第11話
七月の暑さは容赦がなくて嫌いだ。容赦がないのは甘いフレンチトーストだけでいい、と心底から思う。僕は椅子に座って、数学の教科書を団扇にしながら、国語の問題を解いていた。夏休みの宿題は風情を感じて嫌いじゃないけれど、面倒くさいので無い方がいい。なんて思ってみても、無くなりはしないのだけれど。
最近は、母のことを考えている。正確には、母の死について考えている。
人間が死ぬということは、一体どういうことだろうか。僕には未だに、その全部を説明するだけの表現力が無い。ただ、言い表せないほど、突飛なことに感じられるのは確かだ。
僕らは当たり前のように生きている。生きていることを幸福には思わない。というのは僕がこんなふうだから、かもしれないけれど、とにかく、生きている人間にとって普通は、死は遠いものだ。余命僅かな病人とか、動けなくなってしまった老人とか、そういう立場になって初めて、切に命というものを見つめることができるのだろう。
中学生の頃、キンセンカの鉢植えを育てたことがある。何故、そんな事をしたのか、未だに分からない。たぶん、ただの気まぐれだ。
比較的頑丈な植物で、陽に当てて水をしっかり与えていれば、ぐいぐい伸びて大きくなっていった。そして春が近づいてきた頃、ついに黄色の綺麗な花を咲かせた。
早春の陽光のなかで、ゆらゆらと冷たい風に揺れるキンセンカは、とても綺麗だった。僕はえも言われぬ神秘を感じて、しばらく、その鉢植えを大切に管理していた。
ちょうどその頃だったと思う。文乃と二人で電車に乗って、遠い街まで出かけたことがある。これまた理由など無く、ただ、遠くへ行こうと思い立ったのである。言い始めたのは僕で、初めは父に許可を得て、一人きりで行こうと思っていた。父を説得するのは簡単だった。「お前も年頃だからな」という一言だけで、外出を許してくれた。日帰りするつもりだったし、それほど心配もされなかった。
文乃にその計画を話すと、ついて行くと言い始め、その日のうちに両親の許可も得てしまった。僕は気が進まなかったが、しかたなく二人で行くことにした。
文乃に言わなければ良かっただけの話であるが、頭の悪い僕は、よく考えもせずに言ってしまったのだ。本当は、一人きりで知らない町を歩いてみたかった。目的なんてなかった。そんな、破滅願望に似た何かが、僕を突き動かしていた。
駅のベンチに腰掛けていると、文乃がやってきた。小走りに、後ろで一つにまとめた髪を揺らしながら。僕はゆっくりと立ち上がり、手を振った。息を乱しながら笑った彼女が、目で指した先へと、僕らは歩き出した。
電車は比較的空いていて、僕らは難なく座席を確保できた。左隣に座った文乃は、電車が動き出してから十分もしないうちに眠ってしまって、僕に肩を預けてきた。僕は苦笑しながら、彼女が眠りやすいように体の角度を調整してやった。
よく晴れて、気持ちの良い日だった。空は淡く青くて、所々、紙を透かしたように薄い雲が広がっていた。車窓が映す景色は未だ生命感に乏しかったものの、いくらか名前の分からない花が咲いていて、辛うじて春を匂わせていた。
僕らが電車を降りたのは、物静かな港町だった。電車は海からほど近い駅に停まり、僕らは緩慢な動作で下車した。駅には背の低い老婦人が居て、ぼんやりと遠くを眺めながら、電車か何かを待っていた。
僕らはあまり話さなかった。春本番に勝るとも劣らない穏やかな気温に、何を話せばいいのか分からなくなってしまった。あるいは、何を話しても不正解であるような気がしていた。文乃が何を考えていたのかは分からないけれど、とにかく、僕らはひどく無口だった。
遠く、遠くをぼんやりと目指した。僕が生まれ育った町にも海はあるけれど、どこか追いやられているような感じがあって、あまり好きじゃなかった。ひたすらに静かで、無機質な海岸線が続いているだけだ。
対してここの海は人に懐いているというか、何しろ温度があった。潮の香りも柔らかく、春風にこの上なくしっくりと馴染んでいる。僕らは堤防の上を歩いていた。それはずっと向こうまで続いていて、緩やかなカーブを描き、ここからでは見えないどこかで終わっていた。僕らはその果てを目指した。
途中で空腹を感じ、適当な店を見つけて昼食を摂った。何を食べたのか、自分でも笑ってしまうくらい、さっぱり思い出せない。この散歩について、僕が憶えているのは柔らかな陽光と潮の香り、それから控えめに聞こえる波音に、隣を歩く文乃の足音だけだ。あの時の僕にとって、それ以外のことは些末な問題だった。
しばらくして、僕らはその果てにたどり着いた。そこは寂れた漁港だった。無造作に漁具が打ち捨てられていたり、おそらくはもうほとんど使われていないであろう漁船が幾艘か繋がれていた。至る所に錆色が目立ち、その景色は、ただ淋しかった。
淀んだ海水が、それでも緑色に空を映し、陽の光をちらちらと反射していた。ふうっと、優しい風が僕らの間を吹き抜けていった。言葉にできない何かを見たような気がした。
「レイニー、暇だよー、遊ぼうよー」
文乃から電話がかかってきたのは、午後一時を少しだけ過ぎた頃だった。珍しく机に座って、数日前から読み始めた推理小説を読み終えたところだった。僕は心地良い読後感に満足し、彼女を家に呼んだ。
文乃は二十分もしないうちに到着して、僕のベッドに飛び込んだ。その無防備な様にため息を吐きつつも、僕は彼女に背を向けて座った。昔から、彼女は僕のベッドに寝転びたがる。理由は知らないし、訊きたくもない。
「ねえ、文乃」
「なあに?」
「昔さ、二人で遠出したの、憶えてる?」
彼女はごろんと仰向けになった、それが気配で分かった。
「遠出?そんなことあったっけ?」
「ほら、中学の頃。海辺の町へ行ったでしょう?」
彼女は少しのあいだ唸っていたが、すぐに短い叫び声を出すと、むくりと起き上がった。
「ああ、あれか」
そう言いながら、僕の隣に腰掛けた。これもいつもの事だ。
「なんか地味すぎて、あんまり憶えてないな」
彼女はそう呟いて、可愛いものでも見ているかのように、頬を緩めてみせた。僕はそれを横目に見て、また前へ目を向けた。
「正直、僕もよく憶えてないけど。でも、なんかさ、あの海は忘れられなくて」
今でも、目を閉じればそこに見える。深緑の海面、春風に流れる薄雲。
でも、なぜ今更に、そんな事を思い出すのだろう。
「懐かしいなって、思って」
僕がそう言うと、文乃は僕の袖を引っ張った。僕がそちらを向くと、彼女はにっこりと笑っていた。
「もう一回、行ってみる?」
僕は少し考えて、首を横に振った。そういう類の感情は湧かない。もう一度行っても、そこは最早、ただ寂れた海辺の景色にしか見えないはずだ。
「けっ、ノリ悪いなあ」
「悪いね」
僕は悪びれもせずに言う。
「あ、でもさ、海は行こうよ。川でもいいけど。せっかく夏なんだからさ」
「僕が泳げないの知ってて言ってる?」
「遅いだけで、カナヅチじゃないでしょ?知ってるからね」
確かにその通りだ。どうせなら全く泳げない方が潔いのだけれど、僕は辛うじて泳げる。とても下手に、という条件付きだが。
「梨子たちも呼んでさ、行こう」
「…うん、いいんじゃない?」
かくして僕らは、出かけることになった。ただ、海ではなく、プールへ行くことになった。
「おー、やっぱ混んでんな」
立川くんが遠くを見渡し、呟いた。僕は頷く。二人の女の子は日差しから隠れるように、僕らの後ろに立っていた。
僕らの町から電車で三十分ほど来たところに、その市営プールはあった。僕らの町にもプールはあるが、幾分古びており、遊ぶには味気がなかった。それゆえ、ここまで来るしかなかった。
ひとまず、僕らは水着に着替えることにした。更衣室まで混雑していてげんなりした。立川くんと二人で外に出る。いろんなタイプのプールがあるらしく、どこを見ても人がいた。家族連れもいれば、カップルもいた。ウォータースライダーのほうからはしゃいだ声が聞こえる。
「おー、後であれやろうぜ。楽しそうだ」
立川くんはウォータースライダーのほうを指さして言った。僕は素直に頷いた。とても楽しそうには見えなかったけれど。せっかく来たのだから、楽しまなければ損だと思う。
「おまたせー」
僕らが何でもないような雑談を繰り広げていると、背後から声がした。僕は振り返って、困って、思い切り目を逸らした。
「…文乃って結構胸あるのな」
無遠慮に呟いた立川くんの腹に文乃の拳がめり込んだ。
「痛ってえ」
「デリカシーってものがないのか」
僕は未だに文乃たちのほうを見られないままだった。目の遣り場に困る、というのはこういうことを言うのだろう。
「で、レイニーは露骨に見てくれないね」
文乃が呆れたように言った。それで、仕方なく彼女らのほうへ向き直った。
「なんか、反応に困るな」
「へえー、やっぱりレイニーも男の子ってことかあ」
何故か嬉しそうな文乃の後ろで、梨子さんがうつむき加減に立っている。比較的、露出の少ない水着だったが、恥ずかしいものは恥ずかしいらしい。
「ちょっとは梨子さんを見倣いなよ」
僕まで殴られた。痛い。
「理不尽な」
「口の滑る方が悪い」
僕は腹をさすりながら、いま一度、二人の水着姿を眺めた。梨子さんはともかく、こうして見ると文乃も女の子なんだなと思った。
あまり考えたくない。
立川くんと文乃は、早速ウォータースライダーへ向かった。僕は後で行くと言い訳して、梨子さんと残った。
「あ、あの、レイニーくん。私、へんじゃないかな?」
彼女は少しずつ、自分の言葉を遣って話してくれるようになってきた。僕は笑って頷く。
「大丈夫、可愛いと思うよ」
「そう?よかった」
彼女はふわりと笑う。素晴らしく正しい清らかさをもって。僕にはできない種類の表情を見せる。
「じゃ、僕らも泳ごっか」
僕は率先して水辺へ向かったが、梨子さんに指先を捕まえられて立ち止まった。彼女は困ったように眉根を寄せて、上目遣いに僕を見た。
「どうしたの?」
「え、と。私、あんまり泳げないの」
僕は能う限りの優しい笑みをつくった。上手くいっているか否かは無視して。
「大丈夫。僕もそうだから。一緒に行こ?」
軽く手を引っ張ってあげると、彼女はおずおずと従った。簡単に体を水に馴らし、ゆっくりと入水した。思いのほか深い。僕の首元くらいまでの水深だ。
「ちょっと深いから、気をつけて」
身長差を考えると、梨子さんには少し怖いところかもしれない。
「え、あっ、と」
彼女は恐る恐る体を沈めるが、この深さに尻込みしてしまったらしい。とはいえ、これ以上浅いプールは子供用で、僕らが泳ぐには小さすぎる。それに、今はかなり混雑していた。
僕は色々と考えた挙句、一番問題の少ないであろう提案をした。
「じゃあ、僕に掴まって。なんかあっても、僕にしがみついてくれたらいい」
浮き輪なんて気の利いたものがあればよかったのだが、そんなものは無い。背に腹は変えられない。
梨子さんは一瞬躊躇って、それでもゆっくりと、僕のほうへ手を伸ばしてきた。そして僕の肩を掴んだ。そのまま水底に足をつけ、ジャンプを繰り返すような形で呼吸を確保する。
「大丈夫?」
「な、なんとか」
しかし、これでは苦しそうだ。
「梨子さんがよければ、だけど。持ち上げようか?」
僕は貧弱だが、水の浮力を借りれば、女の子を抱えることくらいはできる。梨子さんはしばらく悩み、しかし最後にはこくりと頷いた。
僕は彼女が飛び上がったタイミングで太ももの下に腕をまわした。反対の腕で背中を支える。すこし不安だったが、彼女の体は驚くほど軽かった。
「あ、ありがとう」
彼女は囁くように言った。
「いえいえ」
「あ、ちょっと!何イチャイチャしてんの?」
そこへ、文乃たちが帰ってきた。
「早いね。楽しかった?」
「人が多すぎて諦めた…っじゃない。二人とも離れなさい」
文乃はやけにムキになって、早口に言った。
「そう言われても、梨子さんは怖がってるんだよ?」
「じゃあ一旦上がって!梨子は私と泳ぐの」
僕は言われるままに梨子さんをプールサイドへ押し上げ、それに続いて上がった。文乃に肩をつつかれる。
「まったく、そういうところだよ」
僕は曖昧に笑って首を傾けた。
「おー、レイニーもやる時はやるんだな。見直したぜ」
「人聞きが悪いよ…」
「さ、俺とも遊んでくれよ。あっち、楽しそうだぞ」
未だ僕を睨む文乃をよそ目に、立川くんが僕の手を引いた。
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