第11話
次の季節は冬を向かえる前の季節。
紅葉の時期は既に過ぎ去り、枝に残った葉も残りわずかで、それもハラハラと舞落ちていた。
そんな中、雛菊は窓を少し開けて眠っている。顔色は青白く、頬はこけ、まともに食事も取れないのか栄養が行き届かず肌の艶や髪の艶もボロボロで、体は以前よりも更に痩せ細っていた。
微かだが、眠る雛菊の呼吸も低く感じられる。
「雛菊さん……」
真司がそう呟くと、雛菊はゆっくりと目を覚ました。
そして、雛菊は細い腕で身体を支えゆっくりと起き上がる。体力自体が激減しているのか、身体を支えている腕は震えていた。
「雛菊さん、無理しちゃ駄目です!」
そう真司が言っても、真司の声も雛菊の身体を支えようとした腕も虚しく消える。雛菊は何とかして自力で起き上がると、ぎゅっと桜貝を握り立ち上がった。
「行か、なきゃ……」
よろよろとしながらも一歩、また一歩と歩く雛菊。
普通なら歩く行為は簡単だろうが、病気に侵されている雛菊の身体は既にボロボロになっていたため歩くことすら厳しいものになっていた。
雛菊は障子をゆっくりと開け、周りに人が居ないことを確認する。
「何とか、もって……私の体……ごほっ、ごほっ!」
雛菊が咳き込んだ瞬間、ピチャッと床に血が付着する。雛菊は血で汚れた口元を袖で拭うと、そのまま部屋を出た。
部屋に残るのは雛菊の吐血の跡だけ。
「雛菊、さん……」
真司は雛菊を止めたかった。
でも、どうすることも出来ない。だからこそ、真司は最後まで雛菊の姿を見届けたいと思ったのだ。
この後どうなるか真司にはわからない。けれど、真司には予感があった。
『これが最後の記憶になる』と。
真司はギュッと手を握り、心の決心がつくと雛菊の後を追った。
雛菊は千鳥足になりながらも前へ前へと歩み続ける。足に力が入らず、そのまま崩れ落ちることも暫しあったが、雛菊はそれでも歩み続けていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「頑張って下さい、雛菊さん!」
壁を伝って歩き続ける雛菊を声が聞こえ届かないとわかっていても真司は応援する。
「はぁ、はぁ……ごほっ、ごほっ! ごほっ! ……はぁ……はぁ……行かなきゃ……」
咳き込む度に血が口から出る。雛菊はその度に袖口で口元を拭った。
夜着の袖口は乾いた血で赤黒くなっている。それでも雛菊は歩き続けた。
そして遂に、雛菊は玄関までやって来た。
ここまでの距離を歩くのは、今の雛菊にとって長い道のりだったに違いない。しかし、雛菊が行きたい場所はここではない。ここは、まだ、初めにすぎなかった。
雛菊は玄関の戸を開け外に出ようとする。その瞬間、お春と父親の声によって足は止まることになった。
「雛菊っ!!」
「お嬢様っ!!」
「父上……お春、さん……」
慌てた顔で雛菊に詰め寄る父親とお春。
父親は雛菊の折れそうなほど細い肩に力を入れ雛菊に怒鳴った。
「お前、こんなところで何をしているんだ! そんな体で! 今すぐ部屋に戻りなさい!」
「嫌です」
「雛菊!」
雛菊は父親の手を振り払い、ジッと父親の目を見る。体はボロボロのはずなのに、雛菊の今の目だけは以前と変わらない凛として力強さが感じられた。
「父上、お願い……行かせて下さい。私は、行かなきゃいけないの。今すぐに」
「雛菊、お前……」
「お願い、致します……」
深々と頭を下げる姿を見て雛菊の父親は何か言いたそうな顔をぐっと堪えると、そのまま溜め息を吐いた。
これ程の意志の強さだ。何を言っても聞かないだろう……そう判断したのだ。
「……わかった。許可しよう」
「父上……!」
「但し、この私も着いて行く。もしお前が倒れそうになった時、支えが必要だろう」
雛菊は父親の言葉に驚くと首を横に振った。
「いえ。大丈夫です。父上は私に近づいてはいけません。父上は……父上まで移ってしまうとこの家は……」
ギュッと唇を噛む雛菊。
そう。雛菊の父親は、決して移されるのが嫌で雛菊に会わなかったというわけではなかったのだ。
この家の唯一の主が居なくなってしまうと、家は没落してしまう。雛菊はそれを防ぐために、自分の父親に「私の部屋には絶対に近づかないでください」と、言ったのだった。
雛菊の父親は、娘の願いの通り近づくのを止めた。
だが、今回だけは娘の願いでも叶えてやれることはできなかった。
父親は俯き唇を噛み締める雛菊に近づき抱き締める。
「ちっ、父上!?」
「今までこうやって抱き締めることも出来なかったのだ……これは私の願いだ。……一緒に行かせてくれ」
雛菊は父親の言葉に驚き目を見開くと、自分のことを抱き締める父親の温もりと温かい言葉が嬉しく雛菊は黙ったまま小さく頷いた。
その後ろにいたお春も涙を拭いながら、雛菊のやせ細った肩にそっと触れる。
「お嬢様、私も着いていきます。いえ、行かせて下さい」
「お春さん……二人とも、ありがとう」
雛菊は目に涙を溜めながら二人にお礼を言うと、父親は雛菊から離れ「先ずは着替えなさい。それから行こう。お前の向かう場所に……」と、雛菊に言った。
「はい」
その数分後。雛菊はお春によって、髪は少しでも綺麗にと椿の香油を付け整えられ着物も真新しい物に変え、少しでも顔色が良く見えるようにとほんのりと化粧をされた。
部屋から出てきた雛菊は、少しだけ元気だった頃の雛菊に戻ったような感じした。
「雛菊さん、僕も最後まで着いて行きますから」
そう雛菊に向かって言うと、見えないはずの雛菊が真司を見て微笑んだ。
そのことに真司は驚きを隠せないでいた。
「え!? 雛菊さん、僕のことが見えて!?」
「行ってきます」
雛菊は真司を見てそう呟いた。
「お嬢様? 誰に言っているのですか?」
「ずっと見守ってくれた全てのものに、よ」
そう雛菊が言うと真司は肩を落とす。
「見えてるわけじゃないんだ……だよね……これは、雛菊さんの思い出なんだから……」
少し残念に思う真司だが、雛菊のその素直で優しい心に好感を持てた。
もし雛菊が現代にいたのなら、きっと友達になりたいと思ったに違いない。芯が強くて、優しく、素直でどこまでも真っ直ぐな雛菊の心。
昔の自分なら友達は自分から作ろうとは思わなかったし考えなかったが、今は違う。
真司は、ふと『雛菊が真司と友達だったのなら』と考える。
「直ぐに荻原が好きになりそうだなぁ。好みのタイプって感じがするし、きっと喜ぶだろうな。それで、テンションが上がっている神代が荻原をなだめる……ふふっ」
容易に想像がつくことに真司は可笑しく思いその場でクスクスと笑った。
その頃、お春と雛菊の父親は弱りきっている雛菊の体を支えながら家を出て行ってしまったので、真司は慌てて追いかけた。
「わわっ! 待って!」
真司も部屋を出て、家を出る。いつもならここで風景が変わりそうなのだが、今回はそうならず、家と外を繋ぐ門の外にも出ることが出来た。
初めて外に出られた真司は興味津々な様子で三人の後に続きながらも周囲を見渡す。
「甘味処の思い出で外には出られたけど……やっぱり何だか新鮮な感じがする。昔の風景の中にいるって、よくよく考えてみると凄いこと……なんだよね?」
自分のこの状況について改めて思う真司。
日は既に夕暮れ時で、道を歩く人々は少なくなっていた。
それでも、道行く人はいる。通り過ぎる人々は雛菊の顔を横目で見ると、怪訝な顔をしている者もいた。
これが周りに結核だとわかると、恐らく小さな暴動が起こるだろう。何せ死の病を移される可能性もあるからだ。
「なんだが、悲しいな……」
ポツリと呟く真司。しかし、つらそうな顔をしているのに、そんな人達には決して怯まず前だけを見ている雛菊を見るとその気持ちも薄れていった。
「周りがどうでも、雛菊さんには八郎さんやお春さん……お父さんもいる。きっと、お互いを支え合うってこういう事なんだろうな」
お春も父親もふらつく雛菊を支え、また雛菊も二人に頼りながら一歩また一歩と歩き続ける。時には咳込んで倒れそうになりながらも、雛菊は決して下を向かず前だけを見て目的地に向かって目指す。
雛菊が二人の支えを借りてでも向かう場所――それは、八郎と約束を交わした桜木の下だった。
足を引きずってでも歩き続ける雛菊。どんなに時間が経っても歩むことを止めない。
そして、桜木が見え始めると雛菊は目に涙を溜めて歩いていた。
「あぁ、やっと……やっと来れた」
「雛菊、ここはお前にとってかけがえのない場所なんだな」
雛菊の嬉しそうな表情に父親がそう尋ねると、雛菊はコクリと頷いた。
「えぇ、父上。……父上、もう少ししたら私は独りで向かいます」
「お嬢様、いけません!」
「よい、お春。雛菊の好きにさせよ」
お春の言葉を制す雛菊の父親。
雛菊はそんな父親に笑みを浮かべお礼を言う。
「……父上、ありがとう」
徐々に桜に近づいてくると雛菊は二人の手を離す。ふらつきながらも一人で桜の下へと向かう背をお春が心配そうな顔で見つめていると、雛菊の父親が肩に優しく手を置いた。
「お春……見守ろうではないか。最後まで」
「旦那様……っ……!」
父親もまた気づいていのだ。雛菊の命がもう目の前まで来ていることに。
まるで娘の結婚式を見るように父親は雛菊の歩く背中を見ていた。
雛菊の父親は、真っ直ぐと雛菊の背中を見る。
「私は、あの子を幸せに出来ただろうか……? こんな父親で腑甲斐無いと思う。菊も怒るやもしれぬな……」
父親の弱気な言葉にお春が「そんなことありません!」と言うと、お春は無礼とわかりながらも父親の手をギュッと握った。
「旦那様は、お独りでようやられました。このお春、旦那様がまだ幼子の頃からお側にいました。旦那様のことはよう知っているつもりです。旦那様はお嬢様と八郎の交際もお許しになられました。お嬢様からにしたら、それだけで嬉しゅうございましょう」
「……そうか」
自傷気味に笑うと何処か愛嬌のある顔になる。普段は目つきの怖い感じがし近づき難い印象を持っていたが、笑うとそれが消えていた。
それでなくても雛菊の父親は使用人や娘に優しい人だ。雛菊の母親は、もしかすると、こういう心根の持ち主だからこそ愛し、この父親と結婚したのかもしれない。
真司はそう思うと、雛菊の方を向き後を追うように走り出した。
雛菊のそばまで来ると、雛菊は息を荒くしながら前だけを見て歩いている。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
筋力が衰えた細い足で千鳥足になりながらも一生懸命に桜木へと向かう雛菊。少しずつ少しずつ雛菊は桜の木へと近づいていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……」
桜との距離は、もう数メートルまで来ている。雛菊は桜貝が入っている巾着をギュッと胸に握り締め、また一歩もう一歩と歩き続けた。
そして、やっと桜木の下へと辿り着いた。
雛菊は木の根本まで来ると、その場に座り込み、適当なサイズの石を見つけ土を掘り返す。細く色白い手には土がこびりつき、折角お春が着せてくれた綺麗な着物も土で汚れてしまった。
それでも雛菊は、頭の片隅でお春に謝りながらも掘り返す作業を止めなかった。
ある一定の深さまで掘ると雛菊は桜貝が入った巾着を穴の中に入れ上から土を優しく掛ける。
「これでいいの……」
雛菊は桜の木を背もたれにして木を見上げる。スッカリ葉が落ちてしまっているこの木は、冬をもう迎えているようだ。
「また、来年には美しい花を咲かせてね」
目を閉じ、雛菊は桜に話しかける。
「私、幸せよ。あの人に出会って、美しい桜を毎年見れて……ありがとう」
風が吹き枝が擦れる音が、まるで雛菊に返事をしてしているみたいに聞こえる。雛菊もそう思ったのかクスッと笑うと、桜の根にそっと触れた。
「また、あの人に会えるわよね……? ううん、今度は私から会いに行くの。体が朽ちて魂だけになっても、私はもう一度あの人に、あの人を……こぼっ、ごほっ!!」
口から血が飛び出し、呼吸をする度に小さな音が鳴る。もう、その時が近くなっていた。
「ごほっ、ごほっ……!! はぁ、はぁ……何年かかっても……わた、し――――」
雛菊の手が力なく地面に倒れた。
お春と父親は慌てた様子で雛菊の元へと駆けつける。父親は雛菊が逝ったと知ると、その場に崩れ落ち涙を流した。
「雛菊さん……」
真司の瞳にも一筋の涙がこぼれ落ちる。その瞬間、真司のポケットから強い光が溢れ出した。
「……っ!?」
あまりの眩しさに目を瞑ってしまうが、真司はポケットに手を入れ中の物を取り出した。
取り出した物は、菖蒲から貰った鈴だった。
「鈴が光って――」
「――じ」
「え……?」
鈴を手にした瞬間、頭の中で声が聞こえてきた。その声には聞き覚えがある。
「――んじ。――じ」
「菖蒲、さん?」
「――じ、私の声が――」
そう。その声は菖蒲だった。
真司は頭の中で自分に語りかける菖蒲の声に耳を傾ける。しかし、声はハッキリとは聞き取れなかった。
まるで誰かに遮られているように、菖蒲の声にはノイズが走っていたのだ。
「菖蒲さん! 僕はここです!」
菖蒲にこの声が届いているかはわからないが、それでも真司は鈴に向かって話しかけた。
菖蒲も真司に話続けるが、やはり、所々しか真司には聞き取れなかった。
「――じ。その鈴の光を――」
「鈴の光?」
「――りの先へ――辿れ!」
菖蒲が強く何かを言った瞬間、光っていた光は一筋の光へと変わり一直線にどこかを指していた。
ふと、真司は周りの景色に気がつく。冬の空も桜や雛菊の傍で涙を流すお春達の姿もいつの間にか消え、辺りはまた深い霧に包まれていたのだ。
そして、記憶の中の雛菊が倒れていた場所には桜の精であるもう一人の雛菊が倒れていた。
真司は慌てて雛菊の傍に駆け寄る。
「雛菊さん! 雛菊さん!」
「…………」
雛菊は気を失っているのか返事は返ってこなかった。
真司はなんとかして雛菊を背中に背負い、一筋の光を見る。きっと、この先に菖蒲がいるのだ――真司はそう思った。
確証はないただの直感だ。それでも、進まないよりかはマシである。
「よし……!」
真司は雛菊が落ちないようにシッカリと腕で支えると、光が指す場所へと目指すのだった。
✿―✿―✿—✿―✿
その頃の菖蒲は、桜の幹から手をそっと離した。額には薄らと汗が滲んでる。
「ちっ……厄介極まりないねの。しかし、真司の声は聞こえた。真司も恐らく……」
菖蒲は「はぁ」と溜め息を吐く。あの鈴の役割を真司に伝わったはずだと菖蒲は思い、真司が帰ってくることを期待した。必ず真司の元に戻ってくると。
「真司……決して、惑わされるな。光を信じるのじゃ」
菖蒲は目を閉じ真司の帰還を願う。菖蒲は自分の手が微かに震えているのだと実感すると苦笑した。
「この私が、よもや恐れるとはね……」
震えを抑える為にギュッと手を握る。桜を見上げる菖蒲の目は、ここではないどこか遠い所を見ているような気がした。
それは過去を思い出すように……まるで、その過去を哀しむような儚げ瞳をしていた。
しかし、菖蒲がそんな表情をしていることは誰も知ることはなかった。
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