何で知らないの?

 しばらく無言で歩いた後、声を発したのは少年だった。


「いやー、危なかったな。たまたまあの辺を歩いてて良かったよ」

「えっ……うん……ありがと。本当に助かったわ……」


 少年が突然口を開いたので、夕菜は少し戸惑いながらお礼を返す。


「だめだよー、一人であんなところを歩くなんて。最近怖い人いっぱいいるからね」

「……うん」


 つい先程と少年の雰囲気が違う。彼が不良たちと対峙していたときに感じた怒りと威圧感が、今はもうない。目つきが鋭く近付き難い雰囲気だった少年は、今は明るく軽いノリで話している。


 しばらく彼の横顔を窺っていたが、彼はどうやらクラスメイトである夕菜には気付いていなさそうだ。


「……ねえ。っていうかさ、君、奥山君だよね?」

「え……?」


 振り向いた少年の眼が固まっていた。どうやら動揺しているらしい。


「……誰それ?」

「いや、あんただけど」


 何やらトボけられたが、即座に答えた。


「違うよ」


 え? 違う?


 そんなはずはない。この顔は見覚えがある。というか、彼はいつも授業中に教師に叱られているので、彼のことは嫌でも目に入るのだ。


 夕菜はもう一度まじまじと少年の顔を見た。どう見てもクラスメイトの彼だ。


「いや、奥山君でしょ?」

「何を言ってるのかな? 僕の名前は……辰吉丈七郎だよ」


 彼は目を泳がせながら、そんなことを言った。


「え? 辰吉? いやいや、そんなボクサーっぽい名前じゃないでしょ」

「有名なボクサーの息子なんです。ちなみに七男です」

「嘘だって。私あんたのこと知ってるもん」


 彼は一瞬目を丸くしたが、「はあ」と溜め息をついた。


「……何で知ってんの? 知り合いだっけ?」

「だって私同じクラスだし」

「え、マジ? そうなの?」

「うん」


 彼の顔は曇り始め、顔を背けられた。小声で「やっべぇ……」と呟くのが聞こえた。


 やっぱり自分に気付いていなかった。いや、気付いていないというより、そもそも自分のことを知らないという感じだ。彼の態度を見れば予想通りではあったのだが、少しショックだ。


 しかし、そんなに焦るほどのことだろうか。


「っていうか何で知らないの?」


 幸介に手を引かれたままの夕菜は、むすっとしながら尋ねた。何となく不満だった。


「えっと……いやー、だってまだ新しいクラスになったばっかりだし?」

「もう一ヶ月くらい過ぎてるけど?」

「あー、そうだっけ?」


 彼とは同じクラスだが、ほとんど話したことはない。だとすれば自分のことを知らなくても仕方がないのかもしれない。


 しかし、自分はクラスメイトの顔くらいは見ればわかると思う。それに、クラスも違う全然知らない男子に告白されることも今までに何度もあった。


 だから、まさかクラスメイトの男子に顔も覚えられていないとは思わなかった。


「おー、そうだそうだ。同じクラスの子だよね。確か名前は……」


 そう言いながら、幸介は右手の人差し指を夕菜へ向けた。名前を誘導しようとしているようだ。


「む……佐原夕菜」

「そうそう。佐原さんだろ? 知ってる知ってる」

「めちゃくちゃ嘘くさいんだけど!? っていうか、明らかに嘘じゃん」


 ごまかし方が適当過ぎると思ったが、おそらく本当にごまかせるとも思っていないのだろう。


 この適当なノリは見たことがある。


 親友である愛梨が何かと口喧嘩をしている彼女の中学の同級生、三上亮太。


 その亮太がよく話しかけているのが幸介だ。席も割と近い方なので、いつも適当なノリのいい会話をしているのを目にする。


 とすれば、夕菜は色んな意味で、割と彼の近くにいるはずだ。なのに何故自分のことを認識すらしていないのだろうか。


 余程自分に興味がないのかと思い、夕菜は少し落胆した。


「ふっ、まさか。クラスメイトのこんなに可愛い女子を知らないなんて、そんなわけないだろう」


 堂々と嘘を吐かれたが、可愛いと言われたので若干照れる。


「ま、まあいいけど? これから覚えてくれれば」

「いや、だから知ってたって」


 もう突っ込む気も起きなかった。



 辺りには徐々に行き交う人が増えてきたが、幸介は夕菜の手を引いたまま駅の方へ向かって歩いていた。


「ねえ……てかさ、さっきのあれ、あんたがやったの……よね?」


 夕菜が恐る恐る尋ねると、幸介の動きが一瞬止まった。


 彼は振り返ると、あさっての方向を見ながら言う。


「あれ? あれかー。あれは何か運よく一人転んだ隙に全員倒せちゃったというか?」

「そ、そう……?」

「ほら、俺ってボクサーの息子だし? ちなみに七男」

「いや、だからそれは嘘じゃん。まあ別にいいけど」

「おう、まあな」


 また幸介は歩き始めた。


 夕菜は何が「おう、まあな」なの? と思ったが、特に突っ込まず、静かに手を引かれるまま、後をついて行った。


 また何かごまかされているとは思ったが、実際に不良たちを倒す瞬間を見ていないので、それ以上は訊かなかった。


 自分が目を逸らしていた数秒の間に、彼一人で三人の不良たちを行動不能にしてしまったなどとは、未だに信じられない。


 しかし、あのときは色々と必死で頭が回らなかったが、今思い返してみると、目を逸らしてから殴り合うような音も不良たちの声も聞こえなかったような気がする。


 ほんの数秒で倒されたとは言え、普通は呻き声くらいあるものなのではないだろうか。


 そこまで思い返すと、不良たちの下卑た笑みを思い出してしまい、今はそれ以上考えるのをやめた。


「佐原さん、家は駅から近いの?」

「へ? ……うん。近いけど」

「そっか。じゃあもう大丈夫?」

「え……?」


 立ち止まった幸介は、夕菜の手を放そうとしていた。


 周りを見回し、いつの間にか駅前まで来ていることに気付いた。自宅の最寄り駅であり、学校の最寄り駅でもある倉科駅だ。


 夕菜は頬を赤く染めてうつむく。


「いや、その、もう少し……」

「ん?」

「なっ、何でもない、わよ……」


 何となく、素直に怖いとは言えなかった。


 人は多く、辺りも明るいので、もう危険はないと判断されるのも当然だろう。自宅もすぐ近くだ。


「しょうがないな。家の前まで送るよ」

「……うん」


 夕菜が不安であることを察して気にかけてくれたのだろうか。もしくは本当に夕菜の身を案じて、家に着くまでの危険をなくそうとしてくれたのかもしれない。


 優しい。それに頼りになる。細身で草食系な見た目とは裏腹に三人の男を数秒で倒すくらいだ。彼が付き添ってくれたお陰で不安は薄れており、今は安心感がある。


 いつもは先生に叱られ、クラスでは落ちこぼれだと認識されている彼は、接してみるとそんな印象だった。


 そのまましばらく歩くと、数分程で夕菜の自宅の前に着いた。


 放された手を見て、名残惜しく感じた。


「あの……今日は本当にありがとね」


 少し俯き、上目遣いでお礼を言った。


 先程のことは本当に感謝してもしきれない。彼が来なければどうなっていたか、考えただけでも恐ろしい。


 しかし、大事には至らずに済んだからだろう。すでに恐怖からは解放されて気持ちは落ち着いており、今まで手を繋いでいたことや幸介の優しさに触れたことで、胸が熱くなっているのを感じていた。


「ああ、気にしなくていいよ。でももう夜に人がいないところを一人で歩くな。俺がいつでも助けてやれるわけじゃない」


 幸介は先程までとは打って変わり、真剣な表情で告げた。


「うん……そうだよね」


 彼の言うことはもっともだ。二度と同じ目に遭いたくないので、本当に気を付けようと思う。もう夜はなるべく一人で歩きたくない。


「よし」


 幸介は少し微笑んだ。


 その笑顔を見て、どこか夕菜は安心し、さらに胸が熱くなった。


「もう大分落ち着いたみたいだな」

「えっ……うん」


 夕菜が恐怖で手が震えていたことや、泣いてしまっていたことも、彼は気づいていたのだと思った。


 今まで手を引いて歩いてくれたことや、冗談なんかを言ってくれたことも、自分を落ち着かせてくれようとしたのかもしれない。


「じゃ、俺は帰るから。またね」


 幸介が手を振りながら立ち去ろうと背を向けた。


「ね、ねえ!」

「ん?」


 思わず呼び止めると、幸介は立ち止まって振り向いた。そして次の言葉を待っている。


「えっと……あ、明日からは学校でも普通に話してよね!」

「ああ、もちろん。じゃあねー!」


 幸介はまた軽いノリで答え、その場から立ち去っていった。



 玄関の扉を開けて「ただいまー」と母親に帰宅を知らせ、そのまま二階に上がって自分の部屋へ入った。


 父親はまだ帰って来ていなかった。いつも通り遅くなるのだろう。


 ベッドに倒れ込むと、自然と今日のことを思い出した。


 彼に危ないところを助けられ、自分が今無事に日常に帰ってこられたことを再確認して安堵した。


 彼に手を引かれて歩いたことや彼が言った冗談を思い出して笑みがこぼれ、彼が自分のことを知らなかったことに対してムッとなった。


 彼の憤った表情は怖かったが、彼が微笑んだ顔を見ると胸が熱くなった。


 今日のことは忘れられないだろう。もしかすると、一生忘れないかもしれない。

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