第3話

 僕は日本生まれの日本育ちだ。だから、雨崎凛あまざきりんという、日本人の名前を持っている。にも関わらず、僕はレイニーというあだ名をつけられた。小学生の頃の話だから、今となっては懐かしい名前である。その名で僕を呼ぶのも、もうたった一人になってしまった。奇しくも、その一人というのは、このあだ名を考えた張本人だ。

 レイニー。雨降りの、とか、そんな意味を持つ英単語。確かに僕の苗字は雨崎だから、まあ、分からなくもない。けれど、このあだ名は、それに由来するものではない。


 それはまだ、僕が文乃と親しくなかった頃の話だ。僕らは幼なじみだが、小学二年生の半ばまでは、特別親しくなかった。僕は引っ込み思案な子供だった。大いに人見知りをした。要領の悪さは生まれつきのものだったらしく、僕は一向に友達をつくれないでいた。教室でいつも独り、本を読んでいるような少年だった。

 ある日のこと、僕がいつも通りに読書をしていると、女の子が話しかけてきた。そう、文乃である。彼女は当時から明るくて活発な子だったから、クラスでの人気もまずまずのものだった。

 人は、自分に無いものを持った人間に惹かれるのかもしれない。もう昔のことだから、細かいことまでは憶えていない。ただ、気づくと僕らは、すんなり友達になっていた。文乃には既に友達も多かったはずだが、僕を誰よりも優先してくれた。僕もまた、自然と文乃に近づいていた。

 僕は怖くて、戸惑った。でも、少しだけ、幸せになった。


 何かを得ると、何かを失う、なんて信じたくないけれど、僕は文乃の代わりに、大切なものを亡くした。いずれ、そうなることは想像できていたが、それは思いのほか早かった。

 母が死んだ。

 もともと、遺伝的に身体が弱かった。今ならば分かるが、僕を産んだことが致命的だったのだろう。母は、三十代にして命を落とした。どうしようもなかった。母は文字通り、命懸けで僕を産んで、死んでしまった。

 僕はしばらくの間、母の死を受け入れられないでいた。そもそも死というものが、よく理解できていなかった。曖昧で哀しい、たぶん喪失感というやつが、僕の胸中をいっぱいにして、僕はわけも分からず泣いた。もう二度と、母に会うことは叶わない。そう考えると、涙が止まらなかった。

「これからは、父さんと一緒に、頑張って生きていこうな」

 父が僕を抱きしめ、涙声でそう囁いたのを、今でもはっきりと憶えている。

 それから半年ほど、僕は塞ぎ込んだ。学校へ行っていたし、表面上は問題のない子供として振舞っていた。それは僕の臆病さがさせたことだと思うのだけれど、もしかしたら、遺された父への配慮であったのかもしれない。今となっては定かでない。

 僕は無口になった。学校でも家でもほとんど話さず、必要のあることだけをした。当然、父は心配してくれたし、担任の先生も最大限の配慮を見せてくれた。それでも、僕の中で降る雨は、止む気配を見せなかった。

 それを、無理矢理に止ませたのは、やっぱり文乃だった。彼女は僕が無口になってからも、積極的に話しかけてくれた。僕がどれだけ素っ気ない態度をとろうとも、彼女の意思は揺るがなかった。

 先に折れたのは、僕の方だった。

 放課後、いつもの様に一緒に下校した。その最中だった。僕は唐突に悲しくなってしまって、泣いた。それはまったく子供らしくない泣き方だった。感情を主張するための涙ではない。むしろ、まったく声をあげずに、静かに、涙だけを零した。僕の中で降る雨は、とうとう収まりきらなくなって、外へと流れ出したのである。

 それに気づいた文乃は、僕を公園のベンチへ連れていき、座らせた。それからじっと、僕が落ち着くのを待ってくれた。きっと、文乃は優しいのだ。それは天性のものなのだと思う。安易に慰めようとはしなかった。その配慮は、ひどく大人びていた。

「落ち着いた?だいじょうぶ?」

 僕が泣き止んだ頃、文乃はとても優しく、柔らかい声で言った。僕は両目をごしごしと擦って涙を拭う。

「…雨」

「雨?雨が、どうしたの?」

「雨が、止まないんだ。ずーっと哀しいんだよ」

 僕は胸の内にあったものを、素直に言葉にした。今思えば、よくもまあ、そんなキザな表現ができたものだと思う。子供らしく、もっと直截なことを言ってもよさそうなのに。読書の影響が出ていたのかもしれない。

 文乃は僕をじっと見つめた。やがて、少しだけ顎を引いて視線を落とすと、何かを考える素振りを見せた。僕はじっと、彼女の頭上辺りを眺めていた。たぶん、困っていのだと思う。こんなことをするつもりは毛頭なかったから。今でも、僕は困ると視線を外して、人の斜め上くらいを小さく仰ぎみる。あまり良い癖ではないと分かりつつも、なかなか治らない。

「じゃあ、雨が止むまで、一緒にいるよ。二人で雨宿りしよ」

 雨宿り。僕に毒されたのか、彼女までも、そんなロマンチックな表現を使った。けれど、その言葉はどんな慰めよりも、すっと、僕の心に染み込んだ。幼い子供は大切な人を亡くし、寄り添ってくれる人を探していたのだろう。

 それからまもなく、彼女は児童文学の中から、レイニーという言葉を拾ってきた。もちろん、僕らに英語は分からなかったけれど、どうにも雨降り、という意味らしい。

「じゃあ、凛のあだ名は、レイニーにしよう」

 まったく単純な文乃の思いつきは、しかしみんなに受け入れられた。クラスメイト達はみんなして、僕をレイニーと呼び始めた。ただ、本当の由来を知っているのは、文乃だけだ。では、他のみんなは何を思って、僕をレイニーと呼び始めたのか。たぶん、文乃に影響されただけなのだと思う。レイニーは単に、僕を指し示す記号だった。

 ところが、その解釈は学年が上がると変わってしまった。レイニーは、『じめじめした根暗』の暗喩だと認識されるようになったらしい。立派な暴言だと思う。もっとも、僕は大して気にしなかったけれど。どちらかと言うと、文乃の方が怒っていた。何度か、僕の陰口をたたく連中に、抗議しようとした。僕は例外なく、彼女を制した。どうでも良かった。大袈裟に嫌われなければ、それで。


 僕は教室の机に頬杖をついて、懐かしいことを思い出していた。あれからずいぶん経つけれど、未だに彼女は僕をレイニーと呼ぶ。僕も、それが嫌じゃない。彼女が使うそれは、紛うことなき愛称だからだ。あえて日本語に訳すなら『泣き虫』とか、そのあたりだと思っている。本来の意味からはかけ離れているかもしれないけれど。

「ハッピーレイニーデイ」

 意味不明な挨拶を投げかけながら、文乃が近づいてきた。僕の机に手をつくと、片手で口元を隠して欠伸をする。とても眠そうだ。なお、口元を隠すのは、ここが教室だからだろう。僕と二人きりの時には、そんな遠慮はしない。大口開けて欠伸しているところを、もう幾度となく目撃している。

「雨はめでたくないよ」

「自己否定は良くないぞ?」

「人を雨の化身みたいに言わないでほしいね」

 僕は教科書を鞄から引っ張り出した。数学だ。

「あ、課題やるの忘れてた」

「特別に見せてあげてもいいよ」

「ほんと?やったあ」

「正しさは保証しないけど」

「いいよそんなの」

 文乃は僕からノートを取り上げ、足早に自席へ戻っていった。それと入れ替わるようにして、立川くんが登場する。

「よう、雨崎」

「おはよう」

 僕は笑みを作って応えた。先程よりも明らかに顔に力が入っている。これは疲れる。でも、怖くて止められない。条件反射で出てしまう。

「お前ら、やっぱ仲良いのな」

 立川くんはふいと文乃のほうを見て、また僕のほうを向いた。歯を少しだけ見せて笑う。爽やかでちっともいやらしさが無い、お手本のような笑顔だ。僕はやや気後れしながらも、同じ笑みを維持したままで答える。

「腐れ縁、ってやつだよ」

「おー、いいねえ。そういうの。羨ましいわ。俺、全然無いからさ」

 それは意外だった。彼の性格を考えれば、友達なんて掃いて捨てるほどいるものだと思っていた。素直にそれを言葉にすると、彼はなんだか困ったように眉を曲げた。

「そうでもないんだよ、これが。俺、無神経っつうか、そういうとこがあるみたいでさ。たしかに友達はいっぱいできたけど、本物は一人も居なかったのかもしれねーな」

 その笑みは自嘲気味に映る。人は時折、意外な一面を見せる。大抵は前触れもなく、不意に。そんな時、僕は転んだような気がしてならない。実際は、ただそんな気分になっているだけなのだろうけど。必死に繕うための言葉を探す。

「…そうなんだ」

 けっきょく、何も思いつけないままだった。落第だ。しかし彼は気にした様子もなく、「ああ」と同じ声のトーンで応え、席に着いた。僕は次の話題を探すが、なかなか見つからない。何か言わないと。そう思えば思うほど、何を言えばいいのか分からなくなる。

「レイニー、ほい、返すね」

 そこへ、文乃が戻ってきた。これ幸いと、僕は必要以上に丁寧にノートを受け取った。

「一つ貸しだね」

「えー、私も前に、なんか貸してなかったっけ?」

「それを言われると弱いんだよねえ」

 僕らの間には無数の貸し借りがあったような気がする。その一々を憶えてなどいられない。だから僕らは、自然に助け合う。当たり前のように、一方が他方を思いやる。

「おはよ、木立」

「ああ、おはよう」

 立川くんが不意に挨拶し、文乃が流れるように返した。なんか、流石だなと思う。

「その、レイニーっていうのは、何なんだ?」

「僕のあだ名だよ」

 彼は小さく頷いた。

「なるほどな。ずいぶんオシャレだ」

「私がつけたんだー」

「そうなのか。いいセンスしてるな」

 相変わらず、彼の言葉にはトゲが無い。今だって、僕からは素直に感心しているようにしかみえない。

「俺も、レイニーって呼んでいいか?」

「もちろん」

 その名で呼ばれることには慣れている。もうすっかり文乃専用のものになってしまったが、呼ばれること自体に抵抗はない。

「よっしゃ、じゃあ遠慮なく使わせてもらうぜ」

 僕は頷いた。前に立っている文乃に目を向けると、彼女は何故か不機嫌そうにみえた。いや、誤差の範囲だ。一応、笑っているし、僕の気のせいだと言われたら否定できない。ただ、なんだろう。ほんの少し、たぶん僕以外には気づけないくらいの小さな違和感があった。

「じゃ、私戻るね」

「あ、うん」

 文乃は僕に微笑みかけると、足早に去っていった。僕は一抹の不安を抱えたまま、彼女を見送る。隣では「ねみい」とぼやきつつ、立川くんが机に突っ伏していた。


 折り畳み傘を出すのが億劫だと言って、彼女は僕の傘に入っていた。ほとんどくっつくようにして歩く。校門を出たところで、文乃が切り出した。

「レイニー、立川くんと仲いいの?」

「それほどでも。クラス替えで一緒になって、それからだよ」

「ふぅん」

 文乃の反応がいつになく素っ気ないのを見て、僕は確信する。彼女は何かに腹を立てている。散々迷った挙句、僕は訊いてみることにした。

「文乃。もしかして、怒ってる?」

「…やっぱレイニーにはバレちゃうか」

「分かるよ、なんとなくだけど」

 文乃は前を向いたままだった。それで僕も、文乃から目を逸らす。彼女はしばらく黙ってから、遠慮がちに口をひらいた。珍しいことである。

「すごく、子供っぽいこと言うけど。なんか、レイニーって呼べるのは、私の特権だと思ってたから」

「…え?」

 文乃は僕の脇腹をつつき、いつもより少し紅い頬を膨らませる。

「はいはい。レイニーには分からないでしょうね」

「ちょ、文乃?」

「…帰り、飲みもの奢ってよ」

 意味が分からなかったが、これ以上深掘りするのも躊躇われて、僕は頷いた。僕らは多くのことにおいて、互いに分かりあっている親友だ。けれど、所詮は個人の壁を超えられないのだろう。少なくとも、僕がこんな人間である限りには。

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