第7話

 時々、母を夢に見ることがある。夢というのは、記憶に深く関わっていると聞いたことがあるが、どうにも、僕にはそう思えない。僕が夢に見る母は、やけに鮮明なのだ。ずっと昔に死に別れたとは思えないくらい、僕は鮮明な母の像を見る。それは、起きている間にはできないことだった。

 自分でも不思議だと思う。無意識に憶えていて、意識的には思い出せないだなんてことが、あり得るのだろうか。とにかく、僕は夢で母に会う。僕の視点は今よりずっと低い。これは、子供の時を再現しているのだろう。だからきっと、この映像は、僕の記憶に依って作り出されている。

 母はいつだって優しかった。それは夢の中だけの存在となっても、変わらなかった。僕らは大抵、僕の部屋の中で会う。頭上の蛍光灯が明るく灯っていて、窓の外は、もう真っ暗になっている。

「もう、寝なさい」

 母は優しく言うと、僕がベッドに入るのを待つ。それから、そっと灯りを消す。目が暗闇に慣れるのを待たずに、母は僕のもとへやって来る。月明かりにぼんやりと浮かんだ彼女の顔は安らかで、僕はそっと目を閉じる。すぐに、額の辺りにやさしい温もりを感じる。

「おやすみ」

 夢は、いつもここで終わる。始まりはバラバラだ。母と買い物をしているシーンから始まることもある。あるいは、父に抱き上げられているシーンから始まることもある。しかし最後には、彼女は必ず僕をベッドに入れ、灯りを消す。そして、「おやすみ」を言うと、僕の前から姿を消す。


「母さん…」

 起き抜けにそんな呟きが漏れて、自分で驚く。また、母の夢を見ていた。半身を起こして内容を思い出そうとするけれど、それはするりとすり抜けて、色褪せた写真みたいに、輪郭を失っていく。やがて、何も思い出せなくなる。僕はため息を吐いて、ベッドを抜け出した。

 母は幸せだったのだろうか。

 こんなことを、子供が考えるのはひどく生意気なことなのかもしれない。だが、たまに考えてしまう。ふらふらと歩いている時や、授業に飽きて、ふっと窓の外を見た時。またあるいは、夜、ベッドに潜り込んだ時。僕は、ぼんやりと考える。

 僕を産んだから、死んでしまった。どこかで聞いた話だ。特別、珍しいことでもないのかもしれない。確かに普通ではないけれど、親と死に別れた子供は、この世にごまんといることだろう。僕は、そのうちの一人だったに過ぎない。

 ふふ、と笑ってみる。僕は一人でも笑う。何かを誤魔化すみたいに。また、何かを忘れるみたいに。その衝動はふとした瞬間にやって来る。

 午前中は、課題を片付けるのに使った。今日は土曜日だから、学校に行かなくても良い。だが、少し特別な予定が入っている。僕は昼食を済ませ、身支度を整える。僕が下手な格好をしていると、みんなが嫌な思いをするかもしれない。寝癖を入念に直し、鏡の前で、もう一度笑ってみる。いつも通りの、不格好な笑み。いつからだろう。

 こんなときには、なぜだか文乃が恋しくなる。ほとんど毎日、会っていると言うのに。彼女は僕に安らぎをくれる。それが、ほんの少しの緊張を伴っているとしても。


「おまたせ」

 僕が待ち合わせ場所に向かうと、三人はもう着いていた。遠くからそれが分かった時点で、僕は回れ右して帰りたくなった。もちろん、そんなわけにはいかないけれど。もう少し早く来ればよかった、と時計を確認してみるが、まだ約束の時刻には五分ほどあった。僕が遅いのではなく、彼らが早すぎるのだ、と言い訳して、少しは自分を落ち着けてみる。上手くいかない。せめて、いつも通りに笑おう。

「お、レイニー」

「よう」

 二人は同時に僕を見て、同時に言った。息ぴったりだ。実は気が合うのではないだろうか。安達さんは、僕の全身をなんとなく眺めながら、こくんと頷いた。僕はひとまず「おはよう」と返しておく。

「よっしゃ、じゃあ早速行こうぜ」

 ラフな格好の立川くんが言った。彼にはこういう格好がとてもよく似合う、ということを今知った。彼は先頭となって歩き出す。ついで文乃が彼の隣に並び、僕は安達さんと並んで二人のあとを追う。

 安達さんの私服姿は新鮮だった。顔立ちが良いから制服を着ていても可愛いのだが、こうしてカジュアルな服を着ていても、やはり可愛かった。控えめなフリルがあしらわれていたり、薄桃色が目立ったりと、想像以上に、なんというか、『少女らしい』服装だった。それでいて主張し過ぎないのだから、流石と言える。

 僕は素直に、その新鮮さを楽しんでいた。だから、不意にこちらを向いた安達さんと、ばっちり目が合ってしまった。彼女は首を傾げ、目尻を下げて僕を見る。『何か用?』僕にはハッキリと聞こえた。

「あ、いや。私服見るの初めてだから、新鮮だなって思って」

 彼女は小さく頷いたが、目を逸らしてくれなかった。よく見ると、僅かに口元が緩んでいる。笑っているのか。しかし、視線の意味は分かりかねた。僕は困ってしまって、過剰に笑みを大きくする。見かねたのか、彼女は自分の胸元を指さした。それで僕は、ようやく意図を理解する。

「あ、うん。可愛い、と思う」

 言っている途中で恥ずかしくなってしまって、へんな区切りが出来てしまった。彼女はそのままの表情で、小さく頷いた。これで合っていたらしい。その様子に、僕は自然に笑った。意図して作った笑顔を崩して、本当の笑顔が零れてしまった。なんだか気まずい、と思っていると、文乃の声が僕を現実に引き戻した。

「なに口説いてるのよ」

 彼女は不機嫌だった。昔から分かりやすいのだ。

「そんなんじゃないって。単純に、可愛いなって」

「へえー、そう。じゃあ私は?」

 なんとなく言いたいことを察して、僕は最高の賛辞を考える。しかしここで、僕の悪癖が要らぬことを言わせた。

「見飽きた感が否めない」

 文乃は見事な裏拳を、僕の胸に命中させる。裏拳って。地味に痛い。「ぐえっ」と無様な呻き声を漏らした僕を、彼女はジト目で眺める。

「…可愛いよ、うん。とっても」

「心がこもってないなあ」

 言いながら文乃は笑って、前に向き直った。立川くんが豪快に笑う。それで、僕も安心する。これは成功だったらしい。


 十分ほど歩いて、カラオケボックスに到着した。立川くんが手馴れた様子で手続きを済ませ、僕らはドリンクバー用のカップを携え、指定された部屋へ向かった。

 正直、気が進まなかった。カラオケなんて、中学生の頃に文乃と行ったきりだ。それだって、文乃がせがむから付き合っただけで、そもそも僕はカラオケが苦手だ。

 歌が下手なわけではない、はずだ。少なくとも文乃は上手いと言ってくれたし、学校で歌った時にも、特に指摘されなかった。そのあたりの能力は人並なのだと信じている。

 だが、どうすればいいのか分からなくなるのだ。文乃と二人の時でさえ、そう思った。人の歌を、どんなふうに聴けばいいのだろうか。黙ってじっとしている事が許されるのは、たぶん安達さんくらいのもので、僕のような人間は、なんとか動きを見せなければならない。かと言って、おどけて騒いでみせるのも、失敗しそうで怖い。却って場を白けさせてしまうのではないかと思う。選曲も同様だ。メジャーな歌を選んでいれば、とりあえず安心であるが、そればかりではつまらないと思われるかもしれない。結果、どうすればいいのか分からなくなる。

 僕にとっては、まったく息苦しい場所である。

 それでも、今日の話に乗ったのは、立川くんが絡んでいたから。これは容易に振り切れない。僕が付き合いの悪いやつだと思われたら、今後、どんな弊害が現れてくるか分からない。さらに状況を悪化させたのは、安達さんの参加だった。意外、なんてものではない。僕は驚きを隠しきれなかった。これが決定打となり、僕は首を縦に振らざるを得なくなった。文乃がニヤリとほくそ笑んだのを、僕はしかと見た。

 ただ、満更でもないと思えるところも確かにあって、僕はここへ来たのだった。難儀な性格だ。僕は人を徒に突き放すことはできないし、まったくの独りぼっちでいることもできない。だから、文乃には一生かけても返せないような恩がある。

 部屋に入ると、長いソファに腰掛けた。一番奥に安達さん、その隣に文乃、そして僕を挟んで立川くんが座った。前方のモニターでは、何かしらの宣伝映像が流れていた。サービスの一部を紹介しているらしかった。

 立川くんがタッチパネルを操作し始める。流れるように文乃がそれを奪い、次の曲を探し始める。僕は選曲に必死になって、頭を悩ませていた。まずは無難な、流行りの曲でいいだろう。

 作業を終えた僕は、じっと順番を待つ、つもりだった。しかし、隣から伸びてきた腕に驚く。それは文乃ではなく、安達さんのものだった。僕はすぐさま要求に従った。

 てっきり、彼女は歌わないのかと思っていた。だがよく考えてみれば、ここへ入るのもタダじゃない。歌わなければ損だと言われればその通りだ。大体、歌う気がないのなら、はじめから乗ってこないだろう。容易に想像できるはずだった。それでも僕が驚いたのは、彼女の行動があまりにイメージと違っていたからだ。勧められて、というところなら想像できるが、率先して歌うとは思っていなかった。

 やはり、安達さんは至って普通の女の子なのかもしれない。僕が勝手に、死人みたいだと決めつけていただけで。

 内心で謝りつつ、安達さんのほうをそれとなく観察した。彼女は真剣な表情でタッチパネルを操作している。普段の無気力な態度とのギャップが可愛い。なんだろう。彼女を見ていると、そんな形容ばかりが浮かぶ。無口だが、愛嬌があって、なんだか守ってあげたくなる。なんて、一瞬カラオケのことも忘れてぼんやり思っていると、それを文乃に見咎められた。

「ちょっと、レイニー。いくら梨子が可愛いからって、見すぎでしょ」

「あ、いや、ごめん」

 安達さんは顔をあげると、こちらを見た。笑っている、ようにみえた。僕は条件反射で笑い返した。それを見た文乃が、さらにへそを曲げる。

「へー、レイニーも、やっぱり梨子みたいなのがいいんだ」

「違うって。いや違わないけど」

「もー!レイニーなんて嫌い」

 文乃はふいっとそっぽを向く。これは中学生の頃からだろうか。文乃は、僕が他の女の子を褒めると怒る。いや、怒ると言うと大袈裟だが、機嫌が悪くなる。嫉妬なのだろう。それは分かるが、たかが僕くらいの人間の評価を気にしなくてもいいのにと思う。女の子の可愛さなんて、僕には表面的なことしか分からないのだから。

「ごめんってば」

「ふーん。どうせ私は、男勝りで可愛くないですよー」

 ああ、やってしまった。けれどこれに関しては、僕が焦る必要はない。本気で怒っているわけではないと知っているからだ。いや、こんなことで本気で怒られたら、それはそれで困るけど。十分もすれば、元に戻っている。

「おいおい、お前ら、俺の歌は無視かよ…」

 そんなことをやっている間に、立川くんが歌い終わってしまった。大袈裟に動揺した僕を見て、立川くんは爽やかに笑いかける。

「そんな顔すんな、冗談だよ。レイニー、お前の歌、期待してるぜ」

 僕は目を丸くした、が、すぐに気をとり直して、いつも通りの笑顔を作った。立川くんは、細かいことにこだわらない人だ。それは、なんとなく分かっていたことだ。だから、怖がっているのは僕の神経過敏がさせることで、本当のところ、僕がこれほど神経質になる必要はないのだろう。

 分かっている。でも、そういうことじゃないんだ。いや、何を偉そうに。お前に人が分かってたまるか。


 僕は、有名で歌いやすい邦楽を歌った。歌い始めの声が震えそうになるのをぐっと堪えて歌い切った。安達さんにマイクを渡していると、立川くんから拍手が起こった。

「すげえじゃん、レイニー。歌、上手いんだな」

「そ、そうかな?」

 謙遜とかではなく、自分の歌の巧拙なんて分からない。とりあえず形式的に礼を言っておく。問題なければ、それでいい。僕が歌ったせいで場が白けるなんてことはあってはならない。

「でしょう?でも謙遜してさ、誘ってもなかなか来てくれないんだよ」

 文乃が不満を漏らす。まだ怒っているのかもしれない。

「謙遜とかじゃないんだけど…」

 僕は髪の毛をくしゃりと掴み、控えめな声で、笑いながら言った。

「いや、でもほんと上手いと思うぞ。今度からレイニーも誘わないとな」

 僕は曖昧に頷いた。それは困る、とは言えないし、たとえ言えたとしても、それは過剰な言い方なのだと知っていた。どっちつかずで、ふわふわと不器用に、生きていかなければならない。やっぱり難儀な性格だ。

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