来たのよ。いいよね、この街って」

「はい。あ、僕も東京からこっちに引っ越してきたんですよ」



 真司の言葉に女性が「ふふっ」と笑う。



「やっぱり、あなたも東京にいたのね。方言が標準語だからそうだと思った、ふふっ。そういえば、あなたはこんな朝早くに学校へ?」

「はい。少し散歩に」



 女性はニコリと真司に向かって微笑みかける。



「なら、私と一緒ね。私、毎朝この道を通ってちょっと遠回りして荒山公園へ行くのよ。……あ、それじゃあ、私はそろそろ行くわね。またご縁があれば会いましょう。可愛い学生さん」

「はい」



 コツコツと白杖を地面に叩き、白杖で足元に障害物が無いかを確かめながら女性は歩き出す。真司はその女性の背中を見送り「さて、僕も向かおうかな」と呟きながら前を向いた瞬間、耳元でチッチッチッと鳥の鳴き声が聞こえた。

 それは何処と無く雀に似ているような鳴き声だったが、上空や辺りを見回しても鳥はいなかった。



「ん? 気のせい……?」



 首を傾げた真司は「まぁ、いいか」と思い、またあの人と会えることを願って学校へ向かったのだった。

 学校へ辿り着くと、案の定と言わんばかりに門が閉まっていた。



「やっぱり、閉まってるよね。うーん……」



 唸りながらこの先に行くにはどうしようか考えていると、門を超えた先から聞き覚えのある声が聞こえた。



「あら? 宮前さん?」

「あ、雛菊さん」


 聞き覚えのある声の主――それは、桜の精霊の雛菊だった。

 雛菊は門に近ずくと、小首を傾げ真司に話しかける。



「こんな朝早くにどうしたのですか?」

「少し散歩をしに。後、雛菊さんに会いに来ました」



 雛菊は驚いた様子を浮かべるとクスリと笑い「ふふっ、本当に貴方って人は」と、小さく呟く。その呟きが聞き取れず、真司は「え?」と聞き返すと雛菊は何も無かったかのように優しい笑みを浮かべた。



「有難うございます。こんな私に会いに来てくれて」

「い、いえ……」



 真司は照れくさそうに雛菊から視線を逸らし、長い前髪に触れる。そして、思い出したかのように手に持っていた小さな手提げバックを雛菊に見せた。



「あ、そうだ! 母さんからお握りを貰ったんです! あの、一緒に食べませんか?」

「まぁ、嬉しい!」



 春の花のような笑みをされ、真司は更に恥ずかしくなる。ほんのりと耳が赤くなるのを自分でも感じた。

 花の精霊なだけあって容姿はもちろん美しいが、その仕草も桜の花みたいに可憐で儚く人を魅了させる。雛菊の背後には何も無いはずなのに、満開の桜が鮮明に目に映る――そんな気がした。



(こんな綺麗な精霊に愛される先生って)



「羨ましいを通り越して、何かすごいなぁ……」



 思わず口に出てしまったのか雛菊は「はい?」と、言いながら再び首を傾げていた。

 真司は慌てて手を振り、その場を流すように苦笑する。



「いえ、なんでもないです! あはは……」

「そうですか?」

「は、はい。そっ、そういえば、これってやっぱり登らないと行けない感じですか?」



 閉まっている門のことについて話を切り出すと、雛菊は人差し指を唇に押し当て「んー……」と、暫し考える。



「そうですねぇ、どちらでも良いと思いますよ? 登るのがお嫌でしたら私が開けましょうか?」

「え、出来るんですか?」

「えぇ。ちょちょいのちょいです♪」



 ニコッと笑うと、正門の端にある門とは別の扉(遅刻者専用扉)の鍵に触れ鍵をスーと撫でる。すると、指先から桜の花びらが舞い、施錠されていた鍵がカチッと音がなったのが聞こえた。



「はい。これで、開きましたよ」



 真司は恐る恐る扉に手をかける。扉は鋼の網で古く、錆びている所もあるのか、開けるとギィ……と、嫌な音がした。



「本当に開いた」

「ふふっ。このような簡単な鍵など菖蒲様でも開けれますよ」

「え?! 菖蒲さんも?! あ、でも、この後どうしたら……」

「帰る時に私が閉めておきますから大丈夫です♪ ふふっ」



 『なら、いいか。元々雛菊に会うつもりだったし』と、真司は逆に開き直っていたのだった。

 そして、雛菊が開けてくれたら扉から校内へ入り、雛菊が住んでいる桜の木へとやって来た。



「もう、この桜も散る頃ですね」

「そうですね」


 桜木の下で真司は地べたに座り、雛菊と一緒に桜を見上げた。

 満開だった桜も少しずつ風に舞いながら地面に落ち、これからの季節に向かって新芽を見せる。



「そういえば、先生とはあれからどうですか?」

「え? あ、あの……」

「??」



 雛菊はお握りを持った手を見つめモジモジとする。顔を上げると恥ずかしいというより申し訳ないという顔で雛菊は、稔がいつも居る教室の窓を見上げた。



「実は、あれからあの方とお話をしていないんです」

「え!?」



 雛菊は苦笑いをしたまま真司を見ると「すみません」と、一言謝った。

 以前の雛菊なら、稔に声も届かなければ姿すら見えないだろう。しかし、菖蒲と多治速比売命が雛菊の為、稔にもその姿が捉えるように桜形のネックレスをあげたのだ。

 そのネックレスを付けている間、雛菊は人間に姿を目視させることができる。勿論、声も届き触れることも。

 真司はてっきりそのネックレスで、稔と何かしら連絡を取り合っているのかと思っていた。

「どうして話さないんですか?」と、内心は聞きたかったが、雛菊のその顔を見ると何故だか聞けなかった。

 何処まで踏み込んでいいのかわからなかったのだ。



「そう、ですか……」

「でも――」



 そう言いつつ、今後は楽しそうな顔をして、また教室の窓を見上げた。



「でも、私がこっそり置いている花に気づく彼の姿は、とても楽しいです。ふふっ」

「……よかった」

「え?」



 ホッと安堵の息を吐くと、真司はつい思っていたことをボソリと口に出してしまった。

 真司は少し狼狽えると、雛菊から目線を逸らし自分の頬を軽く掻いた。



「あ、いえ……その……」

「ふふっ。心配してくれていたのですね」



 雛菊は、真司の頭にそっと手を置くと、優しい手つきで頭を撫でる。雛菊の着物の袖から、ほんのりと花の甘い匂いがした。



「有難うございます。私の心配をしてくれて」



 照れくさくて、思わず俯く真司の姿をおかしく思い、雛菊はクスクスと笑いながら頭を撫で続けていた。

 なんだか、母親やお姉さんに頭を撫でられているような気分で気恥しい気持ちと共に心地よいという気持ちもあった。



「人というのは本当に不思議な生き物ですね。憎んだり愛し合ったり……。血の繋がりなど無いのに、こうやって他人を心配する。そして、宮前さん。貴方は私達にも、その優しさを与えてくれる」



 雛菊は真司の頭から手を離すと、目をそっと閉じた。



「でも、私はそんな人の子を愛してしまった、好きになった。……私達と違い短い人生の中で、もがきながらも楽しむ……そして、愛し愛される。人って素晴らしい生き物ですね」

「雛菊さん……」



(なら、どうして――)



 菖蒲さんから貰ったネックレスで、稔と会わないんですか――真司はそう雛菊に聞きたかったけど、やっぱり聞けなかった。

 雛菊が稔のことを想っているのは確かだ。なのに、雛菊は自分から稔に会いに行こうとしない。



(雛菊さん、あなたは一体、何を考えているんですか? なにを思っているんですか?)



 真司がそう思っていると、雛菊が真司の方を向き「真司さんは、人の世は楽しいですか?」と、唐突に真司に聞いた。

 真司は「え?」と、聞き返す。雛菊はニコリと微笑み、更に真司に尋ねた。



「想い人はいないのですか?」

「お、想い人!?」

「はい」



 真司の顔がカァっと熱くなる。それは、真司自身、赤くなっているだろうとわかった。

 顔が一気に火照って少し暑く感じだからだ。



「い、いないです! いないですよっ!」



 そう言ったが雛菊に『想い人』と聞かれた時、ふと菖蒲のことが頭に浮かんだ。

 しかし、そのことを雛菊には言わないでいた。何より、真司自身がその事について否定したのだ。



(あ、菖蒲さんは確かに美人で可愛いけど……そ、そういうのじゃなくて!!)



 その考えを忘れる為、自分の頭を強く左右に勢いよく振る。それを見ていた雛菊は口元に手を当て「ふふっ」と、小さく笑った。



「そ、そうだっ! そんなことよりも、お、お握り食べませんか!? 冷めてしまいますよ!」

「そうでしたね。では、遠慮なく頂きます」



 話題を逸らし笑って誤魔化した真司に、雛菊はこれと言って追求しなかった。

 雛菊にはわかっていたのだ。真司の想い人が誰なのかを。

 そして、自分のその気持ちに気づいていない真司のことを。



「お互い叶えられるといいですね」

「え? 何か言いましたか? すみません、聞こえませんでした……」



 雛菊は貰った三角お握りの上部をパクッと食べながら静かに笑う。



「独り言です。ふふっ。それにしても、このお握り美味しいですね~。この梅の酸っぱさが、たまりません〜」

「そう言ってくれると、母さんも喜びます」



 こうして、真司と雛菊は散る寸前の、ぷちお花見を満喫したのだった。

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