第10話
平日とはいえ、夏休みの影響だろうか。市立図書館はそこそこ混雑していて、僕らは空席を見つけるのに十分ほどを費やした。
「意外だったな。梨子さんが本好きだなんて」
「そうかな」
特にやることを考えていなかった僕は、梨子さんの提案するままに、ここへ一緒に歩いてきた。徒歩でも余裕で行けるものだと思っていた、僕は愚かだった。図書館は思いのほか遠かった。おかげで、僕は全身にじっとりと嫌な汗をかいた。対して彼女は暑がる様子も見せず、淡々と、同じ調子で歩き続けていた。やっぱり死人みたいだ、なんて思うのは、僕の下らないユーモアがさせることだ。
「本は、昔から好きなの。私、自分に自信がなくて、それで、本読んでる間は、自分を忘れられるから」
目だけで頷く。僕も、現実逃避のために本を読む。やはり、僕らは似ているのではないだろうか。
「奇遇だね。僕も、そんな感じだよ」
図書館は程よく冷房が効いていて、汗はすんなり引っ込んでいった。僕らは二人して席を立ち、本を探しに行くことにした。歩きながら、好きな作家なんかの話をする。僕はこれが苦手だが、本の話ができる人なんて今までいなかったものだから、とても新鮮だ。少しだけ、梨子さんを近くに感じた。
「あ、これ知ってる」
梨子さんが本を一冊抜き取る。その表紙を見て、僕は息を飲んだ。
「知ってるの?」
「うん。読んだのは、えーと、二年くらい前かなあ」
僕はその見慣れたハードカバーを見つめる。マイナーな作品だとばかり思っていたのだが、図書館に置かれる程度には有名なものらしい。こんなふうに、僕は時折、つまらない思い込みをする。
「レイニーくんも、知ってるの?」
僕は大きく頷いた。
「母さんが好きだったんだ」
無意識に過去形を使ってしまった。それだけで、梨子さんには負の何かが伝わってしまったようだ。明らかに狼狽え、目を泳がせる。
「…あの、ごめんなさい」
僕は笑った。過剰に、意図的に。いつもの様に。
「梨子さんが謝ることじゃないよ。それに、ずっと昔のことなんだ…その、母さんと別れたことは」
詳しいことは何も言わなかったが、梨子さんはこくんと頷いて、本を元に戻した。このままではいけない。これは、うってつけの話題ではないか。
「ちょっと、その本について話さない?」
僕は梨子さんが戻したばかりの本に手を伸ばした。
席に戻った僕らは、ひそひそと議論を始める。答なんて決して出ない。当たり前だ。たぶん、小説の正しい読み方なんて存在しないのだから。でも僕以外の人が、この小説をどう解釈しているのか、ということは気になっていた。
「いちばん不思議なのは、このエピローグだよね」
作者は何故、幸福の終わりを書いたのだろう。
「うーん。人生をもっとリアルに表現したかった、とか?」
なるほど、それも一理あるかもしれない。実際の人生は、絶頂のままでは終わらない。それはさらに変化していき、最終的には死をもって終わる。それこそがリアルな人生であり、僕らが生きる、この世界の根源的なルールだ。
「たしかに、そうかもしれない。でもさ、物語にそこまでのリアルを求めるのは、どうなんだろう?」
「…そうだね。んー、そもそもこの小説自体が、なんだか曖昧で」
「僕もそう思った。掴みどころがないって言うか…」
曖昧なラブストーリー。派手さに欠けるし、さらっと読んで面白いと思えるような代物ではない。ぼんやりと、人の一生を想像させるテキスト。そう言い換えれば面白い。
「幸せは、どこかで終わるべきなんだろうか」
僕は目を逸らして、ぼそりと呟いた。その声は想像以上に冷たく聞こえた。我ながらキザなセリフだ。
「なんか、哀しいね」
梨子さんが相槌を打つ。ふと、母の顔が頭を過ぎった。珍しいことだ。意識があるうちに母のことを鮮明に思い出すのは難しいから。
幸福は、どこかで終わるべきだ。その暗示じみた言葉は、しかし僕の心にすっと染み込んでいく。未完であることは、案外哀しいことなのかもしれない。終わるから、そこに幸福を見る。永遠に終わらない何かは、たしかに幸福なのかもしれないが、それはもはや、日常を逸した幻想だ。命は限りがあるから美しい。昔、本で読んだ言葉を思い出す。
「ね、ねえ、レイニーくん」
僕がぼんやり思索に耽っていると、ためらいがちな声が聞こえた。それでようやく、僕も意識を現実へ引き戻す。
「あの、全然、話変わるけど。文乃ちゃんとは、付き合ってるの?」
その話なら、前に食堂でもしなかっただろうか。そう思ったが、僕はこの質問にすっかり慣れてしまっていて、ほとんど反射的に、すらすらと答えてしまう。
「いや、そういうのじゃないよ。幼なじみなんだ。腐れ縁だよ」
「え、ほ、ホントに?」
彼女は頬をすこしだけ染めて、おずおずと念を押す。こんなに気弱な念押しは初めて見たかもしれない。そこで、ふと気づく。僕はこの子に対して、絶対的な善人の影を見ている。僕が言う善人とは、徒に他人を傷つけない人間のことだ。彼女がそんな事をしている場面は、無責任な妄想によっても作り出せる気がしない。
だって、彼女は他人を傷つけることを恐れている。理屈ではなく、本能で理解した。無口なのではなく、言葉が重いのだ。確信をもって、初めて堂々とものが言える。たぶん、そんな人間なのだろう。同族であるが故に想像できることだった。
僕が頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
「…そっか」
「ん?うん」
嬉しそうに?何故?もしかして彼女は、なんて思ってみて、吐き気がした。我ながら気持ちの悪い思考だ。僕はきっと、舞い上がっている。意外なところに同族を見つけて、それで、なんだか分かり合えそうな気さえしている。それだけで、下らない妄想に耽ろうとしている。それだけの話だ。他人を巻き込むな。僕は強く言い聞かせる。
死にたいと思ったことは、あまりない。まだ、自分の要領の悪さに慣れていなかった頃、赤っ恥をかいて、死んだ方がマシだと思ったことはあるけれど、たぶんそのくらいだ。今では神経が図太くなってしまって、そんなことも思わなくなった。生き物として進化したのだろう。あるいは退化なのかもしれないけれど。
僕は自分というものが弱い。自分を大切に守るくせに、自分のことがあんまり好きじゃない。ただ、何のために生きているのか、と考えることはしばしばある。この惨めで静かなだけの、下らない人生のどこに、意味があるのか。あるいはそれこそが、下らない思考なのかもしれない。生きている意味なんて見つける方が難しいだろう。
生まれつき、なのだと思う。病院のベッドで横になっていれば、それでいいと思ってしまえるような性格は。それは決して母の不在によって形成されたものではない。
母の不在は、ただ哀しかった。寂しい。僕は、ふだんそんな事を思わない。でも、母が死んで半年くらいの間には、幾度となくそう思った。
僕はベッドから起き上がって、本棚へ向かおうとした、そこで、全身が硬直して、まったく動けなくなってしまった。背中に冷たいものを感じる。心臓が煩いくらいに暴れていて、このまま壊れてしまうんじゃないかと思う。僕は五感の全てを使って、この危機を実感していた。
そこに、見知らぬ少年が立っている。僕は体つきだけで、それを少年だと判断した。本棚の前で、立ち塞がるように。彼は両腕をだらりと下ろし、こちらを見つめている。いや、それは正しくないのかもしれない。実際には、彼はフードを目深にかぶり、さらにその顔は、白い布で隠れていた。ちょうど、遺体の顔に布をかけるように。室内だから、当然ながら風もないのに、その布はゆらゆら、不気味に揺れている。随分カジュアルな服装だった。これは、ひどく人間らしかった。シンプルなパーカーに、ジーンズ。とても化け物だとは思えない。
しかし目の前にいるそれは、きっと紛うことなき化け物なのだろう。全てがおかしい。ここにいることがまずおかしい。先ほどからこちらを見つめて、微動だにしないことがおかしい。白い布が揺れているのがおかしい。もう、どこから指摘したら良いものか分からないけれど、とにかく、この少年の存在は異常だった。
脚の力が抜けて、僕はその場に座り込んでしまった。それでも少年は動こうとしない。ただ、じっとこちらを見ている。そのまま、どのくらいの時間が流れただろうか、やがて、彼はふいっと顔を背け、本棚のほうを向いた。そして一冊の本を抜き取る。何となく分かっていた。それは、母の形見だった。
彼は慣れた手つきでページを捲り、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。そこから取り出した紙切れを、本に挟み、元に戻した。僕は犯行現場をしかと見ながらも、声の一つもあげられないままだった。
一連の作業を終えると、彼はゆっくりとこちらに歩み寄った。今度こそ、僕は悲鳴をあげそうになり、口を抑えた。なぜだろう。理由は僕にもよく分からないけれど、とにかく、今は声をあげてはならないと感じたのだ。
僕の戦慄に反して、彼は僕には目もくれず、窓をすっと透り過ぎ、宵闇の中へ消えていった。僕はその様を何となく目で追って、それから、にわかに意識を失った。
蝉の声に目を覚ました。僕はきちんとベッドの上にいて、いつも通りの姿勢で眠っていた。しかし、あの不可思議な現象についての記憶は、鮮明に残ったままだった。
夢だったのだろうか。
それを確かめる術は、簡単に見つかった。誰でもすぐに思いつく。僕は本棚へそろりそろりと近づいて、慎重にハードカバーを手に取った。そして、後ろのほうの、明らかに違和感を感じるページを開いてみる。
果たしてそこには、一枚の紙が挟まっていた。彼が持っていたものと、大きさや色味も一致する。やはり夢ではなかった。
僕は狼狽え、本を落としそうになって、慌てて身を屈め、それを防ぎ、ベッドへ戻って、ようやく落ち着きを取り戻した。
彼は一体。そして、この手紙の正体は、一体。知りたいことならいくつもあったが、何よりもまず、僕はこの手紙の出処が、現実を逸したところにある、ということに感動していた。やはり、この手紙には特別な何かがあるのだ。母にまつわる、何かが。そう断じてしまうのは時期尚早だと、誰の目にも明らかだったが、それでも、僕は歓喜していた。
そんなものだ。何か、それらしいものを見つけると、人は意味を持たせようとする。内心で言い訳しつつ、感動を存分に味わった。それから、ようやく手紙の内容を確認する。
『私はいま、とっても驚いています。信じられないことが起こりました。あなたから返事が届くなんて、考えてもみなかった。
やっぱり、神様っているのかしら。そう思いました。
お元気ですか。手紙を見たところ、変わりないようで良かったです。そちらの気候はどうですか?暑い?寒い?こちらは今、夏真っ盛りです。毎日のように暑い日が続いて、嫌になっちゃう。
あまりわがままは言いたくないけれど、少しだけ許して。私、あなたからの手紙を見て、泣いてしまいました。やっぱり、寂しいよ。こんなこと言っても、あなたを悲しませるだけなのかもしれないけれど、それでも。
会いたいな。また、お返事下さいね』
僕はさっそく机に向かって、返事を書き始めた。もはや、相手が誰だろうと構わなかった。大まかな文脈さえ合っていれば、会話は成立する。僕は相手に迎合する形で、つまりアヤノの恋人を装って、似合わないことを書いた。
書き終えて、ふと天井を仰ぎ、我に返る。何をしているんだろう、僕は。それは不意に訪れる。手元に視線を落とし、自分の書いた文章を読み返す。
何を求めているんだろう。
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