やる気のない男

……

……


「奈津────!」

「ん?」


 俺が名前を呼ぶと、階段の踊り場で立ち止まった奈津が笑顔でこちらを見上げる。


 奈津はクラスメイトであり、幼い頃から親しくしている女の子だ。ショートの茶髪にぱっちりとした大きな目が印象的で、笑顔が可愛い。


「やっっったぜー!」


 俺は階段を飛び降りると、教室で受け取ったテストの答案を「ふふん」と自慢げに奈津に見せる。


「おー」


 奈津は答案を覗きこむように見て、感嘆の声をあげた。答案には百点と書かれている。


「ふっ……これからは俺の時代だな」

「いやいや、幸ちゃんはやるときはやると思ってたんだよー」

「はっはっは。ついに秋人を超えたぜ!」


 俺は調子に乗ってふんぞり返る。


 秋人というのは学年トップの秀才、柴崎秋人のことだ。頭が良い上にイケメンでスポーツ万能、女子にもモテるという何ともムカつくやつだ。しかし、今回俺はその秋人を超える点数を叩き出したのだ。


 俺が得意げに「ふっ」とか言いながら髪をかきあげていると、奈津に服の袖を掴まれた。


「……じゃあ、これはご褒美のちゅうぅぅぅぅ────」


 奈津はつま先立ちで背を伸ばし、いきなり顔を近づけて来た。目をつむった顔も超可愛い。


「って、ばっ、ばか! 何すんだ!?」


 狼狽える俺の頬に、奈津はキスをした。


「……!」

「……」


 体が硬直し、頬が熱くなっているのを感じる。


 奈津も自分からキスをしてきたにも拘わらず、頬を赤く染めてはにかんだような笑顔を見せている。


「っていうか、キスっていったら普通口だろうが! キスなめんな!」


 俺はやっとのことで強がった。嬉しさや恥ずかしさで胸がいっぱいだ。


 すると奈津はなぜか得意げな顔で笑みを浮かべ、俺にビシッと指さして言い放つ。


「甘いぜ幸ちゃん! テストで百点取ったくらいで口にキスはできませーん!」

「何、だと……!?」


 結構がっかりした。テストで百点を取っただけじゃ駄目なのか。


 しかし何とか平常心を保ち、言い返す。


「そ、それならそうと先に言え! ちょっと期待しただろうが!」

「えっ!? そっ、そう……?」


 奈津は目を丸くしながら、頬を赤く染める。そして、またにこっと笑いながら言う。


「まっ、心配しなくても結婚式のときにキスするんだよー」

「えっ? 結婚?」


 奈津の口から飛び出した言葉に不意を突かれ、呆気にとられる。そのまま、数秒程呆けてしまっていた。


「じゃっ、というわけで」


 奈津はにっこりと笑顔を向けると、すぐに背を向けて階段を駆け降りていく。


「ちょっ、ちょっと待て! っていうか、結婚出来る年まであと何年あると思ってんだ!?」


 何とか我に返って叫んだが、奈津はそのまま階段を降りて行ってしまった。


……

……



「────おい、起きろ」


 教室の机に顔を伏せて眠っていた幸介が寝惚けながら顔を上げると、数学教師の藤本が目の前に立っていた。


 藤本先生は四十代前半くらいの強面の男性教師だ。いかにも不機嫌といった表情でこちらを見下ろしている。


 幸介の席は窓側の前から四番目にあり、比較的教師に注目されずに居眠りをしやすい場所だ。


 しかし幸介が授業中に居眠りするのは毎度のことなので、藤本先生にはすでに目を付けられている。


「いい夢は見られたか?」

「いやあ、まあ、けっこういい夢でした」


 つい先程の夢を思い出しながら、笑顔を作って答えた。まだ小学生の頃の夢だ。


 悪びれもなく言う幸介を見て、藤本先生は呆れたように「はあ」と溜息をついた。当たり前だが、本当にいい夢を見られたかどうかを知りたかったわけではないのだろう。


「まあいい。奥山、あの問題をやってみろ」


 藤本先生が黒板を指差す。


 黒板には長ったらしい数式が書かれていた。


「わかりません」


 あからさまなやる気のない返事を聞き、藤本先生は「ムッ」とさらに不機嫌な表情になった。


「お前、授業舐めてるだろ」

「いえ、そんなまさか!」

「赤点取ったら補習だからな」


 藤本先生はギロッと幸介を睨む。


 周囲からはクスクスと、クラスメイトたちの嘲笑が聞こえた。



 新学期が始まり、既に一ヶ月と少し。


 東京都倉科くらしな市にある私立倉科くらしな学園高校二年C組では、現在四限目の数学の授業中だ。


 一応進学校であるこの学校では、大体の生徒は大学進学を希望し、授業を真面目に受ける。


 そんな中、奥山幸介は珍しくやる気のない男子生徒だった。


 細身に整った顔立ち。少し長めの黒髪に黒い瞳。草食系な見た目の男子生徒だ。


 幸介は授業中はいつもぼーっと窓の外を見ているか寝ているかでやる気がなく、教師に怒られることも日常茶飯事だ。呆れ返っている教師も多い。


 さらに、遅刻、早退、サボりの連続。テストも毎回赤点ぎりぎりの点数。体育の時間はだらだらと適当に過ごすという、いわゆる落ちこぼれなのだ。


「あ、俺廊下にでも立っときましょうか?」


 幸介が笑顔でそう言うと、藤本先生はさらに呆れたような表情になった。


「授業を聞く気がないなら立っとけ」

「はーい」


 幸介は素直に返事をして教室を出ていく。


 廊下へ出ると、ガラガラと扉を閉めた。




「しょうがないやつだ」


 幸介の後ろ姿を見送りながら、藤本先生は呆れたように呟く。


 クラスメイトたちはほとんど気に留める様子はない。彼が叱られるのはいつものことなので、すでに慣れているのだ。


 藤本先生が教卓に戻ると、何事もなかったかのように授業が再開された。




 幸介は廊下へ出ると、だらだらと教室の壁にもたれかかった。


「……やる気が出ないんだからしょうがないだろ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 そのまま授業が終わるまで、ただ廊下の窓から見える空を眺めながら、いつも通り立ち尽くして過ごした。

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