第2話〜春風と香水

 「はい、それじゃあ皆さん、今からアンケートを配りますので、ペンを準備してください」


 新学期あるあるで、意味不明なアンケートを記入させられる入学式初日、当時の冬馬は過去のトラウマから人と関わるのが苦手だった。中でも女性に関しては、「近づかない・話さない・目を合わせない」といった非接触三原則という掟があるほどに苦手だった。

 そのために高校は地元から少し離れた所の高校を選び、気持ちを新たに学生生活を一からやり直そうと決めていた。

 そこで校則に引っかからない程度に手入れがされていなかった髪も少し雰囲気のある理容室で整えて貰い、縁が太かった眼鏡も心機一転して、細い縁が特徴の大人風の眼鏡を購入した。


 「それではこの紙に記入を始めて下さい」


 冬馬は住所や電話番号の記入欄を埋めていき、うっかり文字を間違えて消しゴムに手を掛けた時、ふと隣の席の女子生徒が視界に入った。

 どうやらその女子生徒は筆箱を忘れたらしく、手を動かさず窓の外を眺めていた。

 これはどん底だった自分を変える千載一遇のチャンスだと考えたが、いざ手を差し伸べようと思っていても「気持ち悪がられるかな」という疑問が脳内を駆け巡る。当然のことだがペンを貸さないという選択肢を選んでも後味が悪くなる。

 三分ほど自分の中の心と格闘した結果、冬馬は勇気を振り絞って隣の席の女子生徒に声を掛けた。


 「あの、良かったらペン、使いますか?」


 その女子生徒は冬馬の顔をじっと見つめると、「いや、いいです」と言って、反対側の隣の女子生徒に、自分に見せた怪訝けげんそうな表情とは取って代わって、物腰を柔らかくした態度で頼み込んだ。

 周囲からクスクスといった自分を嘲笑う声が冬馬の耳に流れ込んでくる。

 冬馬は恥ずかしさで胸がいっぱいになり、急いで記入欄を埋め、机に伏せてしまった。

 

 (……やっぱり人間ってそう簡単に変われる訳ないよなぁ)


 別にこの女子に対して下心があったわけではない。ただ他人に壁を作る自分の気持ちに、自分はもう前に進む事ができると証明したかっただけなのに。

 せっかく振り絞った良心がいとも簡単に弾き返され、ついでに自分を嘲笑するのはいかがなものかと思ったが、これで冬馬は変わりたいという自らの甘い気持ちに蓋を閉め、心の中で渦巻く慚愧ざんき憎悪ぞうおに誓った。

 冬馬は今後女子生徒に関わらないと心に決めたのであった。



 「あれはもう思い出したくない限りだね」

 「ていうか花園さん勉強合宿出るって言ってたよね?」


 勉強合宿とは、各学年春に行われる行事の事で、毎年国公立の大学を狙う高順位な者たちが多く参加している。それ以外にも、ただ純粋にお泊りを楽しむといった狙いの生徒たちが参加しているが、生徒の大半は、後者の純粋にお泊りを楽しむといった目的で参加しているのが多い。

 なかでも生徒たちの間では、二泊三日のうち二日目の夜に開催される「肝試し」が人気らしい。肝試しは二人組のペアとなって、ゴールまでの明かりのない夜山道を怖がりながら歩いてゴールするというイベントである。

 恐らく純とペアを組むであろう冬馬はそんなイベントなんてどうでも良く、学校のテストの学年順位を下げないためと、欲を出すのであればそのまま国公立の大学も狙いたいという理由で勉強合宿に参加することになっていた。


 「そういや純はなんで勉強合宿参加するの?」

 「決まっているだろ、愛する友とお泊りができるんだぜ。こんな素敵な行事見逃すわけにはいかないじゃないか!」

 「……勉強もしろよ」


 目先の行事に浮かれる純に、冬馬はやれやれと肩をすくめると、自分のクラスである二年二組の下駄箱に向かって足を進めた。

 下駄箱の周辺には、先ほど鼻孔を刺激した甘ったるい香水の香りが、まだ薄っすらと残っていた。


 「……花園さんて頭良かったっけ?」

 「……え?」


 普段この世に存在している三次元の女性の名前を滅多に言わない純が、よりにもよって自分達と全く接点がない女性の名前を口に出したことが意外で、冬馬が言葉を詰まらせていると、純は話を続けた。


 「いや、ちょっと引っかかってたことがあってさ」

 「どうしたの?」

 「なんでもないよ」


 若干何かしらの事をにごされたと感じたが、所詮自分とは対極にいる存在だ。今後の学校生活の中で卒業するまで話すことはないし、たとえ勉強合宿のような行事の最中でも、間違った事故が起こりでもしない限り関わる事は無いだろう。

 冬馬は頭の中の想像を振り払い、グレーのタイルの上にスニーカーを置いた。

 両開きのドアを開いて外に出る時には、すでに甘ったるい香水の香りはなくなっていて、冷たい春風だけが肌を掠めていた。

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