第16話

 僕は、常に普通から外れているような気がしてならない。自分の無気力が、周囲に較べてあまりにも酷いから。人と上手く話せないから。周りの人間を見ていると、どこからあんなエネルギーが生まれるのだろうと、不思議でならない。

 僕はどうしようもなく不器用だったし、上手くいかないからといって、それを克服してやろうという気概も無かった。小さな頃から、自分でもよく分かっていなかったが、色々なことが億劫だった。僕は怠惰で、無能だった。それを劣等感というものへ還元し、自己憐憫の情を掻き立て、自慰に役立てることは難しくなかった。

 いつだって責められているような気がするのはきっと、それに依存する。まるで生きていることが間違えているような人間だ。そもそも、生きる力が弱すぎる。楽観もできないし、悲観に耐えうるような根性もない。なよなよと、へらへらと、色々なものを誤魔化して生きてきた。何も見ないように、努めて何も考えないようにして、そうやって生きてきた。

 ただ、頭の片隅で、いつも母の死について考えていた。人間の消えることについて。アヤノの手紙は、その思考に具体的な形を持たせた。僕が死んでいたとして。あるいは、母が生きていたとして。そんなことを考え始めてから、僕は上手く生きていけなくなった。誰の目からもおかしくみえるようになった。


「生きているってことは、つまりそこに在るということだ。それ以外には何もない。僕は、自分が死んでからそれを思い知った」

「具体的には?」

 彼は俯いたままで答える。

「僕は、死んですぐに幽霊になった。みんなに話しかけてみたけれど、誰も気づいてくれなかった。アヤノと父さんは泣いてくれた。他の人は、涙の一滴も流してくれなかった。僕の価値は、所詮そんなものだった」

「なるほどな、いかにも僕らしい」

「お前も知っているだろうが、僕が遺した荷物は少ない。お前以上に、少なかった。それはすぐに片付けられた。父さんがそういう性格なのは知ってるだろ?」

 僕は黙って頷く。

「それで、僕は墓石だけを遺して、この世から跡形もなく消え去った。学校の机には花瓶が飾られたが、それもすぐに無くなった。父さんも、そりゃあ悲しそうだったが、数ヶ月で日常に埋没していった。神妙な顔をしているのは、僕の墓の前で手を合わせている時くらいだ」

「いつまでも悲しんではいられないからな」

 彼はようやく顔をあげて、僕を見た。洞穴のような深い瞳が、僕をしっかりと捉えていた。

「アヤノだけが例外だった。彼女はずっと悲しんでくれた。しばらくは毎日のように泣いていた。一年経つと、さすがに慣れたようだった。二年経つと、やっと笑ってくれるようになった。でも、未だに少し寂しそうだ」

「手紙にも、そう書いてあった」

「『君へ』のエピローグの意味が、やっと分かったんだ。あの本は、人の曖昧さを描いているんだ。ぼんやりと恋をして、結婚して。それで、最愛の人を亡くしても永遠に悲しんでいるわけではなく、残された女性は罪悪の念に駆られる」

 彼は細長く息を吐き出した。幽霊が息をしているというのも、へんな感じがする。

「人間というのは、なんだかそんなものだった。僕はそれが嫌で堪らなかったけれど、みんな、どこか曖昧に生きている。それを許容できないから、僕らは救われない。いいか、大事なのは一つだけだ。生きているか死んでいるか。生が一で、死が零だ。それだけなんだ」

 僕は彼から目を逸らして、海をちらと見た。数分前よりも、幾分か温かくみえた。

「僕らは、つまるところ潔癖なんだよ、凜。レイニーなんてあだ名に縋って、現実を見ようとしないで、漫然とした哀しさを、言葉にできない罪悪を感じながら生きている。それが、ダメだったんだ」

「つまり、何が言いたいんだ?」

「お前は、自分自身に向き合うべきだ。とっくに死んだ僕でも、母さんでも、手紙を寄越すアヤノでもない。今を生きているお前自身に、向き合うべきなんだ」

 よもや、幽霊に説教されるとは思っていなかった。それも、自分自身に。まったく、可笑しな話だ。気を抜くと声をあげて笑ってしまいそうだ。

 なのになんで、僕は泣いているんだろう。

「虚しいんだ。ずっと、何をしていても、僕は生きている気がしなくて、いつだって普通から外れていて」

 人なんて、面倒くさいから決めつけた。それぞれの人間の立ち位置を勝手に定義して、それ以外の一面を見ようともしなかった。見てしまった時には、また自己憐憫に逃げて、どうにかやり過ごした。考えようとはしなかった。

 自分についても、同じようにした。人に見せる面を決めておいて、それ以外を見せたくなかった。文乃にさえ、壁を隔てて話していた。向き合っているようで、ちっとも向き合っていなかった。ただ、周囲の刺激に反応するだけの、くだらないシステムに成り下がっていた。全然、人間ではなかった。

「なあ、僕は生きていて良いのか?それは、許されるのか?」

 彼はおもむろに頷いて、僕のほうへ手を伸ばしてきた。その手は僕の涙を拭おうとしたらしいのだが、見事に僕をすり抜ける。彼は自嘲気味に笑った。

「こういうことだよ。僕は、誰かの涙を拭ってやることもできない。もう、全部が終わってしまったんだ。だけど、お前は未だ間に合う。普通に生きていける。だから」

 彼は手を引っ込めると、首を傾けて、にこりと笑った。レイニーには見えなかった。

「だから、終わらないで。もうちょっとでもいいから、生きて」

 涙が溜まって、ろくに何も見えない。彼の姿も霞んでしまった。瞬きを一つして、また目を開けた時には、もう彼は居なかった。ただ、そこには紙切れが一枚、残されていた。

 僕は震える手でそれを拾い上げて、読み始める。

『私はいま、とっても幸せです。だって、ようやくレイニーと会えたんだもの。

 全部、聞きました。彼が平行世界を移動できること、私に忘れてほしくて、あなたと文通をさせたこと。

 これで、手紙は最後にします。返事は要りません。あなたがまだ、生きているのなら、聞いて。

 どうか、死なないで。私も、頑張って生きていくから。新しい幸せを探すから。だから、どうか、まだ生きていてください』

 次から次へと涙が零れてきて、僕は何度も手紙を読み返した。


 その夜、僕は母の夢を見た。夢の中で、母は僕に笑いかけ、頭を撫でてくれた。それは父の顔に変わり、やがて文乃の顔になった。悠人や梨子が柔らかく笑んで、ちょっと離れたところから僕らを眺めていた。

 僕はとても幸福だった。


「よう、レイニー。今日はなんか楽しそうだな」

 月曜日、悠人に言われて僕は笑った。それはこれまでに見せたことのない種類の笑顔だった。近くにいた梨子も頷いて、「どうしたの?」と訊ねてくる。

「あ、いやあ、ちょっと、ね」

「さては、文乃と何かあったな?」

 悠人の無責任な発言に、梨子が浮かれた声を出す。それまで一緒になって笑っていた文乃が、真っ赤になって俯いた。

「え、マジなの?お前ら、ヤっ…」

 言いかけた悠人の口を、咄嗟に塞いだ。そんなに露骨に言われると、僕も気まずい。

「わりい、口が悪いのはもとからでな」

 僕の気持ちなんて歯牙にもかけず、悠人はニッと笑った。梨子まで赤くなっている。

 ふふっと笑って、僕は髪の毛を掴んで、引っ張らないで離した。

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