あのときの

 今日の朝、テレビには不良グループと暴力団の抗争についてのニュースが流れていた。


 不良グループは五十人全員が死亡。現場には死体の山と大量に血が流れた跡があり、首や手足がそこら中に転がっていたらしい。


 犯人と思われる暴力団員たちは全員記憶を失っていたそうだ。


「今日のニュース見た!?」

「見た見た! めちゃくちゃビビったし」

「マジ怖いよねー」


 学園内は朝からその話題で持ち切りだった。



 愛梨は遅刻して二限目から来た。


 彼女は母親のことを心配し、学校を休むつもりでいたが、母親に「学校へ行きなさい」と言われて仕方なく登校したらしい。


 愛梨は学校でもずっと落ち着かない様子だった。


 母親である絵梨は愛梨にとってたった一人の大切な家族だ。気に掛かるのもわかる。


 彼女は放課後すぐに母親のいる病院へ行くとのことだった。



 幸介と亮太は何故か学校を休んでいた。


 カレンに幸介のことをそれとなく訊いてみたが、知らないと言っていた。


 休み時間に夕菜と愛梨がそれぞれメッセージを送ってみたが、二人から返信はなかった。



 藤本先生が担当している数学の授業には、別の数学教師が来て授業をしていた。


 藤本先生は何やら怪我をしたらしく、しばらく授業を休むとのことだった。


 色々なことが、いつもと違う一日だった。




 午後の授業が終わった後、夕菜は愛梨と一緒に彼女の母親がいる総合病院へとやって来た。


 四階の病室の前まで来ると、扉を開け、中へ入った。


「お母さん……?」


 愛梨が声を掛けたが、絵梨からの返事はない。


「寝てるんじゃないの?」

「そうみたいだね」


 夕菜が小声で言うと、愛梨は頷く。

 彼女は静かに母親がいるベッドへ近付いていく。


「えっ…………?」


 愛梨が何かに驚いたように立ち止まった。

 彼女の視線はベッドで眠る絵梨へと向けられている。


「どうしたの?」

「夕菜、見て……」


 夕菜もベッドへ近付く。

 そして、眠っている絵梨の姿を見て驚いた。


 そこにあったのは目を閉じている彼女の綺麗な横顔。

 昨日見たような痛々しい姿ではない。


 頭から頬にかけて巻かれていた包帯は取り外されており、顔にはアザなどが一つもない。失明したはずの左目の辺りも、何事も無かったかのように綺麗だ。


「お母さん……」

「ん……」


 絵梨は愛梨の声が聞こえたのか、目を覚ました。


 彼女は意識が虚ろなまま、ベッドに手をついてゆっくりと上体を起こす。


「ふあ……愛梨……おはよ」


 絵梨は薄く目を開け、愛梨の姿を確認してそう言った。どうやら少し寝惚けているらしく、目を擦っている。


「お母さん……左目、見えるの……?」

「……? うん……見えるけど?」

「……!」


 愛梨は思わず両手で口を抑えた。

 そして彼女の目から涙が零れる。


 愛梨は母親にがばっと飛び付き、彼女を抱き締めて泣き始めた。


「ちょっ、愛梨……どうしたの?」

「だってぇ……うぅ……」


 愛梨が泣いていると、絵梨は愛梨の背中を摩りながら、「よしよし」と宥めていた。


 しばらくの間、二人はそのまま抱き合っていた。


 その後、絵梨は愛梨の肩を押して引き剥がすと、夕菜へと微笑む。


「こんにちは、夕菜ちゃん。わざわざ来てくれてありがとね」

「いえ、そんな。全然いいですよ」

「昨日も来てくれたんでしょ?」

「ええ、まあ」

「それに幸介君と亮太君も」

「そうですね」


 彼女は先日、愛梨と下着を買いに行ったときに亮太や幸介にも会っているので、彼らのことを知っている。買い物の後にはみんなで遊び、かなり仲良くなったらしい。


「えっと、怪我は……大丈夫ですか?」

「怪我?」


 夕菜が尋ねると、絵梨はきょとんとなった。


 彼女はぺたぺたと顔を触り、腕や体を見ていく。


「うん、大丈夫みたい」

「そうですか……良かったです」


 絵梨が笑顔を向けてきたので、夕菜もそう言って微笑む。


 しかしどういうことだろうか。


 彼女の目は治るものではないと聞いた。それが元通りに治っており、顔の怪我も綺麗に無くなっている。


 怪我がそこまで酷くはなかったとも考えられるが、一度は失明したとも言われたくらいだ。そんなに簡単に治るとは思えない。


 彼女の怪我が治ったことは本当に良かったし、素直に喜ぶべきことだと思うが、この現状が不思議でならない。


「……あれ? お母さんのスマホ、ここにあるじゃん」


 愛梨が残った涙を拭いながら、枕元に置いてあるスマホに気付いて言う。


 絵梨は「あ、ほんとだ」とそれを拾う。


 どうやらいつの間にかなくなっていた絵梨のスマホが見つかったらしい。


 愛梨はしばらく不思議そうな顔をしていたが、「まあいっか」とあまり気にしていないようだ。


「ねえねえ愛梨。私ね、何かいい夢を見た気がするの」

「どんな夢?」


 絵梨が笑顔で話し始めたので、愛梨が訊き返す。


「ずっと会いたかった人に会えた夢」

「ふーん。誰に会ったの?」

「えーっと、わかんない」

「ぷっ。何それ」


 二人は何事もなかったかのように、ほのぼのと普段通りのような会話をし始めた。


 二人共笑顔で、とても楽しそうだ。


「あとね、愛梨がテストで赤点を取る夢」

「……! へっ……?」

「え……?」


 沈黙が流れた。二人は何やら気まずい雰囲気で目を合わせている。


「……取ったの?」

「な、何のことかしら……?」

「あっ、取ったな!?」

「そんなもの取ってないでしゅよ」


 絵梨が突っ込んで尋ねると、愛梨は目を逸らし、口笛を吹くような仕草をしてとぼける。


 確かに愛梨は数学のテストで赤点を取ったため、先日補習をさせられたと聞いた。



 笑顔で話している二人を見て、夕菜も微笑ましくなった。


 絵梨の恋人のことは話題に上がらない。二人共その話題を避けているようだ。もちろん夕菜から話すこともない。


 少しの間、二人きりにしてあげようと思った。


「愛梨、私ちょっと飲み物買ってくるね」

「うん、わかった」



 夕菜は一人病室を出た。


 通路を進み、エレベーターで一階まで降り、売店へと向かう。


 歩きながら、絵梨のことを考えた。


 昨日は彼女の怪我が酷く、左目が失明していると聞いた。


 愛梨はずっと悲しんでおり、彼女に掛ける言葉が見つからなかった。


 二人を見るのが、とても辛かった。



 しかし一日経った今、絵梨の怪我は何事もなかったかのように綺麗さっぱり治っている。


 まるで奇跡のような話だ。

 昨日のことが夢だったのではないかとすら思えてくる。


 愛梨も嬉しそうだったし、とても安心したような様子だった。


 多分、絵梨はすぐにでも退院出来るだろう。


 本当に良かったと思う。



 売店へ続く通路を歩いていると、スマホが鳴った。


 歩きながらポケットからスマホを取り出し、画面を見る。


 幸介からメッセージだ。


 夕菜が学校にいるとき、『風邪でもひいたの? 大丈夫?』とメッセージを送っていたので、それに対する返事だ。


『大丈夫だよ。ありがとう』


 スマホにはそう表示されていた。


 少し嬉しくなり、笑みが零れた。


 彼が亡くなった人を想い続けているのはわかっているが、やはり彼には興味を惹かれるのだ。


 何故かたわいもない返事も優しく感じてしまう。


 こんなメッセージだけで喜ぶ自分が馬鹿みたいだと思う。


 何か返信しようと考える。


(幸介君も絵梨さんのこと、知りたいよね……?)


 絵梨の怪我が治ったことを伝えようと思い、スマホの画面を操作しながら歩いていると、人にぶつかった。


 同時に、持っていたスマホを落とした。


「おっと……」

「あっ、ごめんなさい……!」


 謝罪しながら、ぶつかった相手の顔を見る。


 その瞬間、思考停止になり、心臓が止まりそうになった。


(あ、あのときの……!?)


 一カ月程前、三人掛かりで自分を拉致し、暴行しようとした男たちのうちの一人だ。


 雰囲気や髪型が違うが間違いない。


 あのときの恐怖は簡単には拭えない。男たちが自分を見る下卑た笑みを忘れるわけがない。


「こちらこそすみません」


 ぶつかった相手の男は軽く頭を下げてそう言った。


「……」


 予想した反応とは違う。

 丁寧な対応だ。


 一瞬、別人なのかもしれないという考えも頭に過ぎった。


 夕菜が声を出せずにいると、男は落ちていたスマホを拾った。


「あの、これ落としましたよ」

「え? は、はい……」


 男がスマホを差し出すので、恐る恐るそれを受け取る。


 おかしい。見た目はあのときの男だと思うが、中身がまるで違う気がする。横暴な雰囲気はなくなっており、別人のようだ。悪そうだった目付きもどこか穏やかに見える。


 それに、夕菜のことは全く知らないという様子だ。


 彼らとは数分間顔を合わせただけなので、この男が自分のことを忘れていたとしても不思議ではない。


 しかし、何となく腑に落ちない。


 夕菜が唖然と男のことを見ていたからだろう。


「すみません……もしかして、僕の知り合いですか……?」

「えっ……?」


 少し戸惑う。


「それとも……以前、僕があなたに……何か悪いことでもしたのでしょうか……?」


 男が申し訳なさそうに尋ねてきた。


 あのときは幸介が助けてくれたおかげで、彼らが夕菜にしようとしたことは未遂に終わった。


 しかし、夕菜以外にも被害者はいると思う。


 もし今この男に会ったのが自分ではなく本当に被害を受けた女性だったら、どうなっていたのだろうか。


 恐怖でうずくまるのか、怒り狂って殴りかかるのか、どちらにしろこの男を許せないだろう。


 そんなことを考えていると、男は不安げに言う。


「実は、僕……一カ月前までの記憶が無くて……」

「……!」


 言葉を失った。


(記憶がない……? 一カ月前までの……?)


 どうやら彼は記憶喪失となり、この病院に通っているらしい。


「……悪そうな人が、僕の知り合いだと言って会いに来たんです……それに、悪い人しか記憶喪失にならないと聞いたので……」


 男は悲しげに肩を落として俯いている。


「だから……もし僕が何かしたのなら……」

「あ、いえ……別に……」


 そう言ってごまかした。


 あのときのことは未遂で終わったし、わざわざ口にしたくない。それに、何か話してこの男たちと余計な関わりを持ちたくない。


 だから、適当にやり過ごそうと思った。


「そうですか。良かった」


 男はほっとしたような表情になり、「それじゃ」と軽く会釈をして行ってしまった。


 その後ろ姿を、夕菜は呆然と見送る。



 あのとき、たった数秒程度の間に幸介は不良たち三人を倒してしまった。


 倒れた男たちはピクリとも動かなかった。


 夕菜は目を逸らしていたため、彼が男たちを倒す瞬間を見ていないが、その間、殴り合う音や男たちの悲鳴などもなかったような気がする。


 あのときは恐怖や安堵でかなり動揺していたので、状況を冷静に考えることが出来なかった。


「そう言えば……」


 昨日の彼の病室での言動を思い出す。



(まさか……)


 ある仮説が頭に浮かんだ。


 それは、あまりに突拍子もない考えだった。


(そんなわけ、ないわよね……偶然かもしれないし……)


 美優や留美の言葉を思い出し、不安が過ぎる。


 胸の奥がざわついた。




 売店で飲み物を適当に三つ買い、病室へ戻った。


「あっ、ねえねえ! 夕菜ちゃんて幸介君のことが好きなの!?」


 いきなり絵梨が尋ねてきた。


「わー! お母さん、駄目だって言ったじゃん!」


 笑顔の似た者親子を目にしつつ、夕菜は頭を抑えた。

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