第4話

 久しぶりに、大切な本を読んでいた。本来、僕のものではない。これは母の形見として譲り受けた。どうやら、母も本が好きだったらしい。中学生の頃に初めて読んだ。内容がちょっと難しいし、母を思い出してしまうから、小学生の時には開けなかった。

『君へ』というタイトルだ。おそらく、それほど有名な作家のものではない。確かに僕はタイトルばかりを見ていて、作家に興味をもたない傾向があるが、それにしても、この作家名は聞いたことがない。しかし、母はこの本を愛していたのだという。父と出会った時から、繰り返し読んでいた。

 初めて読んだ時は、思わず投げ出したくなった。なんというか、全体的に曖昧なのだ。ストーリは極めてシンプルだ。一人の女性が恋をして、その相手と文通をする。相手はやがて彼女の好意に気づき、遠く離れたところに住んでいた彼女に会いに行く。二人は思いを告げあって、抱き合ったところで本編が終わる。

 ただ、エピローグとして、少しだけ続きがある。これがまた奇妙というか、本当に必要なのかと思ってしまう。二人は結婚し、永らく添い遂げるのだが、やがて、男性の方が先に死んでしまう。病死だった。遺された女性は、涙に明け暮れる日々を送るが、それも長く続かない。彼女は男性の墓前へ行くと、ぼうっと、墓石の向こう側を見て、呟く。

『あなたが居ないことを悲しめないことが、何より哀しい』

 湿っぽい終わり方だ。せっかく二人は結ばれ、幸せに暮らしたのだから、そこで終わればいい。物語なんていうものは、どう頑張っても人生の一部を切り取ったものでしかないのだから。ところが作者は、あくまで頑固に、二人の終わりを描いた。まるで、本編だけでは不完全であると主張するように。

 僕には、未だにこのエピローグの意味が分からない。加えて、本編をどんなふうに読むのが正しいのかも分からない。それは読者に委ねられているのだと、前に本で読んだ気がするけれど、僕は考えてしまう。まったく捻りがない割には、長編と呼ばれるくらいの長さがあって、そのほとんどが、繊細な心理描写や風景描写に使われている。たぶん、全てに意味があるのだろう。僕には分からないけれど。

 なんにせよ、僕にとっては不思議な本で、大切な、母の存在した証でもある。

 五十ページほど読んだところで疲れてしまって、僕は本を閉じた。と、その時、ページの隙間から奇妙なものがはみ出しているのを見つけた。触れてみると紙だった。まだ新しい、白い紙だ。この本と同じ年代の物とは思えない。僕が初めて読んだ時から、こんなものは無かった、はずだ。

 僕はそっと、引き抜いてみる。それは二つに折りたたまれていた。開いてみると、手書きの文字が並んでいる。丸っこい、やさしい雰囲気の字だった。どこかで見たことがある。

 僕はぼんやりと、一行目から文字を追った。

『お元気ですか?わたしは、なんとか生きています。あれからだいぶ経つけれど、わたしはやっぱり、あなたが恋しいです。こんな手紙に意味は無いけれど、書かずにはいられなかったんです。あなたのことを忘れたくないから。わたしはずっと、あなたのことを想っていたいんです。

 今日、黒猫のハナを病院へ連れていきました。あの子、ほんとに病院嫌いで、困ったものです。わたしが少しでもそんな素振りを見せると、すぐ怒り出して暴れるんだもの。準備だけで三十分もかかってしまいました。でも、あの子が元気に暮らすためだから、仕方ありませんね。

 こっちは、いい天気です。そろそろ日が沈む頃です。ついさっきまで、ベッドに寝そべって、この本を読んでいました。それで不意に思い立って、手紙を書いてみることにしたのです。可笑しいかな?でも、これを読んでいると、どうしてもあなたのことを思い出してしまうんです。弱虫だね。

 きっと、届くといいな』

 手紙はここで終わっている。僕はそのまま、視線を紙の最下部へスライドさせた。そこにあった文字に、心臓が止まったかと思うくらい驚いた。

『アヤノより』

 アヤノ、というのは、きっと彼女のことだろう。木立文乃。僕の幼なじみ。確証はない、けれど、この名前で思い出した。これは、文乃の字だ。普段から幾度となく見てきた、彼女の字だった。

 単純に気味が悪かった。文乃のイタズラ?それにしては意味不明だ。まるで別れた恋人に宛てた手紙みたいだった。イタズラなら、もう少しマシなことを書くだろう。

 それに文乃は、この本がどこからやってきたのかを知っている。僕らの間では大抵の悪ふざけが許されるが、これが許される類のそれでないのは、彼女にだって分かるだろう。母親の形見に手紙を添えるなどという悪趣味なイタズラは、さすがに慎まれるはずだ。

 ならば、これは誰の仕業なのか。可能なのは、父か母か、文乃か。あるいは僕自身か。このうちの誰かだろう。僕が狂っていないとして、最後の一つはありえない。また、素直に考えて父もありえない。となると、母か文乃の仕業ということになる。

 まったく分からなかった。誰の仕業にせよ、意図が不明瞭だ。嫌がらせにしては効果がないし、僕に何かを伝えようとしているわけでもなさそうだ。

 いちど文乃に訊いてみる必要がありそうだ。


「…ってことがあったんだけど」

 初夏の日差しは窓ガラスを透して、窓際の席に明るい陽だまりをつくった。喫茶店には、僕らの他に客の姿はない。もう少しすれば多少増えてくるはずだが、それしても、やはりここは静かだ。久しぶりに顔を覗かせた青空に、湿った空気が淀んでいる。

「なるほどねえ」

 文乃はブレンドを啜りながら、軽く顎を引いてみせた。

「これなんだけどさ」

 僕は件の手紙を取り出して、文乃に手渡す。彼女は視線を落としたまま、しばらく黙った。僕は無意味にカップを揺すって、濁った紅茶が波立つのを眺めていた。そろそろホットを飲むのが辛くなってきた。

「確かに私の字だね。差出人の名前も同じ」

 僕がミルクティーを二口ほど飲んで、初老の男性が入店してきたところで、文乃は顔をあげた。僕は躊躇い、彼女の顔を見ないで訊ねる。

「文乃、じゃないよね?」

「もちろん。それくらいの分別はあるよ」

「ほんとに?」

「信用して、くれないの?」

 僕はほんの軽い気持ちで念押ししたつもりだった。しかし文乃の声は確実に温度を下げていた。僕は背中に冷たいものを感じて、口元を歪める。

「そんなわけないじゃん。文乃は僕の親友なんだから」

 文乃はじっと僕を見つめた。本当は目を逸らしたままでいたかったけれど、それがまずいことであると、本能で分かっていた。彼女の瞳はいつになく寂しげだった。

「親友、か」

「うん。僕の思い上がりだった?」

 ほら、またこうやって、人の神経を逆撫でするような事を言ってしまう。上手くいっていない冗談を、冗談だと思わせることに必死になる。笑みはますます不格好に、大袈裟になる。

「…んーん。私も、親友だと思ってるよ」

 ようやく、文乃がいつも通りに笑ってくれて、僕はほっと胸を撫で下ろす。

「あ、えっと、それで、いやね、僕だって文乃を疑いたいわけじゃないんだ。こんなことするヤツがいるってことが、単純に怖くてさ」

 常識的に考えれば、犯人は僕の部屋に侵入し、あのハードカバーを手に取ったということになる。それを想像するのは恐ろしいことだった。なんの恨みがあるのか知らないが、どうせならもっと分かりやすい嫌がらせをしてほしい。生き物の死骸をポストに押し込むとか、部屋中に赤いペンキを撒き散らすとか。

「たしかにね。気をつけた方がいいかも」

 文乃はカップを持ち上げて頷いた。

 なんとなく予想できていたことだが、やはり文乃ではないらしい。ならば母か?もともとどこかに挟まっていたものを、僕が見落としていた?いや、何度も読み返した本だ。それは考えづらい。こんな僕でも、さすがに気づきそうなものだ。

 僕が頭を抱えていると、文乃が声色を変えた。

「あ、ところで。明日、空いてない?」

「いつだって大抵空いてるよ」

「やった。じゃあさ、私の買い物に付き合ってくれない?」

 テーブルに身を乗り出して言う文乃を、突っぱねられるはずも無かった。意志薄弱。根本的に、僕は自分の意思というものが弱い。それを補うかのように、人に対する恐怖心だとか、そんなものばかりが強いから、もうどうにもならない。

 もっとも、この場合は本当に嫌ではなかったのだけれど。

「いいよ。何買うの?」

「服」

「へえ、いいじゃん、女の子っぽくて」

「レイニーは私のこと、なんだと思ってるの?」

 文乃は引きつった笑みを顔に貼り付け、僕を睨んだ。まずい、また口が滑った。

「…親友」

「それもう聞いたよ」

「ごめんって。ていうか、文乃は充分女の子っぽいから、気にしなくてもいいと思うよ?」

 僕は素直な意見を述べた。これが功を奏したらしく、彼女はたちまち相好を崩す。

「えー、ほんと?女の子っぽい?」

「前にも言ったと思うけどなあ」

 僕はなんとなく目を逸らした。人の目を見つめているのは苦しい。僕は誰かと話す時、じっと一点を見ていられない。そうしていないと、とても落ち着いて話せない。

「よーし、じゃあ疑ったことは許してあげる」

 やはり根に持っていたらしい。怖い。相手が文乃だからまだ良いけれど、これが立川くんだったら、てんてこ舞いじゃ済まないくらい取り乱してしまうだろう。僕は微笑んで、減らず口をたたいた。文乃は笑ってくれた。

「じゃあ、また連絡するね」

 僕らは店の前で別れた。特に予定も無い。それもいつもの事だけれど。だから、僕は本を読む。自分を忘れるために。本を読むことが好きなのかどうかさえ、よく分からない。ただ、当たり前のように、僕の逃げ場として、本は親しみやすかった。


「ねえ、父さん」

 僕は野菜炒めを咀嚼しながら言った。父はビールを流し込みながら、僕のほうを見た。

「なんだ?」

「母さんの名前ってさ、アヤノじゃないよね?」

 僕は恐ろしく馬鹿げた質問をした。母の名前くらい知っている。むしろ一度として忘れたことは無い。父は呆れたように口を半開きにして、僕を眺めた。

「酒でも飲んだのか?」

「あ、いや、ちょっと、へんな事があってさ」

 僕は手紙のことを、父に打ち明けた。父は腕を組んでしばらく唸ったあと、僕の目をまっすぐに見て言った。

「んー、アヤノって名前は聞いたことがないなあ。それこそ、お前の友達の文乃ちゃんくらいのものだ。母さんの友達にも、そんな人は居なかったと思う」

「そっか…」

 父も知らないらしい。まったくお手上げだ。まあ、とりあえず僕に実害がなければ何だっていいのだが、僕はしきりに手紙のことを気にしていた。理由は、僕自身もよく分からなかった。いや、あるいは分かっていて、認めたくないだけかもしれない。

「なあ、凛」

「なに?」

「寂しくないか?」

 父は低い声で言った。それはとても優しい声だった。確かな愛情を感じる。僕は目頭が熱くなるのを感じて、慌てて目を逸らした。ゆっくりとコップに手を伸ばす。

「大丈夫だよ。父さんのおかげで、寂しくなかった」

 無意識に過去形になっていた。父は何も言わなかった。僕は麦茶を飲んで、少し落ち着く。

「…なら、いいんだ。でももし、思うことがあるのなら、いつでも言うんだぞ」

 父はそう言って、食事を再開した。喉を鳴らしてビールを飲むと、いつも通り、陽気な父に戻っていた。

「…うん」

 僕は極めて小さな声で、ぼそりと答えた。

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