第5話
母の死が、僕の性格にどんな影響を及ぼしたのかは、僕自身もよく分かっていない。母に愛されて育ったなら、僕はもう少しまっとうな人間だっただろうか。
ただ、僕が今に至るまでに、不便したことは一つもない。確かに、家事を請け負うのが日課になったし、家族みんなで、何かをして楽しむ、なんてことは叶わなかった。それでも、父は僕に必要な全てを、惜しまず与えてくれた。愛情も、である。
母が死んだ時、僕はまだ幼い子供だった。それまでに訓練されていれば話は別だが、僕は至って普通の子供として育てられたから、実生活を送る力、という意味での生活能力は皆無だった。
それでも、僕は必死に家事を覚えた。父の負担を、なるたけ減らしてあげたかったのだ。それは強いられたことでも、自己満足のためでもない。ただ、肉親への思いやりから生じた行動だった。
父は僕の気遣いを喜び、たくさん褒めてくれた。しかし、料理だけは、僕にさせてくれなかった。もちろん、小さな子供には困難なことだから、正しい判断だとも言える。おそらく父は、僕の身を案じたのだろう。包丁で手を切ったら?ガスコンロで火傷したら?考え出したらきりがない。
以来、ほとんどの家事は僕一人でこなせるようになったが、料理だけは、未だに父が作っている。朝夕と、毎日欠かさず。僕はそれを口にする度に、父の愛情を感じる。
また父は、忙しい生活の中でも、僕を楽しませてくれた。休みの日には、僕を色々なところに連れて行ってくれた。中でも鮮明に憶えているのは、二人で星を見に行ったことだ。山奥の、僕たち以外は誰も居ない草原で、僕は満天の星空を仰いだ。とても美しかった。天体観測のように、一つ一つの星をつぶさに観察するのではなく、もっと広い視野をもって、光の群れを眺めた。明るいもの、暗いもの、少し赤く見えるもの。たくさんの光が、僕の視界いっぱいに瞬いていた。
星の名前なんて、僕には分からなかった。父もまた、天体のことには明るくないらしかった。だから僕たちは、ただ圧倒されていた。難しい理屈や、複雑な星の名前を語ることなく、ひたすらに。ふっと見た父の横顔は、どこか寂しげに映った。
「凛。お前には、辛い思いをさせてばかりだな」
父は静かに呟いた。しかし無音の草原では、十分すぎるくらいにはっきりと聞き取れた。
「僕は、へーきだよ。父さんがいるから」
この時、僕は小学五年生だった。気を遣うという概念を、理解するだけでなく、応用することも少しずつ覚え始めていた。
母の不在、その哀しみは、未だに胸の奥底、普段は思い出さないようなところに眠っている。何年経とうとも、決して消えてくれはしないのだ。僕はやっぱり、レイニーなのかもしれない。
父は僕の頭に手を載せた。大きくて、温かい手だった。ずっと、僕を守ってくれた手だ。
「お前は、本当に良い子だ。ワガママも言わないし、父さんを手伝ってくれるし」
父はそこで、言葉を切った。温い風が、二人の隙間を吹き抜けていった。
「でもなあ、もしも、寂しくなったら、泣いていいんだぞ?まだ子供のお前が、そんなに重いものを背負い込む必要はないんだ」
僕は父から目を逸らして、星を見上げた。へんな想像をした。あの星のどこかに、母が居るとして。母は、僕を褒めてくれるだろうか。これまで泣かずに頑張ってきたことを。
そう思ってみて、久しぶりに涙が出た。まるであの時のように、実に子供らしくない泣き方だった。父はそれに気づいたらしく、黙って僕を抱きしめた。
なんだか懐かしい夢を見ていた。僕はベッドの上で半身を起こすと、ぼんやりと窓外を見遣った。雨が降っている。静かな雨だ。窓を閉めたままでは、ほとんど音が感じられない。
僕は立ち上がると、窓を開けた。じっとりと重い空気が流れ込んでくる。そのくせ気温はいやに高く、不快な気候だ。
レイニー、なんてあだ名を持つわりに、僕は雨が嫌いじゃない。晴れているのに部屋に篭っていると、なんだか責められている気がしてならない。雨が降っているなら、仕方がない。たぶん、そんなふうに思えるから、僕は雨が嫌いでない。
ただ、今日は例外だ。雨が降っていても、親友と出掛けなければならない。これまでの経験上、文乃の機嫌は天候くらいのことに左右されない。今日も上機嫌に、僕に会いに来るのだろう。
意図せず、笑みが零れた。許されている気がした。僕はその表情のままで、部屋をあとにした。
日曜日なので、父は家に居た。彼は非常にしっかりした人で、僕の父親だとは思えない、時がある。出かける予定は無くとも、惰眠を貪るような真似はしない。いつもと同じ時間に起きて、朝食を食べ、今は朝刊を読んでいる。コーヒーの香りがリビングに漂っている。
「おはよ」
「おう、おはよう」
父は一瞬だけ僕のほうを見て答え、再び新聞に目を落とした。ろくに手元を確認せずに、マグカップに手を伸ばす。僕は食パンをトーストする。コーヒーサーバーに、僕のぶんが残されていた。父はいつも、僕のぶんまでコーヒーを淹れておいてくれる。普段、コーヒーなんて飲まない僕が、唯一飲めるのがこれだ。特別なものではない。味も至って普通、だと思う。何が違うのかと言うと、飲み方を誰にも指摘されないことだ。僕はたっぷりの砂糖を溶かし、さらにミルクを混ぜて飲む。ほとんどカフェオレのような味になる。
僕は父の正面に座って朝食を済ませ、部屋に引き上げた。再びベッドに寝転び、『君へ』をひらいた。エピローグの意味を考えていた。どれだけ慎重に読み返してみても、やはり分からなかった。
僕は飽きてしまって、机の上に放っておいた手紙を取り上げた。椅子に座って読んでみる。何の変哲もない紙切れ。二つに折ったらハードカバーに余裕で収まるくらいの、小さなものだ。アヤノの字は細かく、可愛らしい印象を与える。
この手紙の意味が、気になって仕方ない。それは、単純に不思議だから、ということに加えて、もう一つ。母の形見が関わっているからだ。
母からのメッセージ?ありえない。母は死んだし、仮にそうだとしても、まったく意味が分からない。けれど僕は、どうにもそう思いたがっているらしい。これに、自分を励ますための、何かしらの意味を持たせようとしている。
ため息を一つ。意味の無いことは考えない。考えたって仕方ないのだから。
それにしても、この手紙の意味くらいは知りたいと思う。誰が、誰に宛てたラブレターなのか。もっとも不可解な点は、終わりの方にある。
『この本を読んでいました』
この一文は、明らかに不自然だ。残りの部分はなんとか納得できるにしても、この一文はどうにもならない。まったく意味不明だ。この本、と言うのは、今、枕元に置いてある一冊を指しているのだろうか。そうとしか考えられない。しかし、それなら尚更恐ろしい。ベッドで読んでいた。ここで、ということか?考えたくない話だ。そしてきっと違う。その解釈は何となく、文脈に合わない。ただの直感だが、妙な感じがする。
午前十一時を少しまわった頃、着信があった。
「おはよー」
スピーカーの向こうから、露骨に眠たげな声が聞こえてくる。
「夜更かししたね?」
「すごい、なんで分かるの?」
「明らかに寝起きの声じゃん」
彼女はけらけら笑って、「それもそっかあ」なんて応えた。
「じゃあ、今から行くよ」
「おっけー」
僕は通話を終えると、スマートフォンをベッドに投げだし、支度を始める。二十分ほどしてから、一階に下りる。それから、なんとなく彼女の気配を感じて外に出た。果たしてそこには、傘を差した文乃がいた。
「やあ」
僕は傘を開き、彼女の隣に歩み寄った。やはり静かな雨だ。傘で弾いても煩くない。
「いこっか」
僕らは自然に歩幅を合わせ、歩き出す。彼女の服装は至ってシンプルだった。昔からそうだった。水色のスカートが雨を避けて揺れていた。
「ん?どしたの?」
「いや、なんでもない」
彼女の服装を観察していたのがバレてしまった。彼女はニヤリと笑って、僕に近づく。
「さては、可愛いとか思った?」
「いや全然」
腹をそこそこ強い力で殴られた。痛い。
「お世辞でも褒めなさい」
「ご無体な」
「ったく、昔っからそういうとこは変わらないんだから」
そう言いながらも、文乃は楽しそうだ。こうしていると、壁なんて無いんじゃないかと錯覚する。しかしそこには何かが在る。この雨みたいに。レイニー。ふふ。
「なあに、急に」
「んーん。文乃は可愛いなと思って」
「もう一発食らう?」
彼女が言うと同時に防御姿勢をとる。それを見た彼女は呆れたようにため息を吐く。
「やれやれ、こんな調子じゃ、私どうなるんだろう」
「ん?どういう意味?」
「独り言だよ」
二つの傘はふらふらと揺れる。互いに触れ合わぬ位置で。なんだか小説的な言い方だな、と思ってみて、自分が嫌になった。気取るのは良くない。
あるいは気取っているのではないのだろうか。ただ、触れられないだけで。
「うん、なかなか良いね」
僕はラーメンを啜った。食券を使って注文するタイプの、ちいさな店だ。値段が安くて量が多い。まさに高校生の味方だと思う。
隣の席で、文乃がこくこくと頷いた。彼女は猫舌なのだ。コーヒーも、息を吹きかけてから慎重に含む。今回は失敗したらしい。
彼女は水の入ったコップに手を伸ばす。僕はそれを横目に見て、スープを飲んだ。ようやく熱々の麺から開放された彼女は、ちょっと涙目になって僕を見上げた。これはお世辞抜きに可愛い。
「梨子の舌は確かみたいね」
この店は、安達さんに紹介されたのだという。安達さんがそんなことを話しているところなんて想像もできなかった。少しずつ、心を開いているのかもしれない。
「そういえば、手紙の謎は解けた?」
「いやあ、全然分からないよ。父さんも知らないって言ってた」
僕は器の縁で萎れていた海苔を頬張る。スープが程よく染み込んでいて美味しい。
「そうなんだ。…レイニーは、気にしてないの?」
「まあ、ね。うん、大丈夫」
文乃の前で、下手な嘘は吐けない。すぐにバレてしまうから意味がない。あの手紙について、僕がある種の負の感情を感じているのも、きっと彼女は気づいている。
「ならいいけど。レイニーは、すぐに塞ぎ込みたがるんだから」
塞ぎ込みたがる。それが、正確な表現なのかもしれない。僕はきっと、楽観よりも悲観の方を楽だと感じる人間なのだ。僕は曖昧に笑って、首を縦に振った。彼女に信じてもらいたくて。僕はそんなふうに支えられるのが苦手だから。
いつからだろう。僕はずっと気取っている。人に対して、たった一つの側面を見せつけて、その裏側に回ってこられるのを、ひどく嫌うようになった。心底から、人を信用できていないのかもしれない。
もういっそ、独りで生きていけたら楽なのに、僕は心のどこかで、文乃を必要としている。父ではダメなのだ。いくら彼が僕を愛し、僕が彼を愛していても、ダメだ。僕は他人と交わる、その絶望的な営みの中に、恐怖と一緒に希望を見ている。
「どう、これ?似合ってる?」
文乃のファッションショーは退屈ではなかったけれど、僕は観客として相応しくなかった。女の子の服装の良し悪しなんて、僕にはほとんど分からない。僕から見れば、どれも似合っているように見える。
「ああ、似合ってる」
「怒るよ?」
「ほんとだって。でも、そうだな、もう少しシンプルなのがいいかな」
文乃は少しだけ瞳を大きくして、僕の顔を覗き込んだ。眉の端を下げて、困惑しているようにもみえた。
「ほんと、に?」
「ん、僕の趣味だけどね」
「よし、じゃあそうしよう」
文乃はころりと表情を変えて、別の服を探しに行った。僕は試着室の前に備えられたベンチに腰掛けて、欠伸を噛み殺す。今日も平和だ。
「いやあ、ごめんね、付き合わせて」
「いいよ、もともとそういう話だったし」
雨は弱まり、うすく陽が差してきた。傘はただの荷物と化していた。僕らは昼前よりも近い距離を保って歩いた。
「荷物、持つよ」
僕は彼女からビニール袋を取り上げた。どうせ、家まで一緒に帰るのだ。
彼女はほんの少しだけ躊躇って、僕に袋を渡してくれた。「ありがとう」と、満面の笑みで言われる。そんな顔を見せられると、悪い気はしない。
「やっぱりレイニーは優しいね」
「そう?」
「うん、とっても」
僕が優しいと言うのなら、文乃はどうなるのだろう。
ふと考えてみて、彼女を抱きしめたくなった。いっそ、そうしてしまいたいのかもしれない。乱暴に押さえつけて、離さないでいたい。そんなふうにできたなら、どんなに楽だろう。人と人は、そういうふうにはできていないのだ。
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