第13話

 やけに永かった夏休みも終わり、二学期が始まった。すっかり青葉の茂った桜を、残暑が穿つらぬいている。やはり夏は苦手だ。責められているような気がする。それを夏の所為にするのも不誠実だろうか。

 ここのところ、僕の意識はずっと内側へ向かっている。文乃の隣に居ても、それは変わらなかった。怖いくらいの鮮明な浮遊感。現実は硝子一枚隔てた景色みたいに、僕の意識から遠ざかっていた。

 生きるとか死ぬとか、気づけばそんなことばかり考えるようになっていた。

 僕の意識はある意味でクリアになった。それは、これまで僕が現実を見ていなかったことに依るのだろう。今更に、僕は現実を見た。このままでは生きていけない。そう思った。

「うわー、ジリジリしてる。学校行くのもめんどくさいよね」

 文乃は右手を庇にしながら前を見ていた。僕もその視線を追って、日向に蜃気楼を発見する。今日も暑い。しかし、空の色は秋の気配を見せ始めている。真夏の淡さはどこかへ消え、寂しげな蒼色に近づいてきた。蝉が煩い。僕はなんとなく俯いて、白くて細い脚が目に入って、距離の近さを再確認する。もう、胸は痛まなかった。

「そうだね。なんにもやる気になれない」

 僕は俯いたままで答えた。


「よー、二人とも」

 上靴に履き替えていると、立川くんが現れた。夏の間に少しだけ日焼けしたようで、爽やかさに磨きがかかっている。僕らはそれぞれに挨拶を返しながら、教室へ向かった。

 始業式を終えて、いつもより丁寧な掃除をした後、僕らはすぐに開放された。授業が始まるのは明日からだ。

「おう、レイニー。飯食いに行こうぜ」

 放置されていた箒を片付けていたら、立川くんが話しかけてきた。僕は笑って頷いた。何も考えていなかった。特に予定もないし、構わないだろう。

「ん?なんか雰囲気変わったか?」

「そう?」

 僕は首を傾げながら、彼の隣に並ぶ。

「女子二人は?」

「先に出て待ってるってさ」

 立川くんは鞄を担ぐようにして持ち直した。

 靴を履き替えて歩いていくと、二人は校門のわき、木陰になった所で僕らを待っていた。こちらに気づくと、二人とも手を振ってくれた。僕は自然に振り返した。

 昼食は、学校の近くにあるファストフード店で摂ることにした。久しぶりのファストフードに胃が驚いているらしく、僕はあまり食べられなかった。最近、なんだか食欲がない。父に頼んで食事の量も減らしてもらっている。それでも、空腹を感じることは珍しい。

「レイニーくん、体調悪いの?」

 正面に座っていた梨子さんに訊ねられ、僕は曖昧に笑って誤魔化した。大丈夫、と言いたいところだったけれど、嘘くさくなりそうで止めた。事実、体調は悪くない。ただ、食事の量が少し減っただけで。

「私も心配だよ。最近、ちょっと痩せたでしょう?」

「そうかな?家で体重なんて測らないから」

 僕はへらへらと笑って、これ以上話が深刻にならないよう注意した。文乃に伝われば良いと思うけれど、どうやら難しいかもしれない。彼女は、僕が恋人になって以来、これまで以上に僕のことを気遣ってくれるようになった。僕に甘えてくるのと同じくらい、いや、それ以上に、僕を甘やかしてくれる。

「そう?ならいいけど…」

「ま、男子にだって調子出ねえ時があるんだよ。な、レイニー?」

 立川くんが出してくれた助け舟に全力で乗っかると、僕は薄くなった炭酸飲料を含んだ。冷たいばかりで、ちっとも味がしない。

「ところで…」

 立川くんが咳払いをして、低く言った。

「ん?」

「木立。お前、レイニーと付き合ってんだろ?」

 文乃が吹き出しそうになりながら、口元を手で覆った。梨子さんが身を乗り出して、僕を見つめる。

「えっ、そうなの?」

「まあ、うん」

 嘘を吐いても仕方ないだろう。それに、隠すようなことじゃない。

「悠人。なんで分かったの?」

 文乃が訊くと、立川くんはニヤリと笑う。

「勘だよ。レイニーの雰囲気が違ってたから。適当にカマかけてみたんだが、まさか図星とはな」

「あー、なんか腹立つ」

 文乃が立川くんを睨む。その隣で、何故か梨子さんは悲しげに目を伏せている。理由は、あまり考えたくない。と言うか、今は何も考えたくない。僕はふいと目を逸らして、窓の外を見遣った。

 すぐそこにあった植木に、蝶々が一匹、とまっている。羽をゆらゆらと動かしながら、まるで何かを待っているように、花も咲いていない緑の葉の上で、何が楽しいのだろうか、けれどもそれはひどく上機嫌な動きにみえた。その緩慢な動きを眺めながら、僕はぼんやりと、僕自身について考える。


 最近の僕は、これまでとは明らかに違っている。それはきっとアヤノの所為なんだろう。僕は、死を隣に感じるようになった。むしろこれまでは夢でも見ていたのではないかと思うくらいに、僕の意識は鮮明になっていた。何もかもから目を背けていたのだろう。二人の女の子からの好意も、立川くんの人間性も、母の死も、僕にはまるで見えていなかった。

 生と死は、対極に在るものではない。それは連続した二つの状態に過ぎない。僕は今、なんとか生きているものの、どこかで死んでいてもおかしくはなかった。そんな当たり前のことを、けれど僕は、アヤノと手紙をやり取りするなかで知った。そして、少し傲慢になった。

 傲慢、という表現が正しいのか否か、僕は知らない。ただ、目の前に広がる景色が、ひどく陳腐なものにみえた、それは確かだ。

 アヤノからの手紙で、この現象の真実が見えてきた。まず、平行世界は僕の妄想でも何でもなく、おそらく本当に存在する。それがどれだけ非科学的なものであっても、そうでなければ説明がつかないことが多すぎる。アヤノは、文乃以外には知り得ないような事をたくさん知っていた。父でもあんな手紙は書けないはずだ。相当に手の込んだ悪戯でないと、こんなことはありえない。そこまでして僕に悪戯を仕掛けたい人間も、とりあえず思いつかない。

 それに、超常現象なら目の前で起こっている。あの少年、消えては現れる手紙。ありえない事がいくらか起こっている。夢だと一言で片付けてしまうことは簡単だ。しかし、僕にはどうしてもそう思えなかった。

 平行世界の僕は、どうやら病気だったらしい。やはり母は死んでいて、僕とアヤノは幼なじみだった。母の体質が遺伝してしまったらしく、僕は難病を患っていた。激しい運動はできず、学校も休みがちだったらしい。そして中学二年の時、僕は死んだ。

 平行世界のアヤノも、僕に恋をした。そして、彼女が想いを伝えられないまま、僕は死んだ。彼女はひどく悲しんで、いつまでも僕のことを忘れられないでいる。いっときには本当に死んでやろうと思ったそうだが、あの黒猫に助けられたらしい。こちらの世界では、僕らが保護に失敗して、行方不明となった猫だ。僕のいない世界で、彼女は猫を拾って、共に生きてきた。

 ほんの少しのことだ。何かが狂えば、死んでいたのは僕の方だった。在り得た世界。それは、僕にはまったく影響しない。僕とアヤノをつなぐものは、あの不気味なポストマンと、短い手紙のみだ。それさえ無ければ、平行世界なんて無かったも同然だ。無視すればいい。きっと、多くの人がそう思うだろう。

 だから、僕がこんなふうになっているのは、きっと僕自身に問題があるからだ。何かが欠けていて、何かが間違えている。

 僕にとってトドメとなったのは、向こうの僕が、最期に遺した言葉だった。それは、決して他人事とは割り切れない重さをもって、僕の胸にいやな感触を残した。

『一か零か。それだけなんだよ。分かるかい?僕が死んでしまったら、この世界は無かったのと同じなんだ』

 いかにも僕が言いそうなことだ。けれど、とても切実だ。小さい頃から体が弱く、中学生にして死を迎えた少年が、最期に遺した言葉。最低だ。まるで救いがない。

 一か零か。まったく、その通りなのだと思った。


「ちょっと、レイニー?」

 僕は三人の話なんて上の空で、考え事をしていた。慌てて顔をあげると、三人ともが怪訝な表情を浮かべてこちらを見ていた。

「あ、ああ。ごめん、ちょっと、ぼうっとしてた」

 文乃は眉を曲げて、とても深刻な表情をみせる。僕は曖昧に笑ってみせたが、もう遅かった。誰も笑ってはくれなかった。これまでの僕であれば、てんてこ舞いを始めているところだろう。しかし、今の僕はどうだ?まったく、どうでもいいのだ。そんなことは気にならない。ただ、僕の実生活を破綻させてはならないという、ひどく常識的な防衛本能が、上っ面の笑顔とか、声色とか、そんなものをつくり出している。

「最近のレイニー、やっぱりへんだよ。なんか、こう、上手く言えないけどさ」

 立川くんまで、僕の顔を覗き込んでくる。

「たしかに、何か雰囲気変わったとは思ったが…レイニー、何かあったら言ってくれよ?できることなら力になるぜ」

 梨子さんのほうをちらと見ると、彼女はこくんと大きく頷いた。こんな時でも、真剣な顔で僕を案じてくれている。やはり彼女は、善人なのかもしれない。

「みんな、ありがとう。でも、大丈夫。ちょっと眠いだけだよ」

 僕は笑ったままでそう答えた。


 机に向かうと、アヤノへの手紙を書き始める。もう、自分を偽る必要もなく、僕はさっぱりとした気持ちで、ペンを走らせていた。手紙の最後に、ちょっとキザな質問を添えてみた。

『あなたは今、幸せですか?』

 果たして僕のいない世界で、彼女は何を思って生きているのか。それは、少し気になるところだった。悲しかった、というのは知っているし想像もできるが、僕の死から数年が経った今、どう感じているのか、それが知りたかった。

 手紙を書き終え、ハードカバーにそれを挟むと、僕はベッドに身を投げた。何もする気になれなかった。

 僕は恵まれている。向こうの僕は、母を亡くしたうえに、自分までもが病を患い、若くして死んだ。それに較べれば僕の人生なんて、まるで幸せなものなのかもしれない。今のところ死ぬ予定はないし、父も生きているし、文乃は僕を好きだと言ってくれる。最近は、話せる友達もできた。まったく、何の問題もない。静かで、普通の生活が、これからも僕を待っているのだろう。

 なのに何故、僕はこれほどまでに、死に惹かれているのだろうか?

 死にたいかと問われれば、否定したくなる、ような気がする。僕はまだ、死にたがってはいないように思う。と言うより、死という概念を、現実的なものとして、理解できていないように思う。ただ、その静けさに魅了されている。

 生まれながらに、死に親しい人間というのが、少なからずこの世には居るのだ。偶然、僕はそのうちの一人だったというだけで。もちろん、僕はそんなことを語れるほど世界を知っているわけでもないけれど。

 ただ、生と死は、連続した二つの状態だから。僕が今、生きているのも偶然で、向こうの僕が死んでしまったのもまた、偶然なんだろう。それはひどく曖昧なことに思われた。僕は何かを間違えている。人と並んでいると、罪悪に近いものを感じる。その感覚の原因は、きっとここにある。

 手のひらを掲げて、蛍光灯に透かして見る。もちろん、この程度の光源では透けることなく、僕の目には、ただ僕の右手が映っていた。このまま、僕はどこに行くのだろう。

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