第8話

 ファミリーレストランの窓に映った僕の顔は、やはり少しくたびれていた。外はもう、かなり暗くなっていた。楽しかった、のだが、人と関わるとこうなってしまう。いつもの事だ。なんだか頭もぼんやりしている。

「いやあ、まさか梨子があんなに歌えるとは…」

「びっくりだよな」

 安達さんの歌は、お世辞抜きに上手かった。普段あまり声を聞かないから余計に、そう感じるのかもしれない。彼女の声は繊細で、とても美しかった。声量も十分で、全然ぶれない。僕らはただ聴き入っていた。

 安達さんは僕らの賛辞に首をぶんぶん振って応えると、頬をすこし染めて俯いた。そこへ、店員が注文の品を運んでくる。僕は少し水を含んだ。

「ねえ、次はどこへ行こうか」

 次、というのは明日以降のことだろう。僕はぎょっとした。誘われるのは嫌ではないが、そんなふうに頻繁に呼ばれては、気疲れしてしまって仕方ない。

「今日はあんまり話してないから、次はどっかで喋るのがいいかもな」

 立川くんが笑って言った。僕は形ばかりの笑顔を保っていたが、それが少し崩れそうになって、あわてて修正する。

 文乃は立川くんの言葉に食いつき、話を進めていく。僕はその様子を眺めながら、安達さんのほうをちらと見た。笑っている、らしい。明らかに機嫌が良さそうだ。僕は余計なことだと思いつつも、文乃たちの声を遮らないよう注意して、安達さんに訊いてみる。

「カラオケ、楽しかったね。安達さんも、楽しめた?」

 彼女は僕の目を見て、大きく頷いた。それは良かった、と思うが、同時に孤立無援なのだと知る。みんなで遊ぶことにネガティブな感情を抱いているのは、僕だけだ。安達さんが僕の同類だなんて、そんな傲慢なことを考えていたわけではないものの、どちらかと言えば僕に近い存在であると信じていた。僕は「良かった」と微笑んでみせる。その勢いに任せて、ふふと笑ってみる。


「いやあ、楽しかったね」

 夜道を並んで歩くのは、本当にいつぶりだろうか。たしか、中学の時に夏祭りへ行ったきりだ。空を仰ぐと、星が綺麗だった。

「ああ、そうだね」

 僕は気のない返事する。疲れていた。

「疲れちゃった?大丈夫?」

 文乃は普段より低い声で問う。彼女の声は、いくら聞いていても飽きない。僕にとって心地よいトーンで、聞き取りやすいスピードで話してくれるから。付き合いが長いから、お互いの都合の良いように進化しているのかもしれない。

 それにしても、文乃には何でもバレてしまうから困る。今は隠すつもりもないけれど。

「ちょっとね。でも大丈夫」

「嘘つき。大丈夫じゃないくせに」

 文乃は僕の肩を叩いた。僕はようやく、彼女のほうを見た。この顔は、本当に心配している時の顔だ。僕は無理に笑ってみせる。

「ほんとだよ」

「もー、そうやって無理に笑わないの」

 文乃はなんだか拗ねたように言って、そっぽを向いた。その横顔は、なんだか悲しそうだった。

「私には、甘えてくれていいのに」

 文乃は足元に落ちていた石ころを軽く蹴り飛ばして、呟いた。

 甘えていい、のだろうか。彼女には、もう充分甘えているつもりなのだが。

「ねえ、レイニー。こういうのも、嫌だったら言ってくれていいんだよ」

 僕は十メートルほど先にある街灯を見る。蛾のような小虫がたくさん集って、独特な動きを繰り返している。どこか不格好に。

「…ありがとう」

 僕はそれだけ言うと、もう何も言わなかった。文乃もまた、話さなかった。僕は彼女を家へ送り届けると、まっすぐに帰宅した。


 これまでに無いことだった。こんなふうに、文乃以外の誰かと親しくすることなんて。文乃には友達が少なくなかったが、僕がその子たちと遊ぶことはまずなかった。文乃も、気を遣ってくれて、無理に僕を誘おうとはしなかった。

 状況を変えたのは、立川くんの存在だ。僕は彼に逆らえない。彼の前で、下手な態度をとるわけにはいかない。けれど同時に、彼はとても優しい。流石の僕でも、そんなことには気づいている。彼は、きっと僕が下手なことを言ったって、なにか失敗したって、笑って許してくれるだろう。少なくとも、そのくらいの良心は信じても良いのだろう。

 それができないから、僕はいつまで経ってもこんな調子なのだ。僕を苛んでいるのは、絶望的なまでの劣等感だ。いつも何かを間違えているような気がする。人と、たとえ表面上は上手くやれているようにみえても、どこかが破綻しているのではないかと、冷汗三斗、いつも綱渡りをしているような気分である。僕は周りの人達から見るとひどく未熟で、何も分かっていない、まるで幼児に等しいのではないか。そんなことをさえ思う。

 ため息を吐いて、ベッドへ身を投げた。もっと強い人間なら良かったのに。立川くんも恐れず、そもそも他人を必要としないような、独りでも生きていけるような人間。どれだけ憧れたって、僕はそれになれない。いつだって、どこかで他人を求めていて、怖がっている。

 僕は立ち上がると、机の上に置いてあった手紙を手に取る。この手紙が、もしも母からのものだったとしたら?僕はどうすべきだろう。馬鹿げた話だ。すこし心が弱ると、どこかへ逃げ込みたくて仕方ない。

 僕は椅子に座って、鞄からルーズリーフを一枚取り出す。ペンを握って五分くらい、ぼうっと考えた。それから、一息に手紙を綴った。短い文章だ。書き終えるのに五分もかからなかった。僕はそれを半分に折りたたみ、ハードカバーに挟んだ。それから、なんだか無性に悲しくなって、僕はベッドに潜り込んだ。眠るには少し早いような気もするが、構わなかった。今は何も、見たくなかった。

 翌日。ベッドから抜け出ると、僕は本を確認した。そこにはまだ、僕の書いた手紙が残っていた。馬鹿馬鹿しい。つい笑いが漏れた。何を期待していたのだろう。そんなありえない、悲しい奇跡を望んでも仕方が無いのに。僕は本を閉じると、本棚の決まった場所に納めた。それからカーテンを開け放った。今日も暑くなりそうだ。


 自由意思、というものに疑問を感じる。僕は確かに生きていて、自分の意思に従って行動しているはずである。しかし、僕は果たして、どのくらい自由な意思を持っているのだろうか。それは所詮、周囲への応答の結果生まれた物に過ぎないのではないだろうか。

 なんて思うのは、登下校の時だ。僕の家から学校までは、歩いても十分そこらである。これは嬉しい。ギリギリまで寝ていられるから。

 朝は眠いから、余計にそんなことを考える。つまらないことを考えて、少しでも意識を他へ向けようとする。意味のない習慣だ。と言うか卑屈すぎる。そんな時くらい、もう少しまともなことを考えられないものだろうか。なんて、そう思うと、少し気分が良くなる。自己憐憫は、恐らくこの世でもっとも人に優しい感情だ。

「レイニー。おはよう」

 背後からの声に振り向くこともなく、僕はちょっとだけ歩幅を狭くした。すぐに追いついた文乃は僕を通り過ぎ、三歩先でくるりと回ってみせる。スカートが膨んで、ポニーテールが揺れた。今日は髪をまとめている。そんなどうでもいい事に気づいて、僕は足を止めた。

「どうしたの?」

 彼女の感情や意思の一部は、僕にとって分かりやすい。

 たとえば、機嫌が良いときに髪型を変える。

「…バレちゃった?」

「バレちゃってる」

 文乃は嬉しそうに笑って、ちいさく首を傾けてみせた。

「実はね、梨子から遊ぼうって、誘ってくれたの。ほら」

 文乃はスマートフォンを操作すると、僕に画面を突きつけた。そこには文乃と安達さんのトーク履歴が表示されていた。

『この前は楽しかった。また、遊びたい。今週末は、空いてる?』

 一見するとぶっきらぼうなだけにしかみえないメッセージも、彼女が送ったのだと思うと印象が変わるから不思議だ。多分、真剣に考えて書いたのだろう。

「よかったじゃん。もう友達だね」

「そうなの。でさ、もし良かったら、その、レイニーも来ない?立川くんも呼んでさ」

 文乃は遠慮がちに言った。こんなふうに言われると、僕はダメになってしまう。どちらも不正解であるように思われて、僕はより良い選択肢を探すことに躍起になる。しかし結局のところ、自分の奥深くから滲み出てくる欲望を、どうにも抑えることができない。

 最近分かった。僕は人を避けたいわけじゃないんだ。ただ、一緒にいることを、まるで罪のように感じるだけで。本当に、どうしようもない。

 しばらく悩んだ後、僕は口元を持ち上げて、首を縦に振った。

「うん。いいじゃん。行こう」

 文乃は僕の顔を覗き込み、しばらく観察しているようだった。僕はあからさまに目を逸らした。誰が理解してくれるだろうか。こんな、わけの分からない性格を。

「ほんとに大丈夫?言っといてアレだけど、無理なら無理って言ってくれれば」

 文乃は眉根を寄せて、僕を見つめた。無理をしているつもりはなかった。僕はあくまで、この状況に適切な応答をしただけなのだから。僕はゆるゆるとかぶりを振って、彼女を見つめ返す。

「寂しいこと言わないで。僕を、一人にしないで」

 自然に零れた言葉だった。そして、僕はその言葉に驚愕する。とても、僕の口から出たものだとは思えなかった。何も繕っていない。文乃に対しては、比較的素直な言葉を遣うようにしているが、それにしてもありえない言葉だった。その証拠に、文乃は目を見開いて、驚きを顕にしている。

「レイニー、今なんて…」

「ごめん、忘れて。とにかく、僕は平気だから。誘ってくれてありがとう」

 今度は反対の方向に過剰な表現をした。こういう時に、ちょうど良い言い方ができなくて困る。僕は文乃の頭上へ目を遣った。夏空がそこにあった。遠く、入道雲が厳かにそびえていた。

「…そっか。分かった。でも、無理しちゃダメだよ。絶対だからね?」

「うん」

 それで、僕はようやく彼女の隣に並んだ。いつもの歩幅で、いつもの二人で。僕は減らず口をたたき、文乃はそれを笑った。何も変わらない、僕らが十年近く繰り返してきた、朝の風景。

 足りないものなど何もない、はずなのに。


 教室の前で、立川くんと安達さんが立っているのを見つけた。

「おはよう」

 僕らの挨拶に、彼は陽気に、彼女はボディランゲージだけで応えた。なんだか珍しい光景だ。安達さんが文乃以外の誰かと居るところを、まずもってあまり見たことがない。その相手が立川くんとなると、なおさらだ。

「安達が、週末誘ってくれてさ。二人も来るんだって?」

 その言葉に、僕は安達さんを見遣った。彼女は困ったように笑った。笑った、と分かるくらいの変化だった。なんだか雰囲気が変わったような気がする。情けない僕は、条件反射の笑顔をつくった。

 文乃が手をまわすまでもなく、安達さんはみんなを誘うつもりだったらしい。文乃はよくわからない奇声をあげつつ、安達さんに抱きついた。抱きつかれた安達さんは無抵抗のままで、ただ、恐る恐る文乃の体に腕をまわしていた。

 もしかして、彼女は、ある意味で僕と似ているのかもしれない。いや、やはり僕の方が偏屈で意気地無しで愚図なのだろうけれど、それでも、本質的なところが似通っているのではないだろうか。

「レイニーも、来るよな?」

 ぼうっと考えていると、立川くんが僕の左肩を叩いた。僕は表情を変えないまま、大きく頷いた。

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