ReCorrection

村谷由香里

第1話

今はもう、どこにもいないきみへ



 九歳の頃、仲の良い友達ができた。僕は彼女のことを、メーと呼んでいた。

 メー。

 メーちゃん。

 彼女は僕と同じ年くらいの女の子で、鈴を転がしたような高い声をしていた。細い黒髪は肩の辺りで揃えられていて、いつも似た白い服を着ている。目の色は青。綺麗な青だったことを、よく覚えている。

 メーと出会った頃、僕は父親と二人暮らしになったばかりだった。母は僕の九歳の誕生日の翌日に家を出て、そのまま帰ってこなかった。それから十四年間、僕は一度も母に会っていない。

 母がいない毎日に、どのように折り合いをつけていたのか、そのときの感情はもうあまり思い出せない。母がいなくなった経緯を、父はそんなに詳しく説明しなかったと思う。父にもよくわかっていなかったのかもしれない。

 ただ、これから僕は父と二人で生きていかなければならないことだけはわかった。祖父母の家は遠く離れているし、他に頼る人もいなかった。父は変わらず仕事に行って、夜まで帰ってこない。そんなときに、メーは僕の前に現れた。

 メーはいつも玄関先に座って、僕が学校から帰ってくるのを待っていた。膝を抱えてうつらうつら船を漕ぐ彼女に「ただいま」というと、眠そうな顔でこちらを見た。

「おかえりい」

 と、青い目をゆっくり瞬く。いつもそうだった。クラスの友達と寄り道をしても、家に帰れば必ず彼女が玄関先でうたた寝をしていた。

 僕が首から提げた鍵でドアを開けると、メーは僕より先に、真っ先に居間のソファに座った。僕はランドセルを下ろし、手洗いうがいを済ませてからソファに座る。

 大体いつもこの時点で、メーは不機嫌になった。

「ソファはめーちゃんのだよ! 座らないで!」

「いやだよ」

「ナオはあっちいって」

「いやです」

 そんなやりとりばかりしていた記憶があるから、実際のところ、僕らはあんまり仲良くなかったのかもしれない。

「いじわる!」

「どっちが!?」

 ソファを独り占めしたかったメーはしばらく不服そうな顔で僕を見ていたが、窓辺に転がっているボールに気付くと、機嫌を直してそちらに寄っていった。僕はわがままで落ち着きのない友人の動向を見て、「何なんだ」と口をとがらせた。メーには聞こえていない。

 僕はランドセルから漢字練習帳と算数ドリルを取り出す。どちらの宿題を先に終わらせるか悩んで、苦手な算数の方を選んだ。

 しばらく黙って割り算の文章題を解いていたが、だんだん退屈になってくる。僕は二、三度、メーの方を見た。メーは窓辺に寝転んでボールを投げて遊んでいる。

「メーちゃん」

「なあにー?」

 名前を呼ぶと、彼女はこっちを向かずに高い声で応える。僕は彼女の手と壁の間を行き来するボールを見ながら、口を開いた。

「今日ね、昼休みにみんなとドッジボールをしてたんだけど」

「ケイくんたち?」

「うん」

「ボールぶつける遊びでしょ! いたいやつ!」

「そう。それでさ、ボールが顔に当たってね」

「ナオの?」

「うん。ほんとに痛かったんだよね。おれ泣いちゃってさ」

「かわいそう」

 メーはやっと僕の顔を見て、立ち上がってこちらに近づいてきた。最初はちょっと嬉しかったのだけど、想定していたより近くに寄ってくるので戸惑った。メーは僕の隣にぴったり寄り添って、顔を寄せる。

「近い近い」

 息がかかるほど距離を詰めてくるメーに、どぎまぎして声が裏返る。彼女は構わず僕の顔をまじまじと見ていた。青色の丸い目を何度もまばたいて、

「まだいたい?」

 と、首を傾げた。肩まで伸びた、柔らかそうな黒い髪の毛が揺れた。

「もう平気。だいじょうぶだから」

 そう言いながら、少しだけ彼女から距離を置いた。

「あんしん」

「ケイともちゃんと仲直りした」

「えらーい」

 メーはぱちぱちと手を打って、また距離を詰めてくる。この子は僕の隣に来ると、いつも必ず身体を寄せてきた。視界に入る肌は驚くほどに白く、体温がじわじわと伝わってくる。こちらは小学生といえども男なわけで、僕の隣で満足げに目を細めているメーをまっすぐに見られない。

「もうボール遊びは良いの」

 僕はメーが転がしたままにしているボールに、視線を移す。

「いいの。あきちゃった」

 彼女はそう言って「んふふ」と少し笑った。

 メーはひどい気まぐれだ。僕が近づけば遠くにいくし、ソファを独り占めできないと怒るのにいざ譲ると寂しがるし、遊んでいてもすぐに飽きるし、目を離した瞬間に眠っていたりする。今だって彼女は体重をこちらにあずけたと思えば、寝息を立て始めた。僕は彼女に寄りかかられたまま、算数の問題に集中しようとする。が、ダメだった。手が止まる。鉛筆を置いて、メーの頬に触ってみた。彼女は本当に嫌そうに振り払う。

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃん」

 僕の言葉なんか聞こえちゃいない。彼女はすやすやと寝息を立てている。僕は息を吐いて、鉛筆を持ち直した。落ち着かないし、退屈だけど仕方がない。宿題を終わらせよう。

 それから十五分くらい黙々と割り算をしていると、メーがいきなりぱちりと目を開けた。

「おきた?」

「おなかすいてきた!」

 寝起きとは思えない俊敏さで立ち上がり、メーは台所に走っていく。僕は呆気にとられて、ちょっと笑ってしまった。

「落ち着きがないですよ」

 担任の谷口先生の口調を真似してみる。彼女にはまったく届いていないようだ。台所の方でがちゃがちゃ騒がしくしているなと思ったら、「ナオー」と僕を呼ぶ。立て続けに三回呼ぶ。僕は最後の問題が解けるまで、しばらくその声を無視していた。

「ナオってば!」

 しびれを切らしたメーが、再び居間に顔を出す。僕は頭を掻いて振り返った。

「おれ宿題してるんだってば」

「味付け海苔たべたい」

「もうちょっとで終わるから待ってよ」

「味付け海苔出して。あと麦茶」

「聞いてる?」

 いいから、と全く話を聞かない彼女は、強引に僕の腕を引っ張って台所に導く。もうこうなってしまっては何を言おうが無駄だ。僕は観念して彼女について行った。冷蔵庫の隣の棚から味付け海苔の缶を取り出すと、メーが嬉しそうにこちらを見ている。このまま渡せば一缶食べ尽くしてしまう。僕はそそくさと缶をしまい、二枚だけ彼女に差し出した。「ふふふ」と嬉しそうにメーは笑う。

「味が濃いからあんまり食べちゃダメ。せめて焼き海苔にしろよ」

 僕の忠告に、メーはものすごく不機嫌そうな顔をする。

「あれあんまりおいしくないじゃん。歯につくし」

「歯につくのは味付けもおなじだろ」

「麦茶飲みたい」

 会話が成り立たない。わがままかよとぼやきながら、僕はグラスを取り出して麦茶を注いだ。彼女は青い目を細めて、ゆっくり味付け海苔を食べている。

 僕はメーの前に麦茶のグラスを置き、ふと思い立って子供部屋に向かった。ほとんど物置としてしか機能していない学習机の上には、ビデオカメラがある。母が誕生日の日に僕を撮っていたビデオカメラだ。母がいなくなった日、これだけがテーブルに残されていた。父に使い方を教えてもらって、僕はもうすっかりこの機械を使いこなせるようになっている。

 台所に戻ると、まだ海苔を食べているメーにレンズを向けて、録画ボタンを押した。ピピッという電子音に気付いたメーが顔を上げ、こちらを睨み付ける。

「顔こわいよ。そんな怒らなくてもいいじゃん」

「めーそれきらい」

 メーは黒いレンズが怖いそうで、ビデオカメラがあまり好きではなかった。

「これは悪い機械じゃないよ」

 僕は言う。これは悪い機械じゃない。思い出を集めておけるものなんだと続けた。

「いつかお母さんにまた会えたら、これで撮ったものを見せるんだ」

 画面越しにメーは青い目を三回瞬いた。それからこちらに近づいてくる。ほら、また近い。どんどん寄ってくる。画面一杯にメーの顔が映し出されて、僕は笑う。

「味付け海苔おいしかった?」

 僕は問う。

「おいしかった」

 と、メーは笑った。

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