第15話

 僕がベッドに腰掛けると、文乃は半身を起こして背中から抱きついてきた。僕は文乃の腕を捕まえる。温かい。彼女の匂いがはっきりと感じられた。

「どうしたの?」

 僕はあくまで頑固に、何も知らないふりをした。彼女は焦れったそうに腕に力を入れ、体を密着させてくる。

「…ほんとに分からないの?」

 その声は、ほとんど拗ねていた。勘違いだなんて、そんなふうに逃げていられたら幸せだったのかもしれない。いや、それも嘘だ。僕は幸せではなかった。

「なんとなく、言いたいことは分かるよ」

「なら、最後まで言わせないでよ。これでも一応、女子なんだからね?」

 僕は文乃に気づかれないように小さくため息を吐いて、目を伏せた。

「…僕は、それをしてはいけないような気がするんだ」

 文乃の動揺した様子が、背中越しに伝わってくる。顔を見なくても分かる。僕はじっと、文乃に抱きしめられたままだった。

「…どうして?」

 どうしてなんだろう。僕が彼女を拒む理由なんて一つもないのに。それでも僕は、そんな気になれなかった。性欲だって人並みにあったはずなのに、今はそんなことも全部忘れてしまって、ただ、文乃に分かってほしいだなんてワガママを、頭の中でこねくり回していた。

「分からない。でも、僕は間違っているような気がする」

 僕の胸を満たす曖昧な哀しさは、どうにも上手く表現できなくて困ってしまう。こんなに原始的な欲求でさえも抑えられてしまうことには我ながら驚いたが、どうすることもできなかった。ここで文乃を押し倒すことは、僕にとって殺人にも等しい罪だった。

「…レイニー、やっぱりおかしいよ。前はただの鈍感だったけど、最近は、いっつもそう。そうやって、私を突き放す」

「違う、突き放したいわけじゃないんだ。でも、ああ、その、上手く言えないけれど、僕は間違えているんだ。だから、こんな状態で、文乃の大事なものを貰うわけにはいかない」

 僕らはずっと一緒に居た。だから彼女に恋人がいなかったことくらいは知っている。全部初めてなんだ。僕は既に、真っ白な彼女の端っこを汚しつつある。それだけでも、ひどい罪悪なのに、これ以上罪をかさねたら僕は、もう死ぬしかない。

「…どうしても、してくれないの?」

「ごめん」

 文乃は僕の背中に体重を預けたままで、じっと動かなかった。この部屋は静かだ。いつ来てもそうだったが、今日は特に静かすぎる。遠く、うっすらと鈴虫の声が聞こえるばかりだ。

「レイニー」

 名前を呼ばれた、と思ったら、僕は思い切り引き倒された。ベッドに対して斜めに倒れた格好で、僕は身じろぎ一つせずに居た。文乃は馬乗りになって、僕の動きを封じた。それから僕の首に細い指をまわして、その手を顎へと持ち上げながら、顔を近づけてきた、と思ったらキスされた。強引に唇を押し当てられ、僕は息をすることも忘れる。ひどく簡素で不器用だったが、それはたしかに愛のあるキスだった。

 彼女は頬を紅潮させて、僕を見下ろした。ゆっくりと手を僕の首へ遣って、そのままかるく絞めた。苦しくはない。何故か、僕はとても幸福を感じていた。彼女の唇よりも、この細い指が僕を幸福にした。

「もう、レイニーなんて知らない。私、我慢できないから。そうやって、放されるのも、はぐらかされるのも。やっと恋人になれたと思ったのに、あなたはキスもしてくれない。それらしい仕草を見せても、全部見ないふり」

 文乃はそこで言葉を切って、僕の瞳を覗き込んだ。

「だから、もう知らない。意気地無しのレイニーなんて、私が襲ってやる。ねえ、レイニー。もっと愛して。私、不安なの。あなたはふわふわ揺れていて、ふっと消えてしまいそうで、怖い。だから、捕まえて放したくない」

 文乃はもう一度、今度はもっと丁寧に唇を重ねてから、僕を抱きしめた。彼女の長い髪が、顔にかかって擽ったい。甘ったるい香りで胸が一杯になる。

「お願い。私を、一人にしないで」

 アヤノも、同じことを言っていたのだろうか。僕は不意に切なくなって、彼女を抱きしめる。

「…本当に、僕なんかでいいの?」

「レイニー、んーん。凜じゃなきゃだめなの。あなたじゃないと」

 彼女は耳元で囁く。その振動は体全体に伝わって、今度こそ、僕の奥底に秘められた、精神よりももっと野蛮で穢らしいものを呼び起こした。僕はゆっくりと彼女を起こして、そのままベッドに寝かせ、両の手首を押さえつけた。文乃はきゅっと唇を引き結び、何も言わなかった。

 そこで、僕は思考を放棄した。


 翌朝、目を覚ました僕は、すぐ側で眠る文乃に驚いてから、昨夜のことを思い出した。彼女はまだ安らかな寝息をたてていた。薄い唇が小さく開いている。至近距離で眺める彼女の顔は、なんだか別人のように感じられた。長いまつ毛も、小さな鼻も、真っ白な肌も、知っていたはずなのに、ただ、それを文乃だと思えなかった。

 事を始めたのは八時か、そのくらいだったと思うのだが、十代二人の熱情は冷めることを知らず、行為は深夜まで行われた。僕らはくたくたに疲れ果てて、抱き合って眠った。いまさらに甘い嬌声と彼女の感触が思い出されて、僕は目を逸らした。

 視線を戻して、文乃の寝顔を見つめる。いつもよりあどけなく、幼くみえる。誰がどう見ても、可愛らしい、普通の女の子だ。不意に息苦しくなって、僕はぎゅっと目を瞑った。ゆっくりと目をひらくと、文乃と目があった。

「おはよ」

 文乃の声は少し掠れていて、低かった。僕は同じ言葉を返す。彼女は柔らかく笑むと、僕の胸に顔を押しつけた。素肌に髪の毛が触れて擽ったい。僕は優しく、彼女の髪を撫でた。

「体は、大丈夫?」

「うん、へーき」

 僕らは短いキスをして、ベッドから抜け出した。

「こっち見ちゃダメだからね」

「きのう全部見たのに」

「それとこれとは別なの」

 僕は彼女に背を向けて、服を着た。「もういいよ」と言われてから振り向くと、文乃はすっかりいつもの姿に戻っていて、頬を紅潮させていた。

「その、ありがとう。凜」

 違和感があった。凜は、間違いなく僕の名前なのに、上手く認識できない。それに文乃の顔も、やはり妙な感じを与える。記号だ。まるで実感が湧かない。何も変わっていないのに、文乃は『普通の女の子』にしかみえないし、凛は僕を指し示す、単なる音の連なりとしか思えない。僕は笑って誤魔化した。

「じゃあ、とりあえず帰るよ。また、連絡するから」

「あ、うん」

 僕らは階段を下りて、玄関へ向かった。靴を履いてドアノブに手をかけた時、文乃が僕の服の裾を引っ張った。

「なに?」

「…もう一回、ギュッてしてほしい」

 僕は言われるままに彼女を抱きしめた。細い肩は少しだけ震えていた。

「寒いの?」

「んーん。…ねえ、どこにも行かないでね」

 へんなことを言う。そんな予定はないのに。

「まあ、うん」

 それなのに、僕はとても曖昧に頷いた。


 文乃に手を振って、家まで帰った。ふらふらと、住宅街の道を行く。日曜の朝だから、人は少ない。すれ違うのは、明らかにこれからどこかへ出かけるのであろう家族ばかりだった。車に乗っていたり、仲良く並んで歩いていたり。僕は何だかぼんやりしていて、ろくに前も見ずに、空ばかりを見ていた。今日も良い秋晴れだった。清涼な空気に陽が透って、どこまでも透明だった。日向と日陰のコントラストが、いやというほどはっきりしていた。

 家に着いて、一階でコーヒーを飲んでいた父に挨拶し、自室へ引きあげた。『君へ』を引っ張り出して、机に向かう。コピー用紙を小さく切ったものに、青いボールペンでまとまりのない日本語を書いて、二つに折りたたんだ。アヤノは、これを読んで何を思うだろう。僕が知ることはないだろうけれど。


 夕方、僕は買い物に行ってくると残して、家を出た。必要最低限の物しか持たずに、バスに乗って、町外れの海岸へ向かった。堤防沿いに伸びる道路をゆっくりと歩いていく。夕日が綺麗だった。何も考えていなかった。

 しばらく行くと、沖へ向かって突き出すように造られた堤防にたどり着いた。誰も居なかった。僕は先端を目指して、好きな歌なんかを口ずさみながら、ふらふらと歩いた。沖から風が吹きつけてきて、潮が香る。良い気分だった。漣が遊ぶようにコンクリートを濡らしている。その一々に陽が反射して、きらきらと光っている。

 先端にたどり着くと、僕は大きく息を吸い込んだ。そのまま、海に倒れ込もうとした、その時だった。

「やめろ!」

 僕は大して驚かなかった。ただ、振り返るのが面倒で、前を向いたままで返事をする。

「なんですか?」

「…お前は、それでいいのか」

 彼の声は静かで、責めているような感じも無かった。振り返らずとも、そこに誰がいるのか、大体分かっていた。

 それは、僕の声だったから。丁度、カラオケで聞いたような声だ。

 僕はゆっくりと振り返った。果たして、そこには例のポストマンがいた。やはり顔は見えない。

「顔を見せてよ。君が僕なら」

 僕は彼に歩み寄った。彼はフードを脱ぐと、やおら布に手を遣って、ぐいと引っ張った。白い布は外れて、風に舞って飛んでいく。そのまま、忽然と虚空へ消えた。

 彼の顔は、やはり僕のそれだった。ただし、今の僕よりは少しだけ幼い。中学の頃に死んだのだと聞いたから、きっとその頃の姿なのだろう。彼は真っ暗な瞳で、僕を見据えていた。何の感情も感じられなかった。ただ、彼はひたすらに哀しそうだった。

「やっぱり、僕だったのか」

「…本当に死にたいのなら、好きにすればいい。でも、その前に僕の話を聞け」

 彼は乱暴な口調で言うと、その場に座り込んだ。その仕草まで僕と瓜二つだったから、思わず笑って、同じようにする。

 奇妙な光景であった。同じ人間が、比喩でも何でもなく、向かい合って座っている。僕はへんに興奮していた。

「お前が死にたがっている理由は、僕にもよく分かる。僕はお前だから」

「へえ、そう。僕は自分でもよく分からないんだけどな」

「いい加減、目を逸らすのはよせ。分かっているはずだ。お前の自殺願望は、生まれつきのものだ。母さんのせいでも、文乃のせいでもない」

 僕は彼を睨んでから、そっぽを向いた。怒っているわけではない、はずだが、何故だろう、彼のことが気に入らない。殺してやりたいとすら思う。

「僕は、生きることを許されなかったお前だ。僕は、それ自体は嫌じゃなかった。分かるだろ?僕らは、もともと放っておいたら勝手に死んでしまうような性格を持っているんだ」

 何も言えなかった。気に入らないけれど、彼の言うことはあまりに正しく、的を射ていた。

 つまるところ僕の問題は、僕自身の人格にあった。母の死がまったく影響しなかったとは言わない。だが、そもそもの初めから、僕は生きる意思が弱すぎた。やりたいことも無かったし、いつも不器用で、人と一緒にいることも難しかった。文乃のように親身に寄り添ってくれる人に対しても格好をつけたがって、ちっとも本当を晒してこなかった。怖くてできなかった。

 小心者の、廃人寸前。言ってしまえば、僕はただそれだけだ。ちっとも複雑なことじゃない。生まれながらに弱い人間。過度に、死と親しい人間。それが僕だった。

「だが、死ぬ手前になって、僕はとても哀しくなった。それまではちっとも考えなかったことについて、考え始めた」

 彼は自分の手のひらに視線を落とし、しばらく黙った。

「命について、か?」

 仕方なく僕が先を促すと、彼は静かに頷いた。

「なあ、生きているってのは、どういうことだと思う?」

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