第9話
意志薄弱。
僕ほど、この言葉が似合う人間も居ないのではないだろうか。そう思うのは、やはり自己憐憫に浸っていたいからなのだろうか。
とにかく、僕は意思が弱い。ぼんやり、流されるままに生きている。だから、僕の人生というのは極めてシンプルで、つまらない。
もとより、多くのことを楽しめない性格だった。飽き性で、何事に対しても集中力が続かない。好奇心も極めて小さく、まず何かをやってみようという気になれない。退屈なら、眠って時間を潰せばいいではないか、なんて思うような人間だ。
多分、僕には自己肯定感が足りない。いつも自分を出来損ないだと思っているから、人とも上手くやれない。でも実際に僕は不器用だ。人が怖いなら、信じられないなら、それなりに上手くやればいいだけの話である。それなのに、僕は泥臭い生き方しかできない。
『できない』ばっかりだな。ふふ。
梅雨が明けると、一学期はあっという間に終わってしまった。僕らは休みの日に出かけたり、テストを受けたりした。仲良くなれているのかどうかは、僕自身もよく分からない。ただ、二人のことを、少しは信じられるようになってきた。というのは過剰な警戒、そのほんの一部だが、それを解くことに成功した。つくり笑いが、少し楽になった。
まあ、当たり前と言えば当たり前だ。僕だって、人並みに愛着を持つ。物にも、人にも。
しかし、新鮮な感覚だ。これほどまっすぐに関わろうとしてくれたのは、文乃くらいのものだった。生まれて初めての友達は文乃だが、ようやく、それ以外に候補を見つけたわけである。
夏休み初日。今日は特に予定もなく、僕は『君へ』を読んでいた。しばらく読んでいたら、ふと、手紙のことを思い出した。我ながら突飛なことをしたものである。僕は苦笑とともに、手紙を挟んだページを開く。
無い。
手紙が無かった。胸が高鳴る。ありえない事だ。どこかに落としたのか?あの日以来、この本は動かしていない。だから落ちているとしても、そこら辺で見つかるはずだ。僕は部屋の中をくまなく探してみる。ベッドの下まで覗き込んで。
しかし、やはり手紙は見当たらなかった。机の上を確認したところ、アヤノからの手紙は残っていた。僕の手紙だけが無くなっている。
怖い。やはり何者かが、この部屋に侵入しているのだろう。僕の頭の大部分は、そんな思考に占領される。常識的に考えて、これは警察にでも相談すべき出来事だ。言ったところで相手にされないだろうけれど、とにかく、種類としてはそういうものに違いない。
一方で、僕はこの不可思議な現象の落とし所を、超常現象に見出そうとしていた。天国からの手紙。そんな何かを、信じたがっていた。
まったく、現実逃避も甚だしい。理性では分かっている。あんなラブレターもどきの手紙が、母からのものであるはずがない。ましてや、差出人の名前も違うのだ。
僕はため息を吐いて、ハードカバーを片付けた。これでいい。もう、忘れてしまおう。
一階へ降りてみると、父の姿はなかった。出かけたのだろうか。僕は冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出して、コップに注いだ。夏はこれが美味しい。
コップを傾けつつ、たまには音楽でも聴こうと思い立って、ポケットからスマートフォンを取り出した。そして、そこに表示された通知に、飛び上がるほど驚いた。
安達さんからのメッセージ。
『今日、二人で、会えませんか?』
心臓が滅茶苦茶に暴れているのは、単に緊張したからだ。どちらにしても、僕は彼女からの誘いに返事をしなければならない。四人で遊ぶ時なら、まだやりやすい。だが、ここには『二人で』と、はっきり書かれている。これは、困ったことになった。
安達さんのことは、別に嫌いではない。むしろ、最近は本格的に友達となりつつあるから、多少は好きなのかもしれない。文乃ほどではないにしろ、僕はある程度、彼女にも心を許している。
だから、会うのはやぶさかではない。やぶさかではないのだが、これは、唐突過ぎないか?
これまでには一度もなかったパターンだ。僕は非常に困った。悩む。しかし、早く返事をしてあげなければ、安達さんも困ってしまうだろう。
僕は独り笑う。こういう時には、思考を放棄してしまうのが一番だ。
『いいよ。どこで会おっか』
何を思って、と訊ねられると、僕にも分からない。ただ、考えても打開策が浮かばなかったから、こうしたまでである。僕は身支度を済ませると、昼前に駅へ向かった。
今度こそ遅れまいと、時間に余裕をもって出たつもりだったが、また先を越されてしまった。安達さんは、日陰のベンチに座っていた。白いブラウスの襟をぱたぱたさせながら、どこか遠くを眺めている。僕はそっと彼女に近づいた。
「おはよう、安達さん」
彼女は僕の声に顔をあげ、にっこりと笑った。これは、驚くべき変化だった。カラオケに行って以来、彼女の表情は劇的に豊かになっていった。相変わらず、クラスでは死人のように無気力な態度を貫いているが、僕らといる時には、本当に、いろんな顔を見せてくれるようになった。たぶん、良いことなのだと思う。
「驚いたよ。まさか、安達さんから誘ってくれるなんて」
彼女は立ち上がり、ぶんぶんと首を振った。今日の服装はシンプルなものだった。夏だから当然だが。足元もサンダルで涼しげだ。
「じゃあ、とりあえずご飯食べに行こっか」
安達さんはこくんと頷く。僕らは並んで歩き出した、それで、ふと気づく。安達さんは、文乃より少しだけ背が低い。そして、歩幅も狭い。僕は意識的に、歩幅を矯正する。身体との距離も気にしながら、ゆったりと、彼女が気を遣わないように。
僕らは、いつもの喫茶店にたどり着いた。安達さんは、電車に乗って、わざわざこっちまで出向いてくれたのだ。楽しめるようにしてあげないと、そう思うと、急に気が重くなった。安請け合いして良かったのだろうか。いまさら考えても仕方ないけれど。
「ここは、僕と文乃の行きつけでね。安くて美味しいんだ」
安達さんは笑って首を傾ける。彼女のボディランゲージは独特だ。僕もつい最近になって、ようやく慣れてきた。『へえ、そうなんだ』こういうことだ。
ベルが鈍く鳴って、僕らはテーブル席へ案内された。水を持ってきた店員が去っていくと、僕は彼女にメニューを見せる。喫茶店だから、料理の種類は限られている。あくまで軽食のレベルだ。相手が立川くんだったら連れてこないかもしれない。安達さんは少食らしいし、大丈夫だろう。
僕はフレンチトーストに、カフェオレを注文した。彼女は紅茶と、ホットサンドを注文する。彼女の声はこんな時にしか聞けないので、ちょっとドキリとする。綺麗な声だ。高いが、耳障りでない。抑揚が小さく、話し方に落ち着きがある。
「安達さんは、紅茶派?」
『うん』
「もしかして、苦いの平気だったり?」
『んーん。全然ダメ』
そうなのか。それは気が合いそうだ。僕は水を一口含んで、次の話題を考える。ふと、文乃の顔が浮かんだ。
「そう言えば、文乃とは遊んでる?」
『うん。とっても優しい』
彼女のボディランゲージを頭の中で翻訳しながら話すのは、意外と楽しい。細かいところはさておき、文脈さえ合っていれば、会話は成立する。それで彼女が自然な表情を見せてくれたら、なんだか無性に嬉しくなる。言葉に頼らずに、もっと直截なコミュニケーションを図っているみたいな気がして。
「そっか。確かに、文乃は優しいよね」
彼女は大きく頷いた。
注文の品が届いた。ベタベタに甘いフレンチトーストに、気分が弛緩していく。安達さんもホットサンドをかじりとって、頬を綻ばせた。
「美味しい?」
『うん』
それから、彼女は不意に、悲しげな顔になった。眉を曲げて、口を僅かに歪めている。不安げにもみえる。僕はたちまち緊張を取り戻して、できるだけ優しい声を心がけて、彼女に問う。
「どうしたの」
長い沈黙が流れる。僕はフレンチトーストを切って、口へ運んだ。彼女は紅茶をストレートのまま飲み下し、それから、視線をあちこちへさまよわせた。
「…あの、ね」
ちいさく、綺麗な声で呟いた。店内は静かだ。僕がそれを聞き逃すことはなかった。
「えっ、安達さん…」
「…私、いつも、話せなくて、ごめんなさい」
彼女はひどく遠慮がちに言った。僕は戸惑い、なんと答えて良いか分からなくなる。ひとまずカフェオレを一口含んで落ち着くと、次に言いたいことは決まった。
「謝るようなことじゃないよ。でも、なんで?」
そういう話をするならば、文乃と立川くんも呼ぶべきだろう。特に文乃に言ってやるべきじゃないのか。しかし、彼女はこの質問を違ったふうに受け取ったらしい。
「その、えっと…怖いの」
怖い。馴染み深いその言葉に、僕は姿勢を正す。彼女はテーブルの上に視線を落として、ぼうっと何かを考えているようだった。その恐怖は、もしかしたら僕にも分かる類のものかもしれない。
「怖い?」
「うん。…言葉にして、相手に、うまく伝わらないことが、怖くて、それで、いつも話せなくて」
彼女は意を決したように顔をあげると、僕の目をまっすぐに見据えた。
「でもね、あなたたちに会ってから、私、すごく楽しくて。三人とも、私が黙ってても、許してくれて。でも、今度は申し訳なく、なってきて」
「…それで、僕を呼んだの?」
彼女は慌てて首を振った。まるで何かに怯えているみたいに。
「え、あ、ち、違うの!今日は、その」
彼女はまた俯き、黙った。僕はじっと待つ。急かしてはいけない。
「…えっと、れ、レイニーくんに、会いたかったから」
レイニーくん。その新鮮な響きに、僕は思わず笑った。彼女は困惑顔で、僕の顔を見つめた。
「あ、いや。まさか、安達さんがその名前で呼んでくれるとは思ってなくてさ」
「ご、ごめんなさい!嫌だった、かな」
「んーん、全然。じゃあ、僕も梨子さんって、呼んでいい?」
不思議だ。この僕が、彼女の前ではあまり緊張していない。それは、前々から感じていたことではあった。恐らく、僕より彼女の方が頼りなげにみえるからだろう。いや、そんなのは思い上がりだ、調子に乗るな。
けれど事実として、僕はいつもよりリラックスして話している。
「え、う、うん!嬉しい」
彼女は頬を染めて、何度も頷いた。そこまで言われると、僕の方も照れてしまう。
「でも、どうして僕に、話してくれたの?」
「…レイニーくんは、なんだかいつも、寂しそうで。他人を怖がっているようにみえたから…って、ああ、ごめんなさい。分かったようなこと言って」
僕は全身を硬直させる。やはり、気づかれていたのか。仕方ないのかもしれない。僕だって、上手くやれている自信が無いのだから。下手なつくり笑いを重ねても、隠せないものは隠せないのだろう。
「いや、いいんだ。その通りだよ。梨子さんも、そうなの?」
「うん、私も、似たようなところがあって。それで、まずは、レイニーくんに相談したくて」
なるほど、事情は分かった。それにしても、やはり人は、不意に意外な一面を見せるものだ。あんなに無口だった梨子さんも、急に話すようになった。難しい。
思えば僕は、ある決まった一面だけを前に押し出して、それ以外を見せたくないのだろう。人はいくつもの面を持つ、とは使い古された表現だが、それはきっと、とても重要なことなんだろう。
「なるほどね。分かった。僕でよければ、力になるよ」
彼女はパッと明るい表情をつくり、「ありがとう」と、声に出して言った。
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