第12話

 毎年、この時期になると気分が沈んでしまっていけない。僕は父の運転する古い軽自動車に揺られながら、窓の外を眺めていた。家を出てから三十分ほど経つが、会話はない。どちらも、話し出すことを恐れているみたいだった。下手なことを言うと、取り返しがつかなくなりそうで。

 母の墓は、彼女の故郷にある。田舎の町外れの、滅多に人の通らないような、静かな場所。そこに、母は眠っている。舗装された道は所々ひび割れて、名前も分からないような雑草が飛び出している。近くの雑木林で、蝉がやかましく鳴いていた。


 僕らは墓石に水をかけたり、花を供えたりした。その間も、僕らは何も話さなかった。神聖な儀式を慎重に行うように、僕らは粛々と、作業を進めた。先に父が祈りを済ませ、まもなく、僕と交代した。一つも変わらない。母が死んだ翌年から、ずっと行われてきた儀式だ。

 僕は両手を合わせ、母に祈りを捧げる。もう、どこにもいない彼女に。

 立ち上がると、軽く目眩を起こした。ふらついた僕を見て、父が心配してくれた。僕は平気だと答えてから、ちいさく空を仰いだ。夏空は憎いほど青い。照りつける日差しの中で、周囲の景色は淡く滲む。輪郭のはっきりしない何かに取り囲まれたような気がして、僕はまた目眩を感じた。

「…帰ろうか」

 父の声に頷き、僕らは並んで歩き出した。

「なあ、凛」

「なに?」

 僕は前を向いたままで返事をする。なんとなく、父が言うことは予想できていた。

「その、友達とは、上手くやれてるか?」

「…うん。大丈夫だよ」

 表面的には、思っていたのと違う質問だったが、その裏に隠された意図は、僕の予想した通りのものだろう。

 母さん。

 僕は声に出さずに呟いた。


 文乃はワンピースの裾をぱたぱたと動かしながら、僕を見上げた。生ぬるい風が部屋に吹き込んでくる。冷房を使いたいところだが、我が家では夜しか使わないルールだった。

 僕は文乃の隣に腰掛けて、俯いた。

「やっぱり、気分が落ち込んじゃっていけないね」

「…うん」

 文乃は必要以上に話そうとしなかった。僕にとってはありがたいことだ。いつだって、文乃は僕を想ってくれているのだろう。僕は、どうだろうか。

「…ごめん、湿っぽい話して」

「んーん。大切なことだから。でも、楽しいことも大事だよね!」

 文乃は僕のほうを向いて、やわらかく笑った。気取っていない笑顔。単純に正しくて、美しい。僕も、こんなふうに笑えたらな、と思う。

「夏祭りに行きましょう」

「いいね。久しぶりだから楽しみだよ」

「でしょでしょ。あ、えっと、あと、お願いがあるんだけど」

 文乃はそこで言葉を切って、僕から視線を外して、遠くを見ながら続けた。

「…今回は、二人で行きたいな」

「なんだ、そんなことか。いいよ」

 文乃は頬を緩め、僕に肩をぶつけた。そのくらいのことは、遠慮せずに言ってほしい。

「ところで」

「なに?」

「夏休みはじめ、梨子と二人で出かけたんだって?」

 明らかに声のトーンが変わった。怒っている。

「なんか、知らないうちに仲良くなってると思ったら」

「そ、そうだね。たしかに、二人で遊んだよ」

 文乃は大袈裟にため息を吐いて、僕を睨んだ。彼女の感情を分かりたくなくて、僕は笑いながら首を傾げた。

「…ねえ、レイニーはさ、私のこと、どう思ってるわけ?」

「…親友、かな」

 それは嘘ではない。彼女は僕の大切な友人だ。ついこの前までは、唯一無二の友人だった。文乃は表情を変えず、続けて問う。

「レイニーにとって、私は特別?」

 特別の意味が、よく分からない。けれど、文乃の存在が僕の中で特異なものであることは間違いない。

「うん。僕が一番信用してる、一番仲の良い友達。充分特別でしょ?」

 文乃は表情をころりと変えて、笑った。そのまま前を向く。その横顔がなんだか哀しげに映ったのは、僕の錯覚だろうか。そう思いたい。

「なら、いいや」


 待ち合わせの時刻になって、僕は家を出た。ちょうど、文乃が向こうから歩いてきていた。文乃は浴衣を着ない。動きづらいから、だそうだ。普段から女の子らしさを気にしている割には、そこは拘らないらしい。いつも通りの服装に、僕は思わず苦笑した。

 夕空が、西へ陽を落としている。その淡いオレンジ色の光を浴びて、辺りは普段と違った雰囲気に包まれていた。色というか、匂いというか、とにかく、何かが違っている。お祭りの夕方はいつもこんなふうだ。

「やあ」

「おまたせ。じゃ、行こ」

 僕らは並んで歩き出した。目的地は神社だ。毎年、それなりに多くの人が訪れる。今年も、同じ方向へ向かう人々がちらほらと見られる。僕らはゆったりとしたペースで、手が辛うじて触れ合わない距離を保つ。

 微かに、慣れない香りを感じて、僕は口をひらいた。

「文乃、シャンプー変えた?」

「えっ、分かる?」

 僕は黙って頷いた。まるで変人みたいだが、僕らはずっと一緒に過ごしてきたのだ。彼女の匂いくらいは、体が覚えている。

「そうなんだ。昨日から変えたんだけど、よく気づいたね」

「永い付き合いだからね」

 僕は前に向き直って、照れ隠しに笑ってみた。言っておいて恥ずかしくなるなんて、なんて間抜けなことだろう。僕は話題を変えたくて、頭へ手を遣った。

「やっぱりレイニーは、ずるいなあ」

 しかしその企みは、文乃の呟きによって阻まれる。驚いて彼女のほうを向くと、彼女もこちらを見ていた。頬を紅く染め、少しだけ潤んだ瞳でこちらを見つめている。

「ずるい?」

「…んーん。なんでもない」

 その表情の意味を、文乃の言葉に込められた熱の意図を、最近になってようやく理解し始めた。それは僕の思い上がりなのかもしれないが、それにしては余りにも傍証が多すぎる。彼女は幾度となく、そういった表情を見せているのだ。むしろ、今までまったく考えてもみなかった自分が恐ろしい。

 見たくなかった?

 なんだか、最近の僕はへんだ。これまで考えもしなかったことを急に理解したり、何か、形のないものに必死で縋ろうとしたり。

 あれから僕は、五通の手紙をアヤノに送った。内容はさして代わり映えのしないものだった。彼女はやっぱり、僕へラブレターみたいなものを寄越した。僕は話を合わせて、耳障りの良いようなことばかりを書いた。何をしているのだろうと、自分でも思った。


 まもなく、神社が見えてきた。参道の脇にはいくつもの屋台が並び、多くの人で賑わっていた。ここに祀られている神様は、基本的には恋の神様なんだそうだが、すぐ側の小さな社には学問の神様が居るらしい。学生カップルを呼び込むためだけに存在してるのではないか、なんて思うのは罰当たりなことなんだろうか。違うと信じたい。

「お腹空いたー、なんか食べよ?」

「ああ、うん」

 ぼんやりしていた僕は、文乃の声にハッとする。彼女は近くにあったたこ焼きに目をつけたらしい。二、三人の後ろに並んで順番を待っていた。僕はその間に、隣で売っていたりんご飴を二つ買った。

 文乃が買い物を済ませて戻ってくると、僕らは神社の裏側を目指した。ここは人が多いが、向こうまで行けばかなりマシになる。裏手の河川敷で上げられる花火が見えるというのも、大きな魅力だ。あまり知られていないが、古びたベンチがぽつぽつと置いてあって、多少、蚊が多い代わりに快適に祭りの雰囲気を楽しむことができる。

 しかし、そこに至るまでの道のりは過酷だった。ちょうど混雑する時間で、僕らは人混みをかき分けながら、少しずつ進んで行った。文乃は僕を盾にして後ろを歩いていた。それでも心配になった僕は、彼女の手を取った。

「はぐれちゃまずいから」

 彼女は目を見開いた。しかし、すぐに笑顔に戻る。僕は毒を食らった気分で、元の姿勢に戻った。右手にはしっかりと力を込めていた。彼女の細い指が握り返す。

「やっと抜けたあ」

 ずいぶん長くかかって、僕らはようやく本殿へたどり着いた。未舗装の道を通って裏手へまわる。湿った土が靴裏を通して柔らかい。腐った落ち葉の匂いは独特だ。見上げると、樹齢の想像できない杉の木が、連なって立ち尽くしていた。

「レイニー、手、ありがとね」

 僕らの片手は繋がったままだった。気づいて、離そうとしたが、文乃の手がそれを許さない。

「文乃?」

「ごめん、もうちょっとだけ、このままで…」

 彼女は目を合わせずに言った。やはり、僕の思い上がりではないのだろう。僕は声に出さずに了承すると、手をつないだままでベンチへ向かった。古びた木製のそれは、ところどころ苔が産している。肘掛は金属が剥き出しになっていて、それもとうに錆びきっている。なんだか侘しい気分になるが、いかにも夏らしい情緒を感じる。

 僕らは並んで腰掛けた。花火が上がるのはもう少しあとだ。僕はビニール袋からりんご飴を一つ出して、文乃に渡した。彼女は笑って受け取ると、それを齧りとる。僕も同じようにしてみる。この空気にこそ、祭りの価値があるのだろう。楽しさと寂しさが混ざりあった、なんとも表現し難い空気だ。

 文乃はりんご飴を片手にしても、手を放してくれなかった。それは、たこ焼きに手をつけ始めても変わらなかった。片手だけで器用に蓋を開けて、爪楊枝でたこ焼きを持ち上げる。

「あーん」

 僕は素直に口をあけて、たこ焼きを頬張った。ちょっと冷めてしまっていたが、美味しい。こういうことに抵抗はない。彼女も同じように、たこ焼きを口に放り込んだ。猫舌でも受け入れられる温度だったようだ。

「おいしー。やっぱこれだよねえ」

 僕は曖昧に頷いて、しきりにつないだ手のことを気にしていた。これ以上触れているのは、なんだかひどく不誠実であるような気がしてならなかった。

「ねえ、レイニー」

「なに?」

「気づいてるんでしょ?」

 彼女は声のトーンを落として、静かに言った。ゆっくりとこちらを向いた彼女の頬は、やはり紅い。感情が素直に顔に出るのも、昔から変わらない。

「…僕の思い上がりじゃない、のかな?」

「違うよ」

 はっきりと、強い口調で否定される。

「…なんで、分かったの?僕が、気づいたって」

「ちょっとしたことだけどね。態度が変わったから」

 そんなつもりは全くなかったのだけれど。やはり、僕は上手くやれないらしい。そんな事を、隠すこともできない。

「それで、レイニーは、私のこと、どう思ってるの?…お願い。もう、はぐらかさないで」

 僕は文乃のことをどう思っているのだろう。友達ではなく、一人の女の子として。僕だって年頃の少年だから、そういうことに興味がないわけでもない。ただ、僕には縁遠いものだとばかり思っていた。

 文乃の恋人としての僕を、全然想像できない。そもそも、僕は、いや違う。何か、踏むべき正しい段階を飛ばしいている。何かが抜け落ちている。僕はまだ、そこに至るべきではないのだ。それだけは、はっきりと分かった。

「文乃のことを、可愛いと思うこともあるし、もちろん、一人の人間としては大好きだよ。でも、女の子として、とか、よく分からないんだ。そもそも僕は、そんな事を語る資格をもっていないんじゃないかな」

 文乃は眉根を寄せて不満を表した。いつもならば困惑し、笑顔をつくり、下手をすればてんてこ舞いする羽目になるのだが、今度は違った。僕は落ち着いて、彼女の瞳を覗き込んだ。

「だから、えっと。僕はまだ、返事ができない。好きか嫌いかなんて言われても、困るんだ」

「そんな…」

 それきり、彼女は黙り込んだ。僕も何も言わなかった。これ以上言えることが無かった。夜風が頬を撫でていく。まもなく、花火が上がる頃だ。

 かさりと背後で音がして、僕はそちらを振り返った。しかしそこには深い闇があるだけで、木立のシルエットの他には何も見えなかった。

「…じゃあ、私は一体、いつまで待てばいいの?」

 見ると、文乃は目に涙を溜めていた。彼女の泣き顔は、あまり見た事がない。いつもからりと笑っているから。僕は目を逸らして、ただ「ごめん」と謝った。

「やだ。私、ずっと待ってたんだよ?レイニーが女の子として見てくれる日を、ずっと」

「でも、今は、まだ」

 彼女は俯いて、何かを考えているらしかった。やがて顔をあげると、笑いかける。それはひどくぎこちない、まるで僕みたいな笑い方だった。

「分かった。私、諦めない。レイニーを本能から洗脳してやる。私のことしか考えられなくなるくらい。そうやって、夢中になってくれるまで…」

 文乃の声は震えていて、とうとう、涙がこぼれ出す。月明かりに涙が光る。彼女は静かに涙を流しながら、僕に抱きついてきた。その体は温かくて、ひどく小さかった。僕は彼女の細い肩を抱き、髪を梳いた。相変わらず綺麗な髪だ。

 どれくらい経っただろうか。花火が上がり始めても、彼女は僕の胸に顔を埋めたままだった。とうとう花火も終わってしまって、さらにしばらく経って、ようやく僕から離れる。

「もう、ちょっとはドキドキしてよ」

 もう泣いていなかった。僕は立ち上がって、体を伸ばした。彼女も釣られたように立ち上がる。

「レイニー。私、諦めないからね」

 そして、再度高らかに宣言した。

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