雨の日
朝、美優が目を覚ますと、普段起こしてくれる兄は隣に居なかった。
上半身を起こして室内を見渡すが、やはり彼の姿はなく、部屋は静かだ。
目を覚ましたときに兄が隣にいないと、何となく少し不安になる。
出会ってからずっと、ほとんど毎日彼の隣で眠っているのだ。
五年程前、幸介が異世界に来るまで、美優は母親と二人で暮らしていた。
母親は優しかったが、彼女は毎日仕事に行ったので、美優は家に一人で居ることが多かった。
一人で外へ出るわけにもいかず、毎日、家でただ彼女の帰りを待っていた。
暗闇の中、一人で過ごす時間は長く、とても寂しかった。
ある日、母親が仕事に行った後、好奇心を抑えきれず、勇気を出して外へ出た。一人で外を歩いてみたかった。
しかし、その意志はすぐに折れそうになった。
一人では何も出来ず、どこへも行くことが出来ない現実を再確認した。人に道を尋ねることすらもあまりにも難しく、怖かった。
ゆっくり細心の注意を払って歩いていたにも拘らず、通行人にぶつかり、地面に倒れた。
くじけそうになっていたところへ現れたのが幸介だった。
彼は優しく、出会ったばかりの、人に頼ることしか出来ない自分にもとても親切にしてくれた。
そのまま彼の腕に掴まって母親がいる学校まで歩いた。
無事に会うことができた後、母親が彼に言った言葉に驚いた。
『出来れば私の家で暮らして、私が学校にいる間は美優と一緒に居て貰えると嬉しいんだけど』
普段あまり他人を美優に近付けようとしない母親がそんなことを言い出すとは思わなかった。
当時は母親がただ彼のことを優しい少年だと理解し、信頼したのだと思った。
しかし、それは違った。
母親は、最初から彼のことを知っていた。
だから彼を家に住まわせ、美優と一緒に居させたのだ。
彼に対する母親の言動に驚きつつも、当時はその理由はどうでも良かった。彼とずっと一緒に居られることを、ただ嬉しく思った。
暗闇の中を一人で過ごす寂しい時間を、彼は埋めてくれた。
最初は一緒に居ることがただ嬉しくて、ずっと彼と居たくて、一日中くっついていた。
歩くときに彼の腕にしがみつく癖は、今も直らない。
そして彼と一緒に暮らし始めてから、ほとんど毎日彼の隣で眠った。
そのうち、彼を本当の家族であると認識するようになった。
ある日の朝、まだ隣で眠っている兄の頬に触れた。
彼の頬は何故か微かに濡れていた。理由は、あまり考えないようにした。
目が見えるようになってから、兄の寝顔を見た。彼は眠ったまま泣いていた。
それから、彼より先に起きるのをやめた。
現在も、美優は大体幸介が起こしてくれるまで起きない。
その理由は、彼に対しては「お兄ちゃんに起こされたいから」だと言っているが、本当は、彼が眠っているときに流す涙を見たくないからだ。
美優はベッドから降り、部屋から出てリビングへと向かう。
リビングには、寝間着のままソファにゆったりと腰掛けてテレビのニュースを観ている沙也加と、彼女の右肩に背中をもたれ、ソファに足を投げ出して目を閉じる兄の姿があった。
窓の外を見ると、やはりぽつぽつと雨が降っていた。
雨の日は、彼らが一緒にいることが多い。
二人に近付いて、声を掛ける。
「おはようございます。お兄ちゃん、沙也加さん」
テレビにはいつものように、記憶喪失事件のニュースが流れていた。
※※※
登校した幸介は、窓際の自分の席に座り、ぼーっと窓の外を眺めていた。
外は小降りの雨だ。雨の日は憂鬱になる。
「ねえ、幸介君」
「……ん?」
いつの間にか、ピンクがかった髪を胸の辺りで結んだ女子生徒が前の席に腰掛けてこちらに体を向けていた。
「あんた、何か元気ない?」
「ああ。ちょっと寝不足で」
「ふーん。夜更かしでもしてたの?」
「いや、まあな。で、何か用?」
夕菜の質問は適当に流した。
確かに若干眠いが、それは昨日の夜遅くまで美優の能力で巡回していたからだ。
「あの、あんたにお礼が言いたくて。玲菜のこと助けてくれたんでしょ?」
夕菜は少し申し訳なさそうに上目遣いでそう言った。
先日、車にひかれそうになっていた夕菜の妹を助けた。どうやらそのことを本人に聞いたらしい。
「ああ、気にしなくていいよ。偶然助けただけだし」
「本当にありがとうね。家族みんな、あんたに感謝してるわ」
そう言って彼女は微笑む。
「どういたしまして。玲菜が無事で良かったよ」
「うん。あんたのお陰よ。お父さんとお母さんも今度お礼が言いたいって」
彼女の父親は佐原健流。現在、警視庁の警部。そして、復讐の対象者だ。
「ふーん。じゃあ今度菓子折りでも持ってお前んちに行くわ」
「何であんたがそんなもの持ってくるのよ?」
夕菜は訝しげな表情で尋ねてきた。
「いや、ちょっと両親にご挨拶に?」
「は? 何の?」
「お父様には、『玲菜さんを僕にください』ってストレートに言えばいいかな?」
「何で玲菜なのよ!?」
「え? じゃあ夕菜で」
「なっ、何言ってんの!?」
夕菜は頬を赤く染め、何やら必死に抗議してきた。こういう彼女のリアクションは何となく可愛いと思う。
「やれやれ。どっちか決めてくれないとお父様に挨拶出来ないじゃん」
「こっちがお礼するって言ったでしょ!?」
あまりやり過ぎると彼女が怒り出しそうなので、「まあまあ。冗談だって」と適当に切り上げた。
「はぁ……まあいいわ」
夕菜は何かぶつぶつ言いながら、自分の席へと戻って行った。
※※※
授業をいつものようにだらだらと過ごし、放課後になった。
朝から降っていた雨はいつの間にかあがっていた。
帰り支度をし、リュックを肩に掛けて立ち上がる。
その瞬間、不意に後ろから肩を掴まれた。
「奥山、ちょっと来てもらおうか」
振り向くと、そこにいたのは数学教師の藤本だった。
まるで何かの悪役のようなセリフを吐いた彼は、にやりと笑っていた。強面なので素直に怖かった。
藤本先生は四十代前半くらいの男性教師だ。授業中、眠ったりぼーっとしながら過ごしている幸介は彼に叱られることが多い。
今日の午前中にも数学の授業があり、眠っていた幸介は彼に起こされ、叱られた。
「何故ですか……?」
面倒臭そうな予感を抑えつつ尋ねた。
「いいから来い。宮里、お前もだ」
「……! えっ!? 何で!?」
近くで夕菜と話していた愛梨も、突然藤本に呼ばれて戸惑う。
愛梨と夕菜は親友らしく、二人は一緒に居ることが多い。
「筆記用具を持って来いよ」
「「うぇ……」」
幸介と愛梨はうんざりというように顔を顰める。
「はぁ……夕菜、先に帰ってて」
「うん、わかった」
どうやら逃げられそうもないので、仕方なく愛梨と並んで、黙って藤本先生の後ろに付いて行った。
二年生の教室前廊下を歩き、突き当たりを曲がる。そして少し歩いた先の物理室へ入った。
普通の教室とは違う、数人で使うための大きな机が並べてある教室だ。放課後なので誰もいない。
藤本先生が「座れ」というので、幸介と愛梨は入り口近くにあった席に並んで腰を下ろした。そして何が始まるのだろうと次の言葉を待つ。
「お前らは補習だ」
藤本先生は厳しい顔つきでそう言った。
「はぁ……」
正直そんな予感はしていたので、特に驚きもなかった。左隣にいる愛梨もげんなりとした表情になっている。
「……いや、赤点取ったらって言ってたじゃないですか……中間テストも赤点ではないでしょう?」
中間テストの結果はまだ出ていないが、赤点は回避しているはずだ。やる気はあまりないが、補習を回避するため、赤点にならない程度に問題を解いている。
「お前は授業で寝過ぎなんだよ」
「じゃあ何で私まで!?」
納得出来ないらしく、愛梨が尋ねる。
「お前は中間テスト赤点だ」
「え、マジですか……?」
藤本先生の答えを聞き、愛梨は呆然となった。どうやら彼女は数学が苦手らしい。
「今日はプリント一枚だけで許してやる」
藤本先生はプリントを一枚ずつ、目の前の机に置いた。愛梨はそれを見て、気まずそうに藤本先生に視線を移す。
「えっと、先生。私今日はちょっと用事が……」
「あ、俺も」
帰宅を希望する愛梨に乗っかることにした。放課後の時間はなるべく取られたくないのだ。
「逃げたら明日は倍にして補習させる。それも逃げたら次の日はさらに倍だ」
「そ、そんなー!」
「そりゃないっすよ!」
「嫌なら今日やっとけ。提出したら帰っていい。他のやつに手伝ってもらうのはナシだぞ」
「「えぇ……」」
うんざりと呟く二人を置き去りにし、藤本先生は物理室を出て行った。
残された愛梨と顔を見合わせる。
「どうしよう。幸介君?」
「逃げよう」
「そんなことしたら明日倍にして補習やらされるじゃん」
愛梨は頬杖をつきながら、怠そうに「はぁ」と溜め息混じりに言う。
「まあ、それは面倒臭いな……」
「ていうか、これめちゃくちゃ時間かかりそう」
愛梨はプリントを見ながら、うんざりしたような表情を浮かべている。
「何か用事があるの?」
「いや、まあ大した用事ではないんだけど……」
愛梨はそう言うが、帰りたい気持ちは何となく伝わってくる。
しかし、逃げれば補習が毎日倍加されていく。それが延々と続くのは都合が悪いし、逃げ続けるのも面倒臭い。今日で終わらせておいた方がいいかもしれない。
「……仕方ない。やるか」
とりあえずスマホを取り出し、美優に「教室で少し待ってろ」とメッセージを送った。
送信し終えると、筆記用具からシャープペンを取り出した。そして、プリントの問題を解いて答えを記入していく。
それを見た愛梨が「えっ……」と呟く。
幸介はささっと一問目の答えを記入し、二問目を解き始める。
「えっ……ちょっと、何で!?」
「もう今日やっといた方がいいだろ。写してもいいぞ」
そう答えながら二問目も終え、さらに問題を解き続けていく。
「いや、そうじゃなくて!」
自分が解いた答えを疑っているのかもしれない。
「心配しなくても答えは合ってるよ」
「マジ!? っていうか何でそんなすらすら解けるの!? これ結構難しいじゃん!」
「いや、これって授業でやってるんだろ?」
補習でやらせるということは授業ですでに教えられているということだ。それに愛梨は驚いているが、そんなに難しい問題でもないと思う。
「そうかもしれないけど、幸介君全然授業聞いてないじゃん。それに、テストはいつも赤点ギリギリだって」
「数学は得意なんだよ。やる気がないだけ」
「えー! そうなの!?」
「ああ」
愛梨は唖然となってこちらを見る。
「死ぬほど意外なんだけど……」
「え、そんなに?」
幸介は落ちこぼれだと認識されている。テストではいつも赤点ラインである四十点に何とか届く程度だ。そんな自分がすらすらと問題を解いているのが信じられないらしい。
「……ねえ、幸介君、何でいつもはやる気がないの?」
愛梨もシャープペンを手に取り、幸介の解答を見ながらプリントの解答欄を埋め始めた。
「さあ。誰かが百点のご褒美にキスでもしてくれるなら、もう少しやる気が出るかもな」
「へ?」
シャープペンを走らせながら答えると、愛梨が手を止めて驚いた。
幸介はふと昔を思い出す。
奈津は「頑張って」と笑顔で応援してくれて、テストがいい結果だったときには褒めてくれた。でも、彼女はもう居ない。
「えっと、じゃあ私がしてあげよっか!?」
突然、愛梨が人差し指を顎に当てながら、にこっといたずらっ子のような笑顔を向けてきた。
「よし。おっぱいを触らせてくれたらやる気を出そう」
「何で私はそっちなの!?」
「もちろん生でな」
「生で!?」
愛梨はぷんすかと怒りながら、幸介の肩の辺りをぽかぽかと叩いてきた。
「だってお前のチャームポイントだろ」
「違うよ!? 多分!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ彼女の相手を適当にしながらも、プリントの問題を進める。もう少しで終わりそうだ。
「まあ冗談はさておき、そんなことをしたらぶっ飛ばされる」
「あー、私もそんなことをしたら何言われるか……」
「え?」
手を止めて愛梨を見ると、何かに気付いてきょとんとしている彼女と目が合った。
「「誰に……?」」
声が重なった。
「さあな」
「私も知らなーい」
同じように誤魔化した。以前から思っていたが、彼女とは結構気が合う。
適当なやり取りをしているうちに、幸介はプリントの問題を全部解き終えていた。
「とりあえずさっさと写せば? 何か用事があるんだろ?」
「そうだった!」
愛梨はそう言って、幸介の解答を急いで写していった。
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