第15話 ルクレツィア の 悩み
(寝付けないなぁ、ちょいと散歩でもするか)
その日の夜、リヒトはベッドをそっ抜け出し部屋を出た。
(やっぱ、晩飯前に一眠りしたのが悪かったか?)
誰も居ない、物音ひとつ無い静寂の中、カーペットを歩く。
白いネグリジェのまま、少しだけ肌寒さを感じながら……。
このデフェール女学院に潜入してから二日間、忙しく過ぎていった。
(門の職員と騎士は半分以上、教師は一人、この寮棟の住人は殆どが俺の支配下だ)
加えて。
(行方不明だったオニキス姉ぇは見つかった、魔法剣の代償と記憶をどうにかしないといけないが)
勇者の妹であるルクレティアからは信頼を得、プラミア王女もその性格が掴めてきた。
彼女の弱点を把握するのも時間の問題だろう。
(月は……、変わらねぇなぁ)
なんともなしに歩いていたが、窓から見える月に誘われて外へ。
一階の食堂の奥の扉から庭に出て。
(ったくよぉ。何とかなるもんだな。――カラード頼みってのが男として情けないけどさ)
もし魔王が生きていたら、この潜入の功績を誉めてくれただろうか。
評価して、くれただろうか。
リヒトはベンチに腰掛けて、夜空を見上げる。
周囲に人が居ないからだろうか、緑の匂いが濃く感じられて。
――それに混じる、春待ちの花の香り。
「眠れませんか?」
後ろから聞こえた、透明感のある品の良い声。
振り返りはしない。
この声の主、寮室と同じエディニースの花の香水を付ける者など一人しかいないのだ。
「少しだけね、アナタも?」
「……そんなところです」
ルクレツィア・レクシオン。
水色のネグリジェ姿の彼女は、曖昧な笑みで隣に。
(さて、月を眺めに来た。――そんな感じはしないな。居るか? カラード)
(お側に、殺しますか?)
(……お前、コイツに恨みでもあるの?)
薄々気づいてはいたが、カラードはルクレティアに敵意を持っている。
リヒトとて朴念仁ではない、彼女の敵意の理由ぐらい検討は付く。
だが、……それを言葉にするには、今の関係が心地よすぎて。
(勇者をぶっ殺してから、――それからだな)
(何がですか? それより、今日は疲れたでしょうし部屋にお戻りになるか、このぶりっこを洗脳するかしてください)
(はいはい、会話の流れ次第だ)
暫く空を眺めていた二人と一匹だったが、月が雲に隠れた時、彼女は静かに口を開いた。
「実は、……リヒターテ義姉様に、話さなければならない事があるのです」
「楽しい話――じゃないわね、その口振りでは」
「ふふっ、リヒターテ義姉様は察しが良すぎますわ」
少し含んだ声色、暗い感情をリヒトは聞き逃さない。
どんな言葉が飛び出てくるのか、静かに夜空を見上げて待つ。
「最初に、言えれば良かったのですけど。……勇気がでなくて」
「打ち明けるのが怖い? 大丈夫よ、今はお月様すら見てないわ」
ルクレティアは湿った溜息を一つ、両手を祈るように組んで。
「……申し訳ありません。わたしも、お兄様の花嫁の一人なのです」
「アナタ達は血の繋がった家族と聞いていたけど?」
なるべく自然に、驚きを隠してリヒトは疑問を口にした。
ここは、言葉ひとつが致命傷となりえる場面である。
「驚かれないのですね、リヒターテ義姉様」
「このペンダントを持ってる以上、可能性は考えていたわ。――正直、薄いとは思っていたけど」
「正直に言える強さが羨ましい……、血が繋がってるといっても、半分だけなのです。わたしは――妾の子」
「なんとなく事情は察するわ、でもそれだけじゃないのでしょう? 可愛いルクレティア」
それだけなら、もっと違う時で、違う雰囲気だった筈だ。
もっと、もっと心の弱みを見せろとリヒトは心の中で嗤う。
「――本当に、義姉様は…………、いえ、聞いてください」
「何を言っても、秘密は墓まで持って行くわ。アタシの矜持と大切な人に誓って」
「ありがとうございます。――わたしは、流されて生きてきました。勇者の血を繋ぐ為に生かされて来ました。……お兄様が勇者になったのは予想外でしたけど」
きっと、このまま兄に嫁ぐのでしょう。
悲哀と憂鬱が混じった言葉に、リヒトは苛立って拳を強く握った。
人は魔族を悪だというが、人も魔族と変わらないぐらい邪悪ではないか。
――ルクレティアは続ける。
「お兄様の事を愛しています。けれど、それは……」
「家族としての、愛」
「はい。お兄様は人類の希望で、眩しくて、わたしなんかをお嫁さんにするって言ってくれて……喜ばしいことなんです、嬉しいって思っているのに」
どこか遠い穏やかな声は、月にかかる雲まで届くことなく消えて。
しかしそれは確かに叫びだった。
ルクレティアという少女が発した、運命への嘆き。
「それで、何がしたいのアンタ?」
リヒトは率直に切り込んだ。
勇者への憎しみ、ルクレティアの生き様に苛立って『アンタ』と呼んだ事に気づかず。
「分かりません、でも、ただ……、最初にリヒターテ義姉様の事を知った時、わたしと同じなのかもって思ったんです。――でも違った、義姉様はプラミア義姉様達のように強く、眩しくて。でも、……他の誰より優しいと」
(こいつは……ッ)
何が勇者だ、悩みを抱える妹ひとりを救えないで、何が勇者なのだ。
理屈は分かる、簡単に想像がつく。
人間は勇者の血筋を存続させる事で、魔族との均衡を保ってきた。
その為には、一人の少女の気持ちなど無いも同然。
――だが、リヒトがそれを責める権利はない。
ルクレツィアを、彼女達を復讐の道具にしか見えていないリヒトには人類の非道を責める事は出来ない。
(同情しようルクレツィア・レクシオン)
優秀な兄へや、婚約者達への劣等感。
流されるままに生きる事しかしらない、無力な少女。
今リヒトは、――その可愛そうな少女の弱みに入り込もうとしている。
「……ねぇルクレツィア、勇者様の結婚が嫌なら、そう言っていいのよ」
彼女は言えないだろう、それを承知で優しく微笑む。
「それは……」
「アイツを好きで好きで愛してるのならね、普通はプラミアみたいな反応が普通。アンタみたいに嘆かないのよ」
心の弱い所を逆なでするように。
「………そう、なのでしょうね。でも、わたしは」
「血の義務がある? 兄に望まれている?」
「そうです、だから」
リヒトは冷たく突きつける。
「アナタは男として愛していないのに?」
「――――っ!」
言葉に詰まったルクレティアは、次の瞬間目を釣り上げてリヒトに怒鳴る。
カラードに頼んで防音していなければ、誰かが起きたかもしれない剣幕だ。
「リヒターテ様はお強いからっ、御兄様を愛してるからっ! そんな事が言えるのですっ!! わたしはっ! わたしだって――――」
息を荒げ、睨みつけるルクレツィア。
リヒトは虹色の瞳で静かに見据え、そっと手を延ばした。
「な――っ?」
「……ルクレティア」
風が吹き、雲間から月明かりが。
月光に柔かく反射するブラウンの髪をリヒトは一房救い、首筋へ手を滑らせ。
細い首にかかるペンダントの鎖を持つ。
「ふふっバカね、アンタはちゃんと勇者様を愛してるわ。愛していないと言われて怒るのは、その証拠」
同時に、自分のペンダントを出して。
ルクレティアのその想いを見抜いていたからこそ、渡されているのだと。
――そう、思いこむように誘導する。
途端、ルクレティアはほう、と肩の力抜いて。
大事そうに自らのペンダントを握る。
「………意外と意地悪なんですね、義姉様」
「否定はしないわ、じゃあ意地悪ついでに言ってあげる」
「何です? きっと耳が痛い事なのでしょうけど、聞いてあげます」
口を尖らせてはいるが、その口振りは安堵が見えて。
リヒトは確信した。
彼女を堕とすなら、今夜だと。
だから。
「アナタはね、自分に自信がないだけ。劣等感を、誰もが当たり前に持つ感情に悩んでいるだけよ」
かつて自分も同じだった、その様な口振りで。
「………じゃあ、どうしたらその劣等感がなくなるんです?」
小首を傾げて訝しむ、けれどその瞳は期待に輝いて。
――その言葉を、リヒトは待っていたのだ。
出会ってから二日に満たない時間、だが十分に信頼を得て、隠してきた悩みすら言わせて見せた。
これから言う言葉に、ルクレティアは従う以外の選択肢がない。
そしてその言葉とは――。
「――要するに、オンナとして自信を持てばいいのよ」
「………それって!? え、ええっ!?」
「アハハッ、顔を真っ赤にして何を考えたの? ま、当たらずも遠からずなんだけど」
「義姉様~~っ!?」
顔を真っ赤にし、大きな目を白黒させるルクレティアに。
リヒトは虹色の瞳を妖しく輝かせ、彼女の耳元でそっと囁いた。
「良い方法を知っているの、アナタが協力してくれるなら教えてあげても良いわ」
「協力、……わたしが出来る事となのでしょうか」
「ええ、ちょっとした魔法を使うの。けれどペンダントが邪魔をするでしょう?」
「な、なるほど……、確かに昼前の決闘では義姉様が分身した姿が見えませんでしたから」
そして駄目押しとばかりに、リヒトは少し照れて小声になって。
「実はね……ひとつ理由があるのよ。これはアタシの秘密に関わってくるから、ルクレツィアにだけ。――――誰にも言わず、秘密にしてほしいのよ」
「分かりました! わたしとリヒターテ義姉様だけの秘密ですね!」
「そう、いい子ねルクレツィア。――本当に、良い子」
ここでは駄目だから、部屋に戻りましょうか。
そう立ち上がるリヒトは、ルクレティアに手を差し伸べて。
彼女は何も疑わずに、その手を取った。
(クククッ、カカカカッ!! 分かっているなカラードォ!!)
(万事お任せを。――くれぐれも、溺れないようにしてくださいね)
(愚問だな。どんな女が相手でも、オマエ以外に溺れることはないさ)
リヒトは草むらから出てきたカラードに指示を飛ばしながらほくそ笑む。
哀れな美少女の、全てが奪われようとしていた。
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