第10話

 ✿―✿―✿—✿―✿


 雛菊の記憶の中で二人の出会いと雛菊の命の短さを知ると、真司の見る風景は再び変わり始めた。


「っ!?」


(また変わる!)


 そう思った瞬間またクラリと体が揺れたような気がし、ハッとなった時には風景はまた一変していた。

 次に真司が立っている場所は茶屋ではなく雛菊の寝室だった。

 元の場所に戻ってきたのだ。しかし、時の流れだけは進んでいた。

 目の前にいる雛菊は、とても苦しそうで辛そうな顔をしている。顔色も茶屋で見た時よりもかなり悪かった。


「はぁ、はぁ……ごほっごほっ!」


 熱があるのか、額には濡れた手拭いが乗せられていた。

 八郎はそんな雛菊の手を元気づけるようにギュッと握る。微かだが八郎の顔色も少しだけ悪かった。

 それだけ雛菊のことを心配しているのだろう。


「雛菊様!」

「ごほっごほっ! ……は、八郎、さん」

「ここにいます! 私はここです!」


 熱で魘される雛菊は朦朧とした意識の中で目を開け、八郎が傍にいる安心しホッとした表情になる。それでも熱が高いせいなのか息は荒く、咳き込みは酷かった。


「ごほっごほっ! そんな、顔、しないで下さい……私は、大丈――ごほっ!」

「――大丈夫なんかではありません! こんなに熱があるなんて! どうして……どうして、直ぐに私に文を出さなかったのです……!」


 雛菊も八郎を安心させたかったのか『大丈夫』と言おうとしたが、その言葉は最後まで出ず心配しながらも怒っている八郎に遮られてしまった。

 雛菊は今もまだ手を握っている八郎の手を握り返す。


「はぁ、はぁ……だって……あなたを求めている人が、沢山、いるから……」

「こういう時こその専属ではないですか! ……どうして、あなたは変な所で強情なのですか……!」


 自分のことをこんなにも心配し、また怒ってくれることに雛菊は嬉しいのか「ふふっ」と、小さく笑う。


「笑い事じゃありません! とりあえず、今日はこの薬を飲んで一晩安静にして下さい。必ずですよ!?」

「えぇ……ごほっごほっ!」


 真司は八郎の姿を見ると、八郎は慌てて旅先から雛菊の元へと戻ってきたのだと真司は察した。

 服は所々汚れ髪もボサボサになっていたからだ。きっと眠らずに戻ってきたのだろう。

 バスも電車もない時代で大切な人・最愛な人が高熱で魘されているのだ。気が気でなかったはず。それでも、八郎は雛菊の傍にずっとは居られない。

 この時代、医者が居ない村などは、見てもらいたくてもそれが叶わず命を落とす者も多い。そういった人々を助けるのが『旅の薬師』の仕事なのだから。


「旦那様が私に文をくれたのです。直ぐに戻り、少しでもいいからあなたの傍にいてほしい、と」

「まぁ、父上がそんなことを……?」

「はい」

「……そう」


 雛菊は瞳を閉じる。顔色は悪いが笑みを浮かべ、そのまま深い深い眠りについてしまった。

 熱もあり、疲労も溜まっているのだろう。何より、八郎が傍にいるということだけで心が落ち着いたに違いない。

 雛菊は安心しきった表情で眠りについた。

 八郎は握っていた雛菊の手を離し、そっと布団に戻す。そして、桶に入った水で手拭いを湿らせると再び雛菊の額に乗せた。


「雛菊様、早く元気になってください。そしてまた、私の話を聞いてください」


 八郎がそう呟いた瞬間、風景が再び切り替わった。

 今度は雛菊や八郎でもない、白髪が混じった気難しそうな顔をしている年配の男性が真司の目の前に座っていた。

 男性は眉を寄せ、深い溜め息を吐く。すると、障子の向こう側から聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「旦那様」

「あぁ、八郎か。入りなさい」

「はい」


 その声の主は八郎だった。

 八郎は障子を開けて部屋に入る。


「お嬢様が、眠りにつきました」

「そうか……すまぬな、八郎。あの子は心を許した者が傍にいてやらないと中々眠れなくてな……」


 どうやらこの男性は雛菊の父親らしい。よく見ると、凛とした目元がどことなく雛菊に似ているような気がした。

 真司は二人のやり取りを側から眺める。二人はお互いに深刻そうな顔をしていた。


「お嬢様の命は、やはり……」

「あぁ。持って数年と言われた……」

「そんなっ!?」


(雛菊さんの命が、後、数年!?)


 真司は八郎同様に驚きを隠せないでいた。

 真司と八郎との違いで言えば、最愛の人をもうすぐ無くすという哀しみだけだろう。それでも、真司はそこまで冷徹で薄情な男ではない。

 少なからず、哀しみは抱いていた。

 八郎は眉を寄せ、悔しそうに唇を噛み締める。


「っ……俺が……俺が、お嬢様の体に合った薬草を見つけていればっ!」

「よせ、八郎。……あの子は薬なので治る病ではないのだ」

「しかしっ――」

「結核なのだよ」


(け、結核……。今、結核って言った、よね……?)


 真司は雛菊の父から出た言葉に唖然と立ちつくす。それは八郎も同じだった。

 雛菊の父親は眉を寄せ、何かに対してぐっと堪えていた。

 よく見ると、父親の拳は強く握られ微かに震えているのがわかる。


 昔……この江戸では『流行り病』として結核が流行したことがある。今こそ結核は治療出来ても、当時の江戸ではその病は不治の病とされていた。

 治療法がその時代には無かったのだ。

 雛菊の父親は深い溜め息を吐く。


「あの子責めてくれるなよ。あの子は、お前に言いたくなかったんだ。きっと、自分よりも辛い気持ちになるから、と……」

「お嬢様が……雛菊様が……そう、仰ったのですか……?」


 八郎の問いかけに雛菊の父親がコクリと頷く。


「そうだ。お前と出会う前は、あの子は病名を知り焦燥となっていた。しかし、あの子は変われた。八郎、お前のおかげでな」

「っ……!」

「こうなっては身分差など最早気にすることはない。だから……いや、せめてもの願いだ。これからも変わらず、あの子の傍にいてやってくれ八郎」

「旦那様……」


 主たる者が頭を下げるのを見て、八郎はバツが悪そうな顔になる。

 それは当然だろう。自分はこの家の主に雇われている身でもあり、雛菊とは身分も育ちも全然違うのだから。

 それでも雛菊の父親は八郎を認め、残りわずかな命だからこそ彼に雛菊を託したのだ。

 八郎はギュッと拳を握る。八郎の目には力強い意志が感じられた。


「わかりました。だから、顔をお上げください旦那様」

「そうか……ありがとう。この事は、あの子に言うな。怒られてしまうからな……」

「ですね」


 お互いに苦笑する八郎と雛菊の父親。

 八郎はスっと立ち上がり父親に頭を下げる。


「それでは、私はお嬢様の様子を少し見て来ます」

「あぁ、頼んだ」


 そう言うと八郎は雛菊の父親の部屋を出た。

 部屋には、雛菊の父親と真司だけが残っている。真司は、雛菊の父親に声を投げ掛けたいのに相手に姿が見えないのがもどかしく思った。

 いや、仮に見えたとしても父親である彼の心中を考えると、結局、何を言っても意味の無い言葉なのかもしれない。真司は何とも言えない気持ちになり、思わず雛菊の父親から目を逸らしてしまう。

 部屋には沈黙が訪れる。しかし、父親から出た溜め息で沈黙がかき消された。

 真司は顔を上げ、雛菊の父親を見る。


「あの子もお前と同じ病気にかかるとは……因果とは、こういうことなのだろうか……。菊よ……どうか、あの子の見守ってやってくれ……っ……」


 それは、とても苦しそうに見え、哀しそうに見えた。

 きっと、この父親は声を押し殺し、心の中で泣いているに違いない。

 酷く哀しんでいる。

 酷く胸が痛んでいる。

 しかし、真司にはそれを治すことは出来ない。だからこそ、真司は強く思ったのだ。


「雛菊さんの魂を……雛菊さんの願いを叶えなきゃ!」


 そう真司が決意すると風景は再び変わった。

 次の場所も雛菊の寝室だった。顔色は悪いが、機嫌は何やら良い様子だった。


「ふふっ、今日は八郎さんが帰ってくる日」


 そう言って、布団から出て障子を開ける。障子を開けると風が部屋の中に入り、風の冷たさで雛菊は少しだけ肩を震わせた。

 息をホゥと吐くと微かに白くなる。どうやら時は流れ、季節は冬を迎えているらしい。


「八郎さん、早く帰って来ないかしら」


 雛菊の片手には白い文がある。雛菊はそれを大切そうに抱き締めていた。


「早く春になったら、また一緒に桜を見たいわ」


 そう雛菊が呟いた瞬間、突然、風景が変わった。

 最早、風景が変わるのは何度目かわからない。だからか、突然変わっても真司は驚きもせず、クラリと揺れる感じにも少しだけ慣れてきていた。


 今度の風景は、満開の桜が咲き誇る春だった。

 真司の目の前には八郎と雛菊がいる。そして見たことのある大きな桜が二人の隣で咲いていた。


「この桜……」


 真司は上を見上げ満開の桜を見る。この立派な桜木に真司は『見たことがある』と思ったのだ。

 見たことがあると思うのは当然だろう。何せ、この桜は彼処で見た桜と一緒なのだから。

 桜の見分け方はわからずとも、これだけの立派な桜はそう存在しない。だから真司は、この桜があの時の桜だとわかったのだ。


「そっか……あの桜は、雛菊さんの記憶の一部だったんだ」


 風が吹くと桃色の花弁がヒラヒラと地面に舞い落ち、八郎と雛菊はそんな桜の下で寄り添いあっていた。


「八郎さん……私、幸せです」

「俺もです、雛菊様」

「こうして、また、あなたと春を迎えることができた。こうして、またあなたと桜を見ることができた」

「来年も一緒に春を迎えましょう」

「えぇ」


 八郎と雛菊は微笑み合う。すると、雛菊は胸の懐から小さな白い手拭いを取り出した。

 その中には、八郎から貰った桜貝の貝殻があった。

 八郎はその貝殻を見ると、少し驚いた表情をすると優しい笑みを浮かべた。


「大切に持っていてくれたのですね」

「えぇ。あなたから貰った物は全部私の宝物ですから」


 そう言うと、雛菊は貝殻の半分を八郎に渡した。

 八郎はそれを受け取りながらも首を傾げる。


「雛菊様?」

「半分は八郎さんに。来年の春までこれを持っていてください。そして春が迎えたら、桜の下で再び貝殻を合わせましょう? 見て、こうやって二つの貝を合わせると……」


 八郎は雛菊が合わさった貝殻の内側にある絵を見て驚く。貝殻の内側には二匹の蝶が仲睦まじく貝殻の中を飛んでいたのだ。


「これは……」

「お知り合いの絵師に頼みましたの。この蝶は番(つがい)……二匹で一つ、だから――」

「――わかりました。……約束です」


 雛菊が最後まで言葉を言い切る前に、八郎は貝殻を受け取り返事をした。

 雛菊はポカンとした表情で八郎を見ると、八郎は頬を上気させながら嬉しそうな顔をしていた。

 雛菊はそんな八郎の表情を見て少し恥ずかしくなったのか、ハニカミながら自分の小指を八郎の前に差し出す。

 八郎も自分の小指を前に出し、雛菊の小指と絡めた。


「ゆ~びき~りげ~まん」


 そう雛菊が言い始めた途端、八郎が「ははっ」と声に出して小さく笑った。

 雛菊はそんな八郎を見て首を傾げる。


「あら? 私、可笑しいこと言ったかしら?」

「いえ。ただ、童子に戻ったような気がしたので」

「……ふふっ、そうね」


 お互い笑い合いながら小さな約束をし指切りをした。

そして、その指が離れると同時に、また風景が変わる。今度の季節は冬だった。

 雛菊は障子を開けたまま、冬の空を見上げていた。


「八郎さんは、今、何をしているのかしら? 元気だといいのだけれど……」


 雛菊の手には八郎と半分に分けた桜貝がちょこんと乗ってある。ふと、強い風が吹き付けた。

 風が吹き、乱れそうになる髪を押さえる雛菊。

 その目は、どこか寂しげな目をしていた。


「っ……ごほっごほっ……ごほっごほっごほっ!」

「雛菊さん!」


 雛菊が咳き込むの見て、真司は慌てて雛菊に駆け寄る。背中をさすろうと雛菊の背に触れるが、真司の手は背中に触れることなく雛菊の体を通り抜けてしまった。


「っ!? そ、そっか……これは記憶だから……」

「ごほっごほっ、ごほっごほっ、ごほっ!」


 真司は自分が何も出来ないことに焦りと苛立ちを感じた。

 誰かを呼ぼうにも真司の声は聞こえない。姿は見えない。触れることも出来ない。

 ただ、見ていることしか出来ないのだ。

 これは、彼女の記憶。彼女の思い出だから。


「ごほっごほっ、ごほっごほっ、ごほっ!」


 咳が酷く、その場に崩れ落ちる雛菊。

 障子を支えにしているので倒れることはなかったが、真司から見ても今度の咳はかなり酷いものだとわかった。


「ごほっごほっ! ごほっ! ごほっ……はぁ、はぁ……っ!?」


 咳が止むと、雛菊は息を整え落ち着く。そして、雛菊は口元を押さえていた手を見て思わず息を飲んだ。

 真司もそれを見て、一瞬だけ息が止まったような気がした。


 雛菊の掌には、真っ赤な血が着いていたからだ。


 口元にも血が付着している。顔色は、初めて見た見た時よりもかなり悪かった。

 それは悪化している証拠なのか、それとも血を見た恐怖からなのかはわからない。雛菊は唇をキュッと噛み締め、手拭いで口元を拭う。


「八郎さん……八郎さん……八郎さんっ……!」


『貴方に会いたい。早く会いたい。私には……もう時間が……』


 そんな雛菊の想いが頭の中に響くと、また風景は変わった。

 次の季節は春。

 雛菊は八郎と一緒に、あの桜の下で幸せそうにしているはずだった。しかし、現実はそうはいかなかった。

 雛菊は桜貝をギュッと握り、布団の中から庭に植えられている小さな桜を見る。


「八郎さん……どこにいるの? ……ごほっ、ごほっ!」


 あれだけマメにくれた手紙も来ず、春になっても訪れない八郎に対して真司は不安になる。そして、風景が変わる事に雛菊の咳き込む回数も増えていた。


「どうしたんだろう……お互いあんなに愛し合っていたのに……」


 八郎に何かあったのだろうか、と思う真司。

 八郎を探しに行きたいが、これは雛菊の記憶なので探すことは出来ない。出ようとすれば、また同じ場所に戻ってきてしまうのだ。

 季節が過ぎる度に雛菊の顔色は悪くなり、真司は雛菊の姿を見てられなかった。

 身体は普段から細いのに、腕も足も更に細くなり顔色は薄らと青い。栄養が行き届いていないのか、髪の艶も消えていた。

 それでも、雛菊の心は美しかった。八郎への想いが強いからだ。

 だからこそ、真司はこれが記憶だとわかっていても何とかして雛菊を八郎に会わせたいと思った。


「雛菊さん……」


 真司がそう呟いた瞬間、目の前の風景が変化した。

 次の風景も時間が経っている。季節は秋に変わり、部屋も雛菊の部屋では無く雛菊の父親の部屋に変わっていた。

 部屋の中央で雛菊の父親は手紙を読んでいた。


「なんて事だ……」


 雛菊の父親は手紙を読み終えると額を押さえながら深い溜め息を吐いた。

 真司はその様子に「どうしたんだろう?」と、思い首を傾げる。

 それほど何か大変なことが起きたのだろう。


「あの子に何て説明すればいい。……いや、こんな事は言えるはずがない。まさか……八郎が死ぬなんて――」


『八郎が死んだ』

 確かに雛菊の父親はそう言った。

 その言葉に真司は絶句する。


「八郎さん、が……。なっ、なんで……」


 真司は父親の傍に行き、開かれている文を読もうとした。

 本当はこんな事してはいけないのだけれど、真司は八郎に何が起こったのか知りたかったのだ。

 しかし残念なことに、手紙の文字は達筆過ぎて真司には全てを読むことはできなかった。

 それでも何とかして読み解く真司。


「えっと……山、崩れ……? これは『不明』かな? まっ、まさか……!!」


 読めるワードを呟き頭の中で考える。そして、真司は一つの推測に基づいた。


「山崩れにあって死んだってこと……? でっでも、不明ってどういうことなんだろう……?」


 真司が考えていると、またもや風景が変化した。

 季節は変わらず秋のままだった。それでも時間だけは進んでいた。

 八郎が雛菊の前に現れなくなってからは、雛菊の世話は馴染みの使用人に代わっている。結核の患者には誰も近づきたがらないが、この使用人は雛菊の乳母だったので雛菊のことは実の孫のように思い、雛菊が結核に罹った今でも、雛菊に近づき、接し、世話をする唯一の人だった。


「お嬢様、お体はどうですか?」

「大丈夫よ……ありがとう、お春さん。お春さんも、私の世話なんてしなくてもいいのに……移ってしまうわ」

「何を言っていますか。私は、お嬢様がお産まれになった日に抱き上げた一人ですよ。お嬢様は、私の孫同然です」

「お春さん……」


 皺を寄せ微笑むお春。お互いの歳を考えると確かに雛菊は孫でお春は祖母に近かった。


「そうなんだ……良かった、雛菊さんの傍にいてくれる人がいて」


 誰も近づきたくない――故に、結核の患者の最期は独りで死ぬことが多い。周りには誰も居ず、動けない体で最期を迎える……それはきっと想像以上に寂しく、苦しいものだろう。だからこそ、真司な傍に八郎だけではなくお春が居てくれたことに内心ほっとした。


「ねぇ、お春さん」

「なんですか?」

「今、八郎さんは何処にいるのかしら?」


 桶に入っている手拭いを絞っていたお春の手がピタリと動きが止まる。


「そ、それは……」

「お春さん?」


 どうやら、お春も八郎に何が起きたのかは把握しているらしい。恐らく、雛菊の父親が伝えたのだろう。

 お春は眉を下げ口ごもる。そんなお春の様子を見て、雛菊はお春が八郎についえ何かを知っていると悟った。


「お春さん、教えて」

「し、しかし……旦那様に口止めされているのです」

「父上が?」


 雛菊がそう言うと、お春は小さく頷いた。


「ですが、私は……」

「言うか悩んでいるのね……」

「はい……。お嬢様の想いはご存知です……だからこそ、真実を知って欲しいと……」


 だが、真実を告げると雛菊の心は恐らく崩れ落ちるだろう。その葛藤もあり、お春は中々言えないでいたのだ。

 雛菊は今にも折れそうなぐらい細い手でお春の手に触れる。

 寒い中水仕事も沢山しているので、お春手はカサカサとしていて荒れていた。


「お春さん……教えて、くれますか?」

「お嬢様……」

「知りたいの……八郎さんのことを。このまま何も知らずに死ぬなんて……私は嫌」


 雛菊の真っ直ぐな瞳にお春も決心がついたのか、雛菊の目を見て小さく頷いた。例えそれが、雛菊の心が崩壊したとしても。

 お春は雛菊の手を優しく握り返し、残念そうな顔で雛菊に言う。


「お嬢様、あの方は……お亡くなりになりました。……旅の途中、山が崩れ生き埋めになったとか……ご遺体は行方不明で見つかったのは、いつも背負っていた薬箱と草履が片方……そして、その薬箱の中にお嬢様宛の手紙が入っていたそうです」

「そん、な……」


 お春の手から力なく離れていく雛菊のか細い手。雛菊は涙をツゥと流しお春から顔を背けた。


「お春さん、ごめんなさい……一人にしてくれる?」

「はい……」


 スっと立ち、頭を下げるお春。その顔は、とても悲痛な面持ちだった。

 部屋を出る際に一度振り返り、お春は雛菊に何か言葉をかけようかと思い口を開いたが、結局、何も言えずそのまま雛菊の部屋を出たのだった。

 部屋に一人きりになると、雛菊はポロポロと涙をこぼす。


「うっ、うぅっ……どうして? どうして、こんな私よりも先に逝ってしまうの……? うっ……っ……八郎さんっ」

「雛菊さん……」


 傍にあった桜貝を握り締める雛菊の姿を見ると、真司の心はぎゅっと締め付けられる想いになった。

 触れられず声も届かないとわかっているはずなのに、それでも何か声を掛けたかった。

 そして、真司が崩れるように泣き続ける雛菊の肩に触れようとした瞬間、また景色が変わった。

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