あいつから目が離せない
「もー! 何であいつは話しかけてこないのよ」
教室での昼休み。
夕菜は幸介の方を眺めながら、そう呟いた。
窓際の席の彼は先程から机に顔を伏せて眠っている。
夕菜が不良に絡まれ、幸介に助けられてから既に一週間以上が過ぎた。
しかし未だに彼は一度も話しかけてこない。
あの日、帰り際に夕菜が言ったことも忘れているのかもしれない。
彼は教室ではぼーっと外を眺めているか、今のように眠っていることが多い。男子たちと適当に話していることもあるが、あくまで受け身の姿勢だ。
話しかければ適当なノリの良いトークを返してくるためか、亮太を筆頭に男子たちが幸介に話しかけることはある程度目にする。
しかし幸介からクラスメイトに絡んでいくことはあまりなく、基本的には窓際の自席に座っている。
夕菜も教室では彼とあまり話したことがないので、いきなり話し掛けるのも恥ずかしい気持ちがある。
なので何となく話しかけることも出来ず、この一週間は一度も幸介とは話していない。
幸介に助けられてから、彼のことが頭から離れない。
学校にいる間中彼のことを意識し、いつの間にか彼の方を見てしまう。助けてくれたときのことや手を引かれて歩いたことを思い出し、彼のことを考える。
不良たちから助けてくれたときの幸介は、教室で見る彼とは雰囲気がまるで違っていた。
鋭い目付きに激しい怒りの表情。放たれていた威圧感と殺気。そして最も気になるのは、たった数秒で三人の男を行動不能にしてしまったこと。今思い返してみても本当に信じられない。
しかし教室で見る彼はぼーっとしたり眠ったりしながらだらだらと日常を過ごす、いつも通りやる気のないただの落ちこぼれの男子高校生だ。
彼は以前と変わらず、特に自分に接してくることもない。
あまりに以前と変わらない幸介の様子や、助けてくれたときと今の彼の雰囲気の違いのため、別人なのではないかと疑う気持ちすら出てくる。
「あいつって奥山君のこと?」
「へ……?」
突然耳に入ってきた声に驚いた。
いつの間にか目の前の席に愛梨が腰掛けていた。
「えっと、私今何か言った?」
何やら笑顔を浮かべる愛梨に、不安になりながら尋ねた。
「普通に声出てたよ」
「……!」
夕菜は思わず俯く。
無意識に出していた声を愛梨に聞かれてしまったらしい。
そんな夕菜を見て、愛梨はにやにやし始めた。
「やっぱり気になってるんだー」
「べ、別にそんなんじゃないわよ……」
夕菜は視線を逸らしつつ答えた。頬が熱くなっているのがわかる。
「まあまあ、いいじゃん。でも意外だなー。学年のアイドルが落ちこぼれの奥山君にねー」
「ちょっ、ちょっと! 他の人に聞かれたらどうすんのよ!?」
夕菜が焦りながら抗議すると、愛梨はまたにやにやと笑顔を浮かべた。
「否定はしないんだー」
「あんたねー……」
呆れながら言う。
「まーいいからいいから。それよりもうお昼なのに奥山君ずっと寝てるよね」
「うん。そうね」
昼休みなのでクラスメイトたちはそれぞれ昼食を取っているが、幸介だけが机に顔を伏せて眠っている。
彼の妹の美優も今日は来ておらず、亮太もどこかへ行ったのか教室にはいない。
「奥山君、もしかしてお弁当忘れて来たんじゃない?」
「うん、私もそうかなって思った」
「夕菜、これは行くしかないよ」
「え、何が?」
愛梨の言葉が理解出来ず、思わず訊き返す。
「奥山君を誘って一緒にご飯を食べるの」
愛梨はにやけるのを我慢したような、無理矢理作ったような真剣な表情でそう言った。
「えっ……そ、そんなの無理よ」
「夕菜なら大丈夫だって!」
「いや、そんなこと言われても……」
適当に後押ししてくる愛梨。
誘うのが恥ずかしいのだと突っ込みたい。
「こんなチャンス滅多にないよ。いつもは邪魔が多いじゃん」
邪魔というのは、この時間に幸介と過ごすことが多い亮太や美優のことだろう。
「で、でも……」
「まあいいからいいから」
何故か愛梨の「まあいいから」には弱い。しょっちゅうこれで流されているような気がする。
「わかったわよ……」
結局そう言って立ち上がった。
彼のことが気になるのも事実だし、助けて貰った恩もある。
「頑張ってー」
無責任な応援をする愛梨に見送られながら、ゆっくりと幸介の席へ近づいて行く。
一度振り返って見ると、愛梨はワクワクと何かを期待するような表情でこちらを見ていた。
(めちゃくちゃ面白がってるわね!)
愛梨のにやけ顔が癪に触るが、ここで引き返しても何を言われるかわからない。
彼が本当に困っているのなら助けたいと思うし、何事もないように話し掛ければいい。
机に顔を伏せて眠ったままの幸介に近付き、声を掛けた。
「ね……ねえ。あんたさ、お昼ご飯忘れて来たんじゃないの?」
幸介がゆっくりと顔をあげた。
憔悴しているような弱々しい表情だ。
「え……ああ。えっと……おー、佐原さん」
「そうよ」
溜息交じりに答えた。
ぎりぎり思い出したような言い方だったが、ある程度諦めていたので聞き流しておいた。
「あー、そうそう。今日は美優が風邪で寝込んでて弁当がないんだよ。そしてさっき気付いたんだけど、金もない」
幸介の表情はわかりやすく曇っている。
理由はほぼ予想通りだ。「幸介の弁当は妹の美優が作っている」と、亮太が言っていたのを聞いたことがある。彼女が寝込んでいるので、弁当を作って貰えなかったらしい。
「よかったら……私のお弁当半分食べる?」
夕菜は少し躊躇ったが、恥ずかしさを抑えながら尋ねた。
「えっ、まじ!?」
「うん」
そう答えると、幸介の表情がパァっと明るくなった。
「ありがとう! めちゃ腹が減ってたんだよ」
彼の本気で嬉しそうな表情を見て、夕菜も嬉しくなった。提案してよかったと思う。
「そっか……じゃあ、あの、一緒に食べよっか」
「おう! いやー、佐原さんいい子だなあ」
思いのほか喜ばれたので嬉しい。頬が熱くなった。
「あの、えっとね、この前のお礼もあるし……」
「「ちょっと待てい!」」
夕菜の言葉は近くにいた男子たちに遮られた。
そしてわらわらと集まってきた数人の男子たちに囲まれてしまった。
「奥山、これはどういうことだ?」
「え? 何が?」
最初に幸介に突っかかったのは清水。眼鏡をくいっと上げ、真剣な表情で幸介に詰め寄っている。
彼は幸介がそれなりに話すクラスメイトの男子。
「何で学年人気ナンバーワン女子の佐原さんがお前にお弁当をあげるんだよ!?」
西野。幸介が話すこともあるクラスメイトの男子。
「え、そうなの? どうりで可愛いと思った」
幸介は何か認識を改めたように夕菜の顔を見る。
少し頬が熱くなった。
「佐原さんはみんなのものだろうが!」
伊藤。クラスメイトの男子。
「そ、そうか……」
「とにかく奥山、抜け駆けは許さんぞ!」
再び清水。
「お、おう……じゃあお前らが弁当くれよ」
「それは断る!」
清水はまた眼鏡をくいっと上げて答えた。
「何だそりゃ。どうしろっつーんだよ。腹が減ってるんだよ、俺は」
「ふむ。じゃあこうしよう。俺が奥山に弁当をやる。で、俺が佐原さんの弁当を貰う」
「ざけんなよ清水! それなら俺がやる! さあこれを食え奥山!」
「いや、俺が!」
今度は集まってきた男子たちの言い争いが始まってしまった。
「ちょっ、ちょっと……」
男子たちを止めに入ろうとするが、彼らの勢いを抑えられそうもなく、それ以上の言葉が出ない。
幸介は空腹のため彼らを止める気力がないようだ。
しばらくの間、男子たちの言い争いが続いた。
「あんたら、いい加減にしなさい!」
そんな光景を見かねたらしく、愛梨が突然声を上げた。
男子たちは一気に静まり返った。
愛梨は顔は可愛いのだが、男子たちに恐れられている。
すんなりと落ちついた男子たちは、静かにそれぞれの席へ戻っていった。
「さすが宮里さん」
幸介が感心しながら、元居た席へ戻っていく男子たちを見送る。
「ちょっとあんた、何で愛梨のことは覚えてて私のことはぎりぎり思い出してるのよ!?」
夕菜は男子たちと入れ替わり、幸介に詰め寄った。
愛梨は亮太の友人として認識されているはずなので、彼が覚えているのは当然だ。
しかし何となく納得出来ない。自分はつい先日、手を繋いで結構な距離を歩いたのだ。
「えっ……? い、いや、ちゃんと覚えてたって」
幸介は戸惑いながら言う。
そこへ愛梨が笑顔で近づいてきた。
「まあまあいいじゃん。ってことでせっかくだからこのまま三人で一緒にご飯食べようよ」
「え……ああ、そうね」
「あ、ほんと? ラッキー」
結局お弁当を貰えるとわかり、幸介が嬉しそうに笑顔を見せた。
「でもまさか夕菜があんな積極的なことを言い出すとはね」
「なっ……! あんたがけしかけたんじゃない!?」
愛梨がにやにやと夕菜を見ながら言うので、ムキになって反論した。
「ま、まあまあ……そうだったね」
「いやー、ありがたいなあ」
「何か……単純にご飯を貰えて喜んでるね」
幸介が素直に笑顔を見せると、愛梨がそれを見て呆れたように言う。
「そうなのよね……」
他の男子たちには夕菜の弁当を貰うことに特別な感情や下心が見えたが、幸介からはそれが感じられない。単にご飯を食べられることに喜んでいるという様子だ。
夕菜も愛梨と同じ印象を受け、やはり自分に興味がないのかと溜め息をついた。
何となく、自分が恥ずかしさを我慢して提案したことが馬鹿らしく思えた。
※※※
その頃、二年生の教室前の廊下はさらに騒がしくなっていた。
倉科学園の二年生の教室は校舎の二階にある。一年生の教室は一階、三年生の教室は三階という配置だ。
二階の廊下には、普段はそこにいるはずのない一人の女子生徒がゆっくりと歩いていた。
ゆるくウェーブがかっているロングの明るい髪。美しく整った顔。細身の割に豊満な胸という非の打ち所がないスタイル。
制服のブレザーの代わりにベージュのカーディガンを着こなしているその女子生徒の名前は、平峰沙也加。
二年前に十五歳でデビューし、複数のドラマに出演。現在放送中のドラマ『戦乱のラブレター』ではヒロインを演じている現役女子高生女優だ。
沙也加は笑顔で何やら鼻歌のようなものを口ずさみながら廊下を歩いており、後ろに組んだ手には弁当のような包みを二つぶら下げている。
「うわっ。平峰沙也加じゃん!」
「きゃ~! 本物だー」
「俺初めて本人見た……」
「俺も。本当にこの学校にいたんだな」
「スタイルいいなあ」
「まじやべーよ。付き合いてえ」
「でも声掛けられねー」
沙也加が生徒たちの前を通り過ぎるたび、悲鳴や感嘆の声が響く。生徒たちの視線は彼女に釘付けとなっている。
普段は彼女を目にすることがないからか、二階の教室前廊下は大盛り上がりだ。
沙也加は群衆の中を鼻歌交じりに歩き、目的地である二年C組に辿り着いた。
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