第14話
一と零。在るか無いか。たぶん、生きていることと死んでいることの違いは、そこにしか見い出せない。
たとえば、僕が明日死んだとして。僕の不在を悲しんでくれる人は、少ないながらも居ると思う。少なくとも、父と文乃は悲しんでくれるだろう。だが、それだけの話だ。
それだけの話、なんて思うことがそもそも間違えている。それは分かっている。けれども、ああ、なんで僕は、こんなふうな思考から抜け出せずにいるのか。
「レイニー、今日空いてる?」
僕が箒を片付けていると、文乃がやってきた。彼女は必ず僕を待って、一緒に下校する。大抵、途中で二人とも合流して、少し無駄話をして。また文乃と二人で帰る、というのがいつもの事になっていた。
残暑も感じられなくなり、涼しい秋風が吹き始めたのは、およそ二週間ほど前の話だ。朝起きて、窓から見上げた空が可笑しいくらいに高かった。明らかに気温が変わってしまっていて、僕は独り笑った。
母が死んだのも、このくらいの時期だった。正確には十月の半ばだから、もう少しだけ先の話だけれど。母の命日となった日、僕は文乃と遊んでいた。二人で公園に居て、何をしていたのかは不思議なくらい思い出せないのだけれど、きっと子供らしい遊びをしていたのだと思う。二人きりだったのは憶えている。
そこへ父が、血相を変えて飛び込んできた。彼は乱暴に僕の名前を呼ぶと、文乃に一言だけ謝り、僕の手を引いて車に乗せた。それから、車内では全然話さず、僕はただ、未だ比較的新しかった軽自動車に揺られていた。窓の外を眺めていて、とても退屈だった。それも憶えている。
父に連れられ、三階へ上がり、母のいる病室へ向かった。何度か見舞いに来ていたから、いまどこへ向かっているのかは分かっていた。ただ、病院の薄暗さ、冷たい匂い、それから父のこわばった表情がただ恐ろしくて、不安だった。
病室へ向かうと、驚いたことに母は元気だった。子供ながらに母の状態が良くないことは理解していたので、きっとまずいことになったのだとばかり思っていた。僕は安心して、母に駆け寄った。母は柔らかな笑みとともに僕を眺めて、手を伸ばしてきた。僕は頭上に母の体温を感じながら、目を細めた。気味が悪いくらい、この場面は鮮明に憶えている。
それから、両親はよく分からない話をし始めた。母の体調について話しているのだと、それくらいは分かったけれど、詳しいことは理解できなかった。ただ、ひとまず元気そうな母の様子を見て、僕は安心しきっていた。
母は、その日の深夜、唐突に死んだ。あとから聞いた話によると発作を起こし、早急に治療が行われたものの、駄目だったそうだ。想定外の早さではあったものの、もう永くないことは分かっていたらしい。もちろん、父は教えてくれなかったけれど。
僕が母の死を知ったのは翌朝になってからだった。父が病院から連絡を受けた時には、母は死んでいた。きっと、父は僕を混乱させたくなくて、翌朝、死んだように静かなキッチンで、僕に母の死について聞かせた。僕は泣かなかった。泣けなかった。不謹慎かもしれないが、なんだか不思議な感じがした。これまでそこに在ったものが、ふわりと形もなく消え去ってしまうということを、生まれて初めて知った。あの感触こそ、僕を狂わせた最も大きな要素だったのかもしれない。
空は高くて蒼くて、冷たい秋風が通学路を吹き抜けていた。
「レイニー。明日、デートしよ」
今日は二人には会えず、淡々と家まで帰ってきた。文乃は横から僕の顔を覗き込んでいる。希望に満ちた瞳で。その幸せそうな顔を見ていると、僕はとてつもなく責められているような気がする。
「いいよ。どこ行く?」
僕は笑って答えた。彼女はやっぱり頬を緩めて、僕の手を取った。彼女の細い指が絡まっていくのを、いやに鮮明に感じていた。背中に冷たいものを感じる。
「明日はね、レイニーとご飯が食べたいな」
「ご飯?いっつもやってるよね?」
「いいじゃん、それでも」
デートなんて言うから、きっと何かしら特別なことをするものだと思っていた。だって、そんなことを言ったら、僕らは毎日デートしている。
「でもね、うちに来て欲しいの。私がご飯作るから」
それなら、たしかに新鮮だ。永い付き合いだが、文乃の手料理は数えるほどしか食べたことがない。僕は黙って頷いた。
「それで、よかったら泊まっていって」
少し面食らったのは、僕が恋人だということを、過剰に、しかもへんなふうに意識しているからだ。これは初めてではない。最近では無かったものの、互いの家に遊びに行き、そのまま泊まってしまうということは、意外とたくさんあった。さすがに布団は別だが、同じ部屋で眠った。そんなことを何度も繰り返しているのだから、いまさら気にする事は何もない。そう、言い聞かせる。
まずいことにならないと良いけれど。
「分かった。文乃がいいなら、そうさせてもらうよ」
文乃はさらに身を寄せた。ほとんど僕の腕を抱きしめるようにして。彼女の柔らかな体温に心臓がちがう跳ね方をして、僕は思わず腕を振り払った。
「レイニー…?」
彼女はひどく哀しそうな顔をして、僕をちいさく見上げた。僕は今度こそ、てんてこ舞いを始める。
「ごめん、ちょっとビックリしてさ。普段、こんなにくっつかないから」
不格好な笑みは、しかしやけに懐かしかった。胸が苦しくなって、それで余計に笑った。いつだってこんなふうに笑っているのに、最近は意識しなくなっていた。文乃は表情を変えないまま、僕をじっと見つめた。疑っている、らしかった。
「いやあ、そりゃあ、急に胸を押し当てられたら、誰だってびっくりするよ。僕だって男なんだよ?」
ここまで言って、文乃はようやく笑ってくれた。静かに、けれど少し嬉しそうに。
「…そういうの、意識してくれたんだ」
「意識しない方がおかしいって」
嘘ではない。だから僕は悪くない。ああ、気持ち悪い。
「ならいい。手、つなご?」
僕は文乃に従い、手を握った。彼女の手は小さくて、とても温かかった。僕の手はこんなにも冷たいのに、彼女に申し訳なかった。
文乃を家に送り届け、玄関にたどり着いて、僕は凍りつく。
あのポストマン。またしても、僕の目の前に現れた。まだ日没には早すぎる。彼の顔を覆う白い布は、いっそう清潔にみえた。真っ白で、まるでこの世のものではない。
僕は思わず後ずさった。彼はぼうっと僕のほうを見つめている、らしい。何も言わない。あるいは何も言えないのかもしれないけれど。死人に口なし、なんて冗談だ。喋らないことで、きっと僕は千の言葉以上の批判を浴びているのだろう。
この少年の正体は、もう大体分かっている。それは直感に近いけれど、たぶん間違いない。
「何の用なの?」
僕は震える声で言った。彼が怖いのは、幽霊だからなのか、それとも彼の正体が分かったからか。
彼は何も言わない。僕は震える声で続けた。
「君は、僕なんでしょう?」
それでも、彼は何も言わない。ただ、じっと同じほうを向いている。それからちいさく空を仰ぐと、にわかに薄く薄く、氷が溶けるみたいに溶けて、そう表現する他ないようなやり方で、消えていった。
僕はその場に座り込んだ。じっと、足元を歩き回る蟻を見つめていた。彼らの不規則な動きを眺めていると、急激に何かが胸元へ込み上げてきた。僕は家へ駆け込み、トイレに入った。そこで、胃の中のものを全て吐き出した。何故か、文乃のことを思い出していた。彼女の笑顔が脳裏を過ぎって、今度は涙が出てきた。声もあげないで、あの日のレイニーみたいに泣いていた。
罪だ、そう思った。生きていること自体が間違っている。
何かが見えたような気がして、それを無理矢理に言葉に落としこもうとしてみるけれど、なんだか上手くいかなくて、その曖昧なイメージは、ふいと色を失い、やがて消えた。
「レイニー。迎えに来たよ」
「いいって言ったのに」
文乃はわざわざ僕を迎えに来た。どうせ彼女の家へ行くのだから、待っていてくれたら良いと電話で伝えたのに。
「ちょっとでも長く、一緒にいたいの」
すきりと胸が痛んで、息が苦しくなる。僕は曖昧に笑って、首を傾けてみせた。梨子から学んだことだ。上手く話せない時は、相手に読み取ってもらえばいい。そうすれば、僕のせいにはならない。間違って受け止めたとしても、それは相手の責任だ。
「じゃ、行こう」
僕らは文乃の家に向かった。ずっと、変わらない景色。太陽は半分くらい沈んでしまって、僕らの背後に長い影を落とした。僕らは手をつながずに、けれど近い距離を保って歩く。いつもの歩幅、文乃の気配。
「ただいまー」
文乃がドアを開き、僕も続いた。見慣れた玄関に靴を置いて、家が異様に静かなことに気づく。
「お父さんとお母さんは?」
「今日は居ないんだー。二人とも、里帰りだか何だかで、行っちゃってさ。ついてくのめんどかったから、残ったの」
「そっか」
今はただ頷いて、彼女について行く。案内されたキッチンには、カレーの匂いが漂っていた。
「カレーだよ。レイニー、好きでしょう?」
僕は頷く。僕の味覚は子供のままで、進化を止めてしまったみたいだ。
「準備するからちょっと待ってて」
僕は言われるまま椅子に座った。
「なんか、久しぶりだね」
「そうだね」
夕食を済ませた僕らは文乃の部屋に引きあげた。別に久しぶりというわけでもないが、落ち着かなかった。僕は文乃のベッドを背もたれにして、クッションの上に座った。文乃はベッドに横たわった。
僕らの時間の潰し方は、きっと独特なものだ。思えば、僕らはたくさんのものを共有してきたわりに、共通の何かをあまり持っていない。そもそも僕には趣味らしい趣味がないし、それは文乃も同じらしかった。だから僕らは、ただ話す。話すことが無くなったら、互いの息遣いだけを感じながら、ぼんやりと、のんびりと過ごす。また、どちらからともなく、くだらない議論をもちかけて、ぜんぜん真剣じゃない結論を導いて、二人して笑う。そんなことを繰り返してきた。
僕らの間では、沈黙さえも会話の一部だった。そのくらいに、文乃は僕に親しかった。当たり前のように、一緒に居ることができた。他の人といる時に感じる罪悪を、文乃に対してだけは、感じる必要がなかった。
それなのに。もう、それすらも上手くいかないみたいだ。僕は髪の毛を掴み、少し乱暴に引っ張った。安っぽい自傷行為だ。
文乃は、きっと気長に向き合ってくれたのだろう。いつから僕のことを好きだったのかは知らない。だが思い返してみれば中学の頃には、すでにそれらしい態度を示していた。アヤノは、小学校高学年の頃には、すでに恋をしていたらしい。文乃が同じだったとしても、不思議ではない。
一向に気づかない、いや、見ようとしない僕に対して、彼女は何を思っただろう?やはり、彼女は優しい。僕には勿体ないくらいに。
僕は部屋を見回した。他人のことを言えた立場ではないが、殺風景な部屋だ。いや、そう言ってしまうと語弊があるかもしれない。女の子らしい小物とか、洒落たインテリアも置いてあるのだから。ただ、この部屋には遊びというか、空間の偏りがない。大抵の人間には趣味というものがあって、そこまでいかないとしても好みというものがあって。それに依って持ち物が決められる。部屋の様子は、それを大いに反映する、はずだ。
なのに、この部屋にはそういう偏りがない。ただ、そこに当てはまるから、そこに置いてあるというだけで、ちっとも人間に触れてこない。そんな景色だ。まるで、僕の部屋と同じだった。
「ねえ、レイニー」
僕がぼんやり考えていると、文乃が僕を呼んだ。その声がいつもより湿っているのは、眠いからというわけではないことを、何となく理解していた。僕はゆっくりと彼女のほうを向きながら、力の抜けた返事をした。
「なに?」
「…えっと、その、こっち来て」
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