第6話

 たぶん僕は、許されているという状況に憧れている。いつだって、何かに責められている気がしてならないのだ。傍からはまったく分からないような転び方をして、独りで泣いて、また起き上がるのが億劫になる。

「よー、レイニー。飯、行こうぜ」

 だから、立川くんのような人間は、ただただ僕を萎縮させる。彼の一挙手一投足が、目に見えない膜となって、僕に圧力を与える。僕は堪らなくなって、けれど抜け出すことはできずに、愚直に、ひたすらもがく。それは出来損なった笑顔として外に現れる。いつだってそんなことを繰り返している。

「うん、行こう」

 せめて人間嫌いであれば、僕はもう少し救われたのかもしれない。残念なことに、僕は人を嫌いになれなかった。警戒して、自分の定める距離を保とうとするが、決して、徒に突き放したいわけではなかった。

 上手くやれないのだ。僕は今日もレイニーだ。

 僕らは並んで廊下を歩く。両手をポケットに突っ込んでいるから、背の高い彼は余計に高圧的にみえる。

「あのさ、立川くん」

「ん?」

 要らぬ質問だと分かっていた。下手に口にすれば、どんなしっぺ返しが待っているのか分からないのだ。それでも、僕はいい加減に、訊ねずにはいられなかった。

「どうして、僕みたいなのに話しかけてくれるの?」

「どうしてって、そりゃあ、お前が面白そうだからだよ」

 彼は前を向いたままで答えた。表情はちっとも変わらなかった。その声の調子も、呆れるほどいつも通りだった。相手を傷つけるつもりがまったく感じられない。はっきり聞こえて、言葉の一つ一つも荒いのに、何故か、やさしく空気に溶けてしまうような声。

 彼の返答が極めてシンプルだったことに驚き、僕は何と答えていいのか分からなくなる。彼はしばらく黙ったままだったが、僕が黙り込んだことを不審に思ったのか、こちらを向いて眉根を寄せた。

「どうしたんだ?急に」

 それで、僕もようやく正気を取り戻した。

「あ、いや。単純に気になってさ。びっくりした。そんなこと言われたの、初めてだから」

「へえ、そうなのか。みんな、見る目ねえな」

 彼はニカッと笑う。どんな表情だって彼を通せば爽やかな空気に変わる。僕はふいと目を逸らして、前を見た。

「…ありがとう」

 怖い。なによりもまず、それを一番に感じる。呆れたことに。

 ついで、やはり少しだけ嬉しい。そりゃあそうだ。僕だって人間だもの。


 食堂に着いて食べ物を手に入れると、僕はすぐに文乃を探した。彼女はいつも通り、隅っこの席に座っていた。僕らは特別、示し合わせているわけではない。自然な流れで、ここで落ち合う。

「よ、木立」

「はろー」

 こういう自然な発言が、きっと僕にはできていない。きちんと話せているようにみえても、何かが違っているように感じる。僕はまったく間違えているのだという感覚に囚われている。いつだって。

 僕は文乃の正面に座る。彼は僕に並んだ。

「木立はさ、レイニーと付き合ったりしねえの?」

 珍しく文乃が動揺した。水を吹き出しそうになりながら、立川くんを睨む。

「いや、悪い。レイニーからは幼なじみだって聞いたけどよ。お前らの様子見てたら、信じられなくてさ」

「…ただの幼なじみです」

 文乃は頭の方にアクセントをおいて言った。立川くんは否定とも肯定ともつかない声をあげると、腕を組んで僕らを見比べた。文乃はいまだに立川くんを睨んでいる。

「…へえー、そうか。なるほどなあ」

 彼はそれだけ言うと、彼はコンビニで買ってきたらしいサンドイッチをかじった。僕もうどんを持ち上げる。

「…立川くん」

 文乃がちいさな声で呼んだ。なんだか照れているみたいだった。

「立川でいいぜ。レイニーもな」

「じゃあ立川…なんか呼びにくいなあ」

「そうか?まあどっちでもいいんだけど」

「名前で呼んでいい?」

「ああ、もちろんだ」

「じゃあ、悠人」

 立川くんはサンドイッチにかみついて、軽く顎を引いてみせた。

「お節介は要らないからね!」

 文乃は人差し指を立てて言った。全然意味がわからないが、どうやら立川くんには伝わったらしい。

「おう。応援してるぞ」

 こちらは親指を立ててみせた。文乃はえも言われぬ表情を浮かべて、それから俯き、食事に戻った。頭上をクエスチョンマークが飛び交う僕は、とりあえず今は気にしないことにして、うどんを啜った。ぼんやりしていたら、ちらと目をあげた文乃と目が合う。彼女は一秒と無く、そっぽを向いてしまった。それで僕は混乱し、とりあえずいつも通りの笑みを浮かべておいた。僕にできる唯一の自己防衛手段だ。

 しばらく食事を続けていると、安達さんがやってきた。コンコンと机を叩き、文乃の隣を指さして、首を三十度くらいに傾けてみせる。文乃は笑って、ただ頷いた。安達さんは無表情なまま、文乃の隣に座った。

「よう、安達」

 僕も立川くんに便乗して、似たような言葉を投げかけた。彼女はまた、こくりと頷いて、持っていた青い紙パックにストローを突き刺した。ミルクティーだった。なんだか気が合いそうだな、なんて呑気に思ったりした。

「よかったじゃん、文乃。仲良くなれてるみたいでさ」

 安達さんがこんなふうに、自分から意思表示をしているところなんて初めて見た。彼女はほとんど喋らない。それこそ授業中に仕方なく、といった時くらいしか話さない。だからこれは、珍しいことなのだと思う。

「そうなの。やっと、心を開いてくれて」

「文乃がこじ開けたんでしょう?」

「押してだめなら押してみるしかないでしょ」

「お前らほんとに仲良いのな」

 文乃はとんでもない暴論を展開しようとする。隣で聞いていた、らしい彼女は、ほんの少し首を傾けて、でも少しだけ楽しそうに、口元を緩めた。それはほとんど気づかれない変化だ。僕が気づいたのは、たまたまその変化の過程を目の当たりにしたからだ。表情はほとんど変化していないけれど、彼女は今、笑っているのだと分かった。

 もしかすると安達さんは、僕が思っていたよりもずっと、普通の女の子なのかもしれないな、なんて分かったように内心で呟いて、嫌になる。お前に何が分かるんだ。

 ともあれ、僕らは四人で、和気あいあいと昼食を楽しんだ。文乃と二人きりの時のような安心感はないけれど、これはこれで楽しんでいる僕がいた。

 こんな性格だから、余計に苦しむのだろうけれど。


「わーい、久々のレイニーの部屋だあ」

 文乃は僕の部屋に入るなり、ベッドに飛び込んだ。うつ伏せの状態でもぞもぞと身体を動かし、やがて満足したのか、今度は仰向けになった。捲れたスカートの端から、白い太腿が無防備に覗いている。僕はなんとなく目を逸らして、露骨にため息を吐く。

「制服、シワになっても知らないよ?」

「それは困る」

 そう言いつつも、文乃は起き上がらなかった。僕は彼女の隣に腰掛け、枕元から本を取り上げた。

「この女の人は、幸せだったのかな」

 独り言のつもりで呟いてみた。その声は思いのほか大きくなってしまって、勝手に焦った。

「『君へ』か。どうなんだろうね。結ばれたんだから幸せだったんだろうけど、最後がね」

「うん。僕も、未だによくわからない」

 僕は読むでもなく、ページをパラパラと繰ってみる。外はやっぱり雨だった。ほんの小雨だ。そろそろ、雨の季節も終わる。暑い夏が、やって来ようとしていた。

「ねえ、レイニーにとって、幸せって何?」

 文乃の唐突な質問に驚き、すこし考えてみる。幸せ。僕にとっての幸せ。なんだろう。ふっと、一つのイメージが浮かび上がってきて、僕はそれを言葉にしてみる。

「ベッドの上で、ぼーっとしていられたら、それは幸せかもしれない」

「…それだけでいいの?」

 他に、何が必要だと言うのだろう。などというのは愚問だ。普通ではない。僕は、生まれてこの方、ずっとこんな調子だ。生きる意志というか、希望というか、そんなものが弱すぎるのだ。大きな幸せなんて要らないから、その代わりに、僕の人生を真っ平らにしてほしい。見晴らしの良い岡もなければ、深い谷もない。そんな人生が欲しい。

 早い話、死ぬしかないのだろう。僕のような人間は、放っておいても、どこかでころっと死んでしまうのかもしれない。いずれ、呼吸さえも煩わしく思えてきた頃に、不意に。なんだか、そんなものを待っているような気がする。

「…いいんだ。僕は、そんなふうになりたい」

「じゃあ、さ。私が居なくても、平気?」

 文乃が居なければ。これは既に考えたことだった。

「文乃が居なければ、僕はとっくに死んでいるかもしれない。だから、平気じゃない」

 これは本音だ。文乃は僕の背中を叩き、弾んだ声を出す。

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

「文乃は、どうなの?幸せって、なんだと思う?」

 文乃はしばらく黙った。僕は本の表紙をじっと眺めながら、彼女の答を待った。やがて彼女は、小さく、少し掠れた声で呟いた。

「私は、好きな人と居られたら、それでいい」

「好きな人?文乃、好きな人がいるの?」

「…忘れて。あーあ、レイニーのせいで、一生幸せになれないかも」

 なんでそうなる、なんて訊いたら怒られそうな気がしたので、黙っていた。彼女は時々、よく分からないことを言う。僕のことが嫌いなんだろうか。だとしたら、それなりにショックだ。文乃のことだけは、かなり信用しているから。

 文乃は上半身を起こすと、僕に問う。

「あのさ、レイニー。気のせいならいいんだけどさ。悠人のこと、怖がってない?」

「…鋭いねえ」

 彼女はベッドから脚を下ろし、僕と並んで座った。

 怖がっている。たぶんそれは正しい表現だ。僕は立川くんのことが嫌いなわけではない。ただ、怖いのだ。別に、彼に限った話ではないけれど。僕は不必要に人を警戒する。いや、考えてみればそれも違うのかもしれない。警戒するというよりは、自分に自信が無いのだ。上手く振る舞えている気がしなくて、どこか間違っているような気がして。

 だから、遅れているような気がする。文乃や立川くんは、僕からはずっと大人にみえる。

「幼なじみだからね。でも、たぶんあの子は、悪い子じゃないよ?」

「分かってるんだ。立川くんが悪いわけじゃないよ。僕がいけないんだ」

 僕は斜め上を軽く仰いで、呟くようにして答えた。

「…私は、レイニーの味方だからね。それは、忘れないで」

 たぶん、彼女は僕が胸の内に卑屈な何かを抱えていることも分かっていて。その具体的な形までは分からないのかもしれないが、少なくとも、彼女は自身の分かる範囲で、僕に寄り添おうとしてくれているのだろう。やはり、文乃はやさしい。

「…ありがとう」

 僕は素直に、歪みのないように気をつけて告げた。

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