第13話
僕の内面に起こった変化が、アヤノの手紙に依るものだとするならば、僕は一体、どんなふうに変わってしまったのだろう。母のことを考える時間が増えた一方で、僕は文乃たちのことも、同じくらいたくさん考えている。特に文乃は、あんなことがあったから、余計に。
「好きか嫌いか」
独り呟いてみて、ふふ、と笑う。全然分からない。何かが違う。間違えている。
あれから、あの奇妙な少年を見かけることはなかった。それはある意味で幸福なことだったが、却って僕の神経を昂らせていた。見えない何かへの期待を大きくする。
今朝も、本を開いて手紙の有無を確認した。彼女からの手紙は、二、三日に一度のペースで送られてくる。文章の長さも、使われている紙の質も、全く変わらない。
しかし、今日の手紙の内容に、僕は心底驚いていた。というか、背中に冷たいものを感じた。
『レイニー。久しぶりに、あなたの名前を呼んでみました。ごめんなさい、手紙をやり取りするのが楽しくて、つい忘れていました。
あなたが天国へ行ってから、もう四年が経とうとしています。私は、いつまで経ってもあなたのことを忘れられません。私はあなたが大好きだったから。
それはとっても苦しいこと。私だって、できることなら忘れてしまいたいの。でも、それも上手くいかない。へんな感じ。煮え切らないんです。どちらにも、転ぶことができない。
ごめんなさい。なんだか悲しくなっちゃった。そっちのことも、詳しく教えてほしいな。手紙、待ってます』
アヤノは別れた恋人なんかに手紙を出していたわけではないのだ。宛先は、初めから僕で合っていた。ただし、アヤノは天国に行った僕へ、手紙を出した。
これまでの優しい雰囲気が一変、冷たく、恐ろしい気配を伴って、僕に降りかかった。死んだ僕?全く理解できない。僕はとりあえず、こうして生きている。
まるで死刑宣告をされた気分だった。一体誰が、何の目的でこんなことをしているのか。これまでの自分の軽率さは棚に上げて、僕はアヤノへの不信感を募らせていた。
しばらく考えて机に向かった。ペンを走らせる。これまでの手紙とは違って、ちっとも気取っていない、自分自身の日本語を綴る。黒いインクが十行ほどに達した時、僕はペンを放り出して、紙をくしゃくしゃに丸めた。それから、新しい紙を一枚、そこへたった一行を書き込む。
『あなたは誰ですか?』
今日は、誰にも会うつもりはなかった。夏休みも残り一週間となり、また煩わしい日常が始まることへの倦怠感で一杯になる。一度、ネガティブな感情を胸に持つと、それ以降は連鎖反応のように、ひたすら、意識は内側へ向かって進んでいく。人間の不幸はこんなふうに連鎖していくのだろう。
今、僕は非常に混乱している。何に?自分自身の感情に。
一昨日認めた手紙の返事はまだ来ない。あの不思議なポストマンはあまり見たくないけれど、今は返事が欲しかった。単純に、気になっていた。
同時に、彼女の手紙は僕にある思考の種を与えた。僕が死んでいるとして。まったく意味をなさないような仮定だが、あれ以来、僕は取り憑かれたように自分の命について考え続けている。抗うことはできない。食事をしていても、トイレに入っていても、ベッドに潜り込んでも、それは絶えず、僕の意識の中に現れ続ける。
何故、生きているのだろう。そんなことは、考えたって仕方の無いことだ。分かっている。
僕は自殺志願者だったのだろうか。そんなつもりは毛頭なかったけれど、いま、自分の心理状況を分析すれば、なんだかそんな気がしてくるから不思議だ。
母が死んでから、なのかどうか、僕も分からない。ただ、僕はずっと、曖昧に哀しいのである。あるいは寂しいのかもしれない。生まれもった性格は、なかなか変わるものじゃない。
僕は間違いなく状況に恵まれている。僕を好きだと言ってくれる優しい女の子が居て、こんな僕もきちんと受け止めてくれそうな友達が、まあたった二人だけど確かに居て、父はいつだって僕を愛してくれる。足りないものなど何も無いのだ。
少し前、僕は自分でも驚くべき発言をした。文乃に対して、まったく無意識に、思ってもいなかったことを言った。一人にしないで、なんて、まるで冗談だ。いつだって一人になりたがる、もとい、誰かと居られないような人間が、そんな事を言うなんて。
僕は壊れ始めている。自覚はあった。これまでの静かな内面は、僕が奥底に秘めてきた何かを無視することによって与えられていたものだった。
不意にスマートフォンが鳴って、僕は考えることをやめる。文乃からだった。
「あ、レイニー。急にごめんね」
「ううん、いいよ。どうしたの?」
「ちょっと、声が聞きたくなって。今から行っちゃダメかな?」
「いいよ。ちょうど退屈してたところだ」
彼女は弾んだ声で「ありがと」と言うと、電話を切った。僕はスマートフォンをベッドに投げ置き、立ち上がった。文乃に対して気を遣う必要はほとんど無いものの、寝癖くらいは直しておこうと思った。
まもなく、文乃がやってきた。そういえば、彼女はいつだってきちんとした格好をしている。僕と二人でいるときでさえ、身だしなみはしっかりしていたように思う。
文乃は僕のベッドに腰掛ける。やることが無いのはいつもの事だ。僕らは用がなくても頻繁に会っていた。退屈な時間を、ただ二人で過ごすということを、幾度となく繰り返してきた。
「ところで、私への返事は決まった?」
そんな強引なやり方で、重い質問を投げかける。僕は口を閉ざして、窓を開けた。せめて扇風機が欲しいところだけれど、子供の頃からこの生活に慣れているから、いまさら買いに行く方が面倒だった。
「…考えたんだ。これから、文乃とどうやって向き合っていくべきなのか」
僕は文乃のほうへ向き直り、彼女の胸元辺りをぼんやり眺めて、続ける。顔なんて見ていられない。
「文乃の気持ちに気づいた以上、これまで通りに付き合っていくのは難しいと思う。かと言って、僕に恋人らしいことができるかと言われたら、それも疑問だ。でも、このままじゃいけない気がする。僕は、何かを変えなくてはならない」
文乃は僕の顔をじっと見つめ、というのは、そうだと分かるくらいの熱い視線を顔面に感じていて、そして静かだった。僕はてんてこ舞いを始めたい気分だったが、それはぐっと堪えた。驚くべきことに、僕は堪えることができるようになっていた。
「それで、ね。よかったら、文乃にリードしてもらいたいんだ。確かに考えてみれば、僕は君のことが好きなのかもしれない。だから…」
そこまで言っておいて、後を続けられなくなった。文乃は何も言わなかった。夏の淀んだ空気が、目に見えない波みたいになって、僕らの間に充満しているように感じられた。
結局のところ、それは意志薄弱の為せる業なのだと思う。僕の頭の中は混沌としていて、どこか自暴自棄になっていた、いや、それは元からなのかもしれない。とにかく、僕は生きる意志さえも、ほとんど放棄したがっているようだった。
感覚的には非常に永い時間が流れた。たぶん現実では二分に満たない。恐ろしく永くて、空虚な沈黙だった。
「…それは、レイニーの本心なの?」
文乃はいつになく真剣な声色で訊ねた。僕は静かに頷く。途端に、彼女はパッと面を輝かせた。やはり頬を紅潮させて。
「ありがとう。嬉しいよ」
僕は曖昧に笑って、彼女の頭の上辺りを見た。壁についたシミが、なんだかとても気になっていた。いつごろ出来たものなんだろう、あれは。
「ねえ、もっとこっちに来て」
文乃がベッドをたたき、座るように促す。僕は素直に従った。スプリングが軋んで、ひどく惨めな音をたてる。
文乃は僕の肩に体重を預けてきた。これまでにも何度かあったことだ。なのに、僕はひどく息苦しくなって、わっと叫び出したくなる。いま、僕の存在は罪そのものだ。嘘を吐いている。いや、嘘ではないんだ。本当なんだ。文乃は可愛いし、信頼している。恋人になってもらうには、これ以上ないほどの人物だ。両想いならば、なおさら問題は無い。無い、はずなのだ。
僕は気取って、文乃の肩を抱いてみた。その細い肩がぴくりと揺れるのが、異常なくらいはっきりと分かった。僕は再び思考を放棄する。このまま、全てを文乃に委ねよう。彼女が望む、僕になろう。僕には取り柄が無いんだから、せめて、一人の女の子のことくらいは、幸せにしてあげよう。
ふふ。
「なあに?」
「ん?なんでもないよ。これからよろしく」
文乃は嬉しそうに笑ったままで、大きく頷いた。
初めてのデートは非常に退屈で、凡庸なものだった。僕らは映画を観に行って、食事をして、二人で話し込んで、日が暮れる前に帰った。文乃はとても喜んでくれた。これまで以上に、僕にくっついて歩いた。彼女がはしゃいだ声をあげるたびに、僕は胸の奥を釘か何かで貫かれているように感じて、それを忘れようと、懸命に笑った。存外と、それは難しくなかった。
どこかへ、落ちていくのだ。そんな予感があった。僕は、このままではいけない。本当は、もっと大切なことを考えるべきなのだ。分かっている。
けれども、僕はどうしてもここから抜け出そうという気になれない。こうして、文乃との優しくて甘い日常に浸って、抜け出せなくなって、それでいいと思っている。我ながら呆れるくらいに、僕は何も考えていなかった。
その夜、アヤノからの手紙が返ってきた。彼女は自分の正体について、ずいぶん丁寧に語ってくれた。きっと、一つの嘘も吐いていないのだろう。彼女の誠実さが文面から伝わってくるようだった。
思い出した。黒猫。僕は、猫を助けたことがある。中学生の頃だ。河原に捨てられているのを、僕が見つけて、文乃と相談した。どちらの家も飼うのは難しいという結論に至って、それでも猫は助けたくて、僕らはそれぞれの親に相談することにした。一度帰って、とりあえず、また河原へ向かおう。そう考え、僕らは一度、家に帰った。そして、僕らがそこへ戻ってみると、猫は居なかった。ぽっかりと、もとから何も居なかったかのように。たぶん、目を離した隙にどこかへ歩いて行ってしまったのだろう。
平行世界という存在に思い至るまで、二時間ほどかかった。未だに、すっかり信じられたわけではない。ただ、もはやそう考える他ないのだ。これが誰かの悪戯でないとすれば、そうでなければ説明できない。
アヤノは、文乃だった。木立文乃。そして、彼女がレイニーと呼んだのは、他でもないこの僕、雨崎凛だった。僕らはやっぱり幼なじみで、ずっと仲良くやってきた、らしい。彼女は黒猫を河原で拾ったそうだ。僕らが猫を発見したのと、まったく同じ場所で。
つまり、僕らはそれぞれ独立した人間だけれども、同じような世界、どうやら時間の進み方までこちらと同じらしいが、そこで生活している。きっと、僕らは寸分違わぬ、同じ人間だ。遺伝子なんかを調べてみたら、きっと同一個体であることが証明されるだろう。そう思えるくらいに、アヤノは僕の知る文乃に似ていて、彼女が住む世界も、まるでこちらと同じだった。
たった一通の手紙から、ここまで考えるのは無駄なことだと思われるかもしれない。僕だってそう思う。だから、これは理屈ではないのだ。もっと本能的な何か。直截に、胸の内側に訴えかけてくるような何かによって、僕はこの非科学的現象を信じ切っていた。
僕はすぐさま返事を書いた。僕の正体、そして、平行世界の可能性。最後に、これまで嘘ばかり続けていたことを、真摯に謝った。
僕はハードカバーに手紙を挟み、パタンと閉じた。それから天井を見上げて、細く、長く息を吐く。
この世界と、アヤノの住む世界の、たった一つの違い。
それは、疾うに僕が死んでしまっているということだった。
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