辞めといた方がいいです

 幸介が生徒会室で千里と話し始めた頃、二年C組の教室の後方の入り口には、一人の黒髪の少女が顔を覗かせていた。


 幸介の義理の妹、美優だ。手には弁当の包みを持っており、何やらきょろきょろと教室内を見回している。


「あ、美優ちゃん」


 夕菜の近くにいた愛梨が気付いて手を振ると、美優は二人のところへとことこと近付いてきた。


「こんにちは。愛梨さん、夕菜さん」


 美優がにこっと微笑んで挨拶をしたところへ、亮太もやって来た。


「おう美優ちゃん。幸介のやつ、どっか行っちゃったけど?」

「そうですね。なのでたまには夕菜さんとお話ししたいなーと思いまして」

「え、私?」

「はい」


 夕菜が少し驚いて訊き返すと、美優が笑顔で答えた。


「へー、そっかそっか。てっきり俺に会いに来てくれたのかと思ったよ」

「ばーか。そんなわけないでしょ」

「う、うっせーぞ愛梨!」


 愛梨が頬杖をついて呆れたように言うと、亮太は憤慨した。


「えっと、何で私と?」


 夕菜は少し戸惑う。


 美優はしょっちゅう兄に会いに教室へ来ているので、いつも愛梨と一緒にいる自分のことを認識しているのもわかる。それに、自分が玲菜の姉であることも彼に聞いているだろう。


 ただ、彼女とはほとんど話したことはない。


「お兄ちゃんがお世話になってるみたいなのでご挨拶に。あとはちょっと聞きたいこともありますし」

「まさか女の戦いが!?」

「あんたは黙ってて!」


 わざとらしく口に手を当てて驚く愛梨に、夕菜はピシャリと言い放つ。


 毎度ながら心中が露呈するような発言はやめて欲しいのだが、彼女は全く反省する様子がない。正直、彼女のせいでもうみんなに色々とバレていると思う。


「ねえねえ、それって私も居ていいの?」

「はい。良いと思います」

「じゃあ俺も——」

「亮太さんは駄目です」

「何で!?」


 亮太が愕然とした表情で美優に迫ると、美優はそれを避けつつ、辟易とした視線を彼へ向けた。


「……亮太さんとはいつも一緒にご飯を食べてるじゃないですか」

「いや、まあそうだけど」

「今日はガールズトークをするんだよね! 美優ちゃん」

「まあそんな感じです」

「……」


 ガールズトークと聞いて亮太は押し黙った。そのフレーズは、男子が立ち入ってはいけないような印象を与えるのだと思う。


「えっと……私も参加しないと駄目?」


 何となく嫌な予感がしたので、愛想笑いを浮かべて拒否の姿勢を示す。


「駄目だよ夕菜がいないと。だよね、美優ちゃん」

「そうですね。そのために来ましたし」

「ほら! それに夕菜も美優ちゃんと仲良くなっといた方がいいんじゃないの? 将来妹になるかもしれないんだし」

「な、何言ってんのあんた!? マジで黙って!」


 夕菜が狼狽えながら抗議するが、愛梨はそれを気にも留めずに言う。


「とりあえずここ出よっか。夕菜が騒ぐから何か目立ってるし」

「あんたのせいでしょうが!」


 興奮が冷めない夕菜を、愛梨は「まあまあ。ごめんって」と宥める。


「で、美優ちゃん、どうする?」


 愛梨が尋ねた。

 もう拒否は出来ないらしい。


「そうですね。屋上に行きませんか?」

「あ、いいね。さ、夕菜、行こ」

「わかったわよ……」


 三人はそれぞれ弁当を持ち、二年C組の教室を出た。






 屋上は危険がないよう高いフェンスに囲まれており、一番左奥のフェンスのそばにはベンチが置かれている。


 三人は奥まで歩き、ベンチの前の地べたに、スペースを囲むように腰を下ろした。


 ここは先日、幸介たちが過ごしていた場所だ。幸介はベンチに座る沙也加に膝枕をされて眠っていた。沙也加は幸介の頭を撫でながら、地べたにあぐらをかいて座っている秋人とお喋りしていた。


「とりあえず食べよっか」

「うん」


 愛梨に従い、夕菜も弁当の包みを開く。

 美優も「そうですね」と言って、同様に弁当を開いた。


 美優の弁当は色とりどりの見るからに美味しそうなものだった。


「それ美優ちゃんが作ったの?」

「そうですよ。料理はほとんど私の担当なので」


 愛梨が尋ねると、美優はそう答えた。


 夕菜は幸介の言葉を思い出す。

 彼はよく、「美優がご飯を作ってるから」と言っていた。


「幸介君の夕飯も美優ちゃんが作ってるのよね?」

「はい。大体は私が作ってますね。お兄ちゃんは凄く喜んでくれるので作りがいがあるんですよ」


 夕菜が尋ねると、美優は笑顔を向けて答えた。何となく彼女を羨ましく思った。


「ふーん。美味しそうだもんね」


 愛梨は美優の弁当に視線を落としながら呟く。


「愛梨さんのお弁当はお母さんが作ってるんですか?」

「うん。そうだよ」

「……良かったら、交換しますか?」

「えっ、いいの?」

「はい。たまには、そういうのもいいかなって」

「だよね! じゃあそうしよ!」


 愛梨が「はいっ」と言って弁当を差し出すと、美優は「ありがとうございます」と受け取り、代わりに自分の弁当を渡した。


 そして、「頂きます」と言って食べ始めた。


「美優ちゃん、美味しいよ」

「ありがとうございます。愛梨さんのお母さんのお弁当も美味しいです」


 美優は嬉しそうに笑顔を向けた。


 それを見て、以前夕菜が抱いた疑惑がまた頭に浮かんだ。


(やっぱりお母さんがいないのかな……?)


 彼女は母親が作るご飯を、普段は口に出来ないのだと思う。


「夕菜さんのお母さんの料理も美味しかったって、お兄ちゃんが言ってましたよ」

「……あ、うん。それなら良かったわ」


 先日、幸介が夕菜の家へ来たときに、彼は母親の料理を食べていた。しかしそのことを言われると何となく気まずい。


「そう言えば幸介君て夕菜の家でご飯食べたことあるんだね。何か恋人っぽいね!」

「バカ……!」


 また愛梨が爆弾を落としてきたので、夕菜は頭を抑えた。何しろ目の前にいる彼の義妹は、兄のことが大好きなのだ。


「え、えっと……そういえば幸介君、今日はどこ行ったんだろね」


 適当に話題を変えてみた。

 美優は愛梨の発言については特に気にする様子はない。


「お兄ちゃんは今は千里さんに会いに行ってますよ」

「へ? 千里さん?」

「誰!?」


 夕菜に続き、愛梨も尋ねた。彼女は何やらワクワクとした表情を浮かべている。


「生徒会長です」

「「え?」」


 愛梨と声が揃った。

 そう言えばと、生徒会長の名前が森川千里ちさとだったことを思い出す。


 生徒会長は黒髪を後ろで束ねた清楚系の美人だ。生徒たちの中にはファンも多いらしい。


「えっと、生徒会長とも知り合いなの?」


 愛梨が戸惑いながら尋ねた。


「千里さんは沙也加さんと昔からの友人だそうです。当然お兄ちゃんとも仲が良いです」

「マジ?」

「そうなんだ……」


 愛梨と同様、夕菜も驚いた。

 彼らが話しているところなど見たことがないのだ。


「はい。私はお兄ちゃんや秋人さんと一緒にいることが多いので、こんなときくらいしか夕菜さんとゆっくりお話出来ないと思って、今日来たんです」


 先程から、美優が浮かない表情をしているような気がする。


「えっと……美優ちゃん、夕菜に聞きたいことって何?」


 愛梨が尋ねた。


「……あの、夕菜さん。お兄ちゃんが夕菜さんの家へ行ったときに、何か変わったことはなかったですか?」


 夕菜が予想していたものとは違う質問をされた。


「えっと、何で?」

「あの日、帰ってきたお兄ちゃんの様子が少し変だったんです」

「……そう」


 美優は沈んだ表情で俯いている。

 少し考えるが、夕菜が思い当たるのは一つしかない。


「……幸介君、泣いてたわ」

「へ?」


 夕菜の言葉を聞き、愛梨は目を丸くして驚いた。


「でも目にゴミが入ったって言って、すぐに笑顔に戻ってて……その後はずっと普通にしてた」

「お兄ちゃんらしいですね」


 美優は僅かに微笑む。


「何故、泣いていたかわかりますか?」

「いえ……はっきりとは分からないわ。でも予想はついてる」

「どんなですか?」

「……多分、あなたたちには母親がいなくて、だから私や玲菜がお母さんと仲良くしているのを見て、何か思い出したんだと思った」


 今までの幸介や美優の言動からそう予想出来た。彼が家に来たときの、母親に対する態度からも分かる。


「……そうですね。そのときに泣いた理由は、それで合っていると思います」

「そうなんだ……」


 愛梨も戸惑うような表情になった。

 美優の答えは母親がいないことを肯定している。


「……他には何もなかったですか?」

「え、他に?」


 先程の答えは、彼女が納得できるものではなかったらしい。しかし他には何も思い当たることはない。


「はい。例えば、お父さんのこととか……」

「え? いや、特に何もなかったと思うけど……」


 あの日は父親は仕事で家に居なかった。


 強いて言うなら、玲菜が父親の帰りが遅いことを寂しそうにしており、そのときに彼に父親の仕事を訊かれたことくらいだ。玲菜が刑事だと答え、話はそれで終わった。


 しかし確かにあのとき、彼の表情に一瞬違和感を感じたような気もする。


「そうですか……ならいいです」


 美優は諦めたように俯いた。


「美優ちゃん、幸介君の様子がおかしかったってどんな風に?」


 夕菜はそれが気になった。


「私の前では、普段通りに振舞おうとしていました。でも、沙也加さんの前では、泣いていたんだと思います」

「……!」


 美優の言葉に驚く。


「お兄ちゃんは結構泣き虫なんですよ。私の前では我慢することもあるんですけどね」


 美優は寂しそうな笑顔を向けた。

 やはり彼は今までにも泣くことがあったらしい。


 美優が言うようなことは、夕菜の家では何もなかったと思う。当然父親も彼と関係があるとは思えないし、面識すらないはずだ。


「美優ちゃん……」


 愛梨が美優を気遣うような表情で呟く。


「夕菜さんって、お兄ちゃんのことが好きなんですか?」

「え!? な、何よ急に!?」


 やはり訊かれた。ガールズトークと聞いたとき、そう訊かれる予感がした。恋人疑惑の噂も流れているし、愛梨が散々煽っていたからというのもある。


「家へ行って一緒にお母さんの誕生日を祝うなんて、まるで恋人じゃないですか。それに愛梨さんもさっきからそんな感じのことを言ってますし」


 案の定だった。


「こっ、恋人だなんてそんな……何か成り行きでうちに来ただけよ」

「そうですか。で、結局どうなんですか?」


 美優は澄ました目を向けて尋ねてきた。

 隣を見ると、愛梨も何かを期待したような目でこちらを見ている。


「……わからない。でも、気になってはいるわ」


 少し躊躇ったがそう答えた。

 紛れもなく夕菜の本音だ。


「……何故、夕菜さんみたいな綺麗な人が、お兄ちゃんに興味を持ったのかわかりませんが……もし本当にお兄ちゃんのことを好きだとしても、今のうちに辞めといた方がいいと思いますよ」

「……何故?」


 夕菜が訊き返す。


「お兄ちゃんと夕菜さんたちとでは住む世界が違い過ぎますし、何より沙也加さんには勝てないからです」

「……」


 言葉を失った。


 確かに幸介は他の同級生たちとは少し違うと思うが、普段教室で見る彼はただの落ちこぼれの男子生徒だ。もちろん、住む世界が違うなどとは思えない。


「えっと……どういうこと?」

「夕菜さんたちはお兄ちゃんを知らなさ過ぎます」


 愛梨が戸惑いつつ尋ねると、美優はそう答えた。


「それは、そうなのかもしれないけど……」


 夕菜はそう答えながら考える。


 まだ彼については知らないことが多いのかもしれない。彼の周囲の人間関係も最近まで全く知らなかったし、生徒会長と仲が良いことを知ったのもつい先程のことだ。彼の考えもわからないことが多い。


 しかし最近はある程度彼のことを知ることが出来たと思っていた。彼がみんなに優しい少年であることも知っている。


「っていうか、沙也加さんには勝てないって言うけど、美優ちゃんも幸介君のことが好きなんじゃないの?」


 愛梨がそう尋ねるのも分かる。美優の言葉通りなら、彼女の想いも報われないということになる。

 

「そうですね。お兄ちゃんのことは好きです。今後一生、私はお兄ちゃんと離れることは出来ないでしょう」

「めちゃくちゃ好きじゃん!」


 愛梨が思わず突っ込んだ。


「はい。でも多分、沙也加さんには勝てないと思います。まあ、悔しい気持ちはありますけど」


 美優は俯き、寂しげな表情で言う。彼女の思いも相当なものだと思う。


「いや、でも幸介君て美優ちゃんのことめちゃ大事にしてるじゃん。っていうか、ありえないくらいいつも美優ちゃんに愛情表現してるし」


 愛梨の言葉は彼女へのフォローにも聞こえるが、それ以上に素直に驚いているのだろう。


 幸介と美優は周りからは相思相愛の男女に見える。お互いスキンシップも多い。幸介が一緒に帰れないときはわざわざ秋人に送らせる程、彼女のことを大切にしている。


「まあ、そうですが……」


 美優が何か言い淀む。


「……私が初めてお兄ちゃんと会ったのは五年くらい前なので、沙也加さんに比べるとそんなに付き合いは長くないんですよ」


 彼女は幸介とは義兄妹だ。幼馴染みである沙也加や秋人の方が付き合いが長いのだろう。


「幸介君と、沙也加さんは……?」


 夕菜が尋ねる。


「生まれてから、ずっとです。途中会っていない期間はありましたが」


 生まれてからずっと。夕菜とは比べ物にならないくらい長い関係だ。しかし、途中会っていない期間というのも少し気になる。


「まあ、お兄ちゃんと沙也加さんも、姉弟みたいなものらしいですけどね……」

「そう」


 先日、沙也加が幸介のことを弟みたいなものだと言っていた。


「ただ、私も全てを知っているわけではないので詳しくは言えませんが、確かにあの二人には、私ですら立ち入れないものがあるんですよ」


 美優はまた少し寂しそうな表情で俯く。


「……何が、あるの?」


 夕菜が尋ねると、俯いていた美優は顔を上げ、寂しげな瞳を向けた。


「深過ぎる絆と深過ぎる愛、ですかね。あの二人にあるのは」


 美優は澄ました目を向けてそう言った。

 彼女の表情は真実味があり、夕菜は息を呑む。


「それに、お兄ちゃんには多分……好きな人がいます」

「……!」

「は!?」


 愛梨が驚くのも当然だ。

 夕菜にとっても衝撃の事実だ。


「……それって、沙也加さんじゃなくて?」


 夕菜が戸惑いながら尋ねた。

 たった今までそういう話だと思っていた。


「……だったら、まだいいんですけどね」


 美優はまた寂しげに微笑んだ。

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