第2話
不器用な人間というのは、色々なところで損をする。たとえば、皆が当たり前のように上手くやれることを、十回も二十回も失敗しながら、ゆっくりと遂行しなければならない。
久しぶりにその痛みを切に実感したのは、体育の時間だった。ハードルを跳び越えながら走るという、ごく単純な運動。もちろん、極めるのは難しいのだろうが、今はそれほどのレベルを要求されていないのだ。みんな、教師のアドバイスに助けられながら、すいすいハードルを超えていく。
一人、二人と前の生徒達が走り抜け、僕は嫌な緊張感を覚えながら位置についた。そもそも、この空気が嫌いだ。誰も僕なんて見ていないのかもしれないが、なんだか責められている気がしてくる。一瞬間の後には、全力で走り出さなければならないのだという、この圧力。僕はこれが大嫌いだった。
ピッと笛が鳴って、僕は駆け出した。まったく、できない奴はとことんできない。運が悪い。僕の隣は学年でもトップクラスに入る俊足の持ち主だった。小柄で、非常に温厚な少年だ。彼のことは嫌いでない。でもできることならば、隣には並んで欲しくなかった。
スタートして二秒もしないうちに、彼は僕の数メートル先を行っていた。速い、なんてもんじゃない。僕からはそんなふうにみえる。走って電車を追いかけているみたいな、いや、さしずめ僕は、オリンピック選手と競走する幼児だった。もうそこまで落としてしまいたい。全然、意地を張りたくない。手も足も出ない。それでいい。
なんて、まるで競走でもしているみたいだが、これは断じて競走ではない。ただ、隣の俊足くんに較べて、僕が著しく惨めにみえるだけで。だから本来、僕が彼を気にする必要はない。ただ、走っていればいいのだ。そうすれば、誰も咎めやしないのだから。
そう思えたら、どんなに楽だろう。
僕は、人を過剰に意識する。いつも、人に嫌われている前提で話をする。人の善意みたいなものを、頭の片隅に期待しながらも、それをちっとも信じていない。哀しいくらいに。例外はたぶん、文乃だけだ。
だから要するに、僕は目立ちたくないのだ。息を殺して、みんなが僕のことを忘れてくれていれば、それでいい。嫌われるのは嫌だが、嫌われないためなら、好かれないことも辞さない。なんて、また気取っている。本当は、好かれようがないだけだ。
下らないことを考えているうちに、半分ほどのハードルを超えた。残り半分だ。隣の彼は、早くもラストスパートに入っていた。必死に腕を振って加速しようとするも、僕はやはり鈍足だった。
そして、がむしゃらに走った結果、後半のハードルはほとんど跳べなかった。僕はいくつも倒しながら、最後には自分で苦笑しながら、ゴールした。ストップウォッチを持った男性教師が、僕にタイムを教えてくれた。僕はそれを復唱して覚えておく。ふらりと、向きを変えて皆のほうへ戻ろうとした。
「おい、もしかして、足痛いのか?」
僕のプライドはすり減ってしまって、もうほとんど見えない。少なくとも僕自身は、それを認識できない。けれど、僕だって人間だから、そういう言葉にはチクリと感じるものがある。
「いえ。これでも全力なんですよ」
僕は笑って答えてみせた。その行為自体を、特に苦しいとは思わない。慣れたことだった。彼は「おう、ならいい」とだけ答えると、顎をしゃくって僕に指示した。僕は戻りながらハードルを立て直し、小走りに列の一番後ろを目指す。とりあえずこれで、今日のぶんはおしまいだ。出席番号の関係で先に走らされるぶん、後は楽だ。いわゆる『普通』に走れる少年たちの疾走を、ゆったりと眺めていればいい。
あー、体育なんてなくなればいいのに。
多くの男子達から反感を買いそうな本音は胸の中に押し込んで、僕は口の端を持ち上げた。今は誰にも見られていないというのに。すっかり癖になってしまっていけない。
「
前から歩いてきた少年が、僕の肩を叩いた。背が高く、爽やかな美少年である。
僕は不器用な笑みを貼り付けたままで、「おつかれ」と返す。その声がすこし高すぎたことを、自分でも笑ってしまうくらい気にしていた。僕は慌てて何か続けようとして、笑みが余計に大袈裟になる。
「
すぐに思いつけるのが、驚くほど単純な追従であるから、僕はやっぱり不器用だ。なんとなく目を逸らして、遠くのビルを見た。
「さんきゅー。これだけが取り柄だからな」
彼は明るく答えた。こういう自然な言葉をすぐに思いつける人は、器用なのだろう。単純に羨ましい。けれど、器用な僕は、もはや僕ではないような気もする。そう思える自分が少し可愛らしくて、なんて思って気持ち悪くなって、やっぱり僕は自分を否定する。
彼はそんなことを言っているが、実際のところ、勉強もそれなりにできる。特別すぐれているというわけではないが、少なくとも困らない程度にはできるらしい。
「あ、そういやさ。お前、木立と仲良いんだってな」
不意に文乃の名前を出されて、僕は視線を戻した。彼は澄んだ瞳で僕の顔を覗き込んでいる。そこには打算というか、企みというか、そういう悪意がいっさい感じられない。だから却って怖くなるが、僕は素直に頷いた。
「付き合ってるとか、そういう感じ?」
たぶん、文乃が僕と出かけたことなんかを口にしたのだろう。こんなつまらない噂も、ゴシップに飢えた高校生たちの間では、思いのほか早く伝播するらしい。よくも、そんなに興味が持てるものだと思う。
「いや、ただの幼なじみだよ」
僕は素直に、かつ声が尖らないように答えた。否定の言葉はいちいち僕を不安にする。人の意識に逆らうことはどんな時だって、争いの種になりかねない。僕は可能な限り、人の意見に逆らわない。
だが、これは否定しておかなければならないだろう。僕の為にも、文乃の為にも。
「ああ、そうなのか」
彼は目をぱちくりとさせる。疑ってはいないらしかった。
「いやあ、すまん。クラスのヤツらから、そんなふうに聞いたからよ」
ここで、ひらりと話題を変えてしまえたら、僕はもっと器用な人間になれるのかもしれない。でも、だめなんだ。こうやって人が持ちかけてきた話題を、下手に変えてしまうこともできない。
「立川くんこそ、そういうのはないの?」
僕は調子に乗って言った。ほんの少し、懐に潜り込むつもりで、そのくらいの意識の強さをもって。
「へ、俺か?ないよ、そんなの」
「え、でもモテるでしょ?」
立川くんはモテるはずなのだ。これほどの美少年を、女の子たちが放っておくとは思えない。
「あー、まあ、そういうのも無くはない、けどさ。…実は、好きな人がいるから」
彼の好きな人。それは、少し興味があった。こんな人間にも、そういう野次馬根性は残されているらしい。
「え、誰?」
「誰って、お前、そりゃあ…」
「おいそこ、喋るな」
彼が言い淀んだタイミングで、近くにいた教師に注意される。僕らは黙って従った。若干、嫌な気分になったものの、僕にとっては救いの手に他ならない。だって、怖いではないか。これ以上、僕が舞い上がって変なことを言ってしまったら、今度こそ立川くんは、僕に幻滅するかもしれない。
立川くんは特定の友達を作らないようだが、その陽気さから、クラスへの影響力は折り紙付きなのだ。もっとも敵に回したくないタイプの人間だ。
しかしそもそも、彼が僕に話しかけてこなければ、それで済む話なのだけれど。なぜか、僕にしょっちゅう話しかけてくる。彼とは一ヶ月ほど前のクラス替えによって出会った。彼が僕を気に入る理由なんて無いはずだが、実際、そんなふうになってしまっている。嫌な気はしないけれど、彼の隣に立っていると、緊張してしまって仕方がない。
「レイニー、昔から運動ダメだったもんねえ」
文乃は苦く笑んで応えた。
昼休みは始まったばかりだ。食堂はまだ、多くの生徒で賑わっている。僕らは隅っこの席に向かい合って座り、食事を共にしていた。これもいつもの事だ。僕は大抵、うどんを啜っている。文乃は自作の弁当を広げている。やっぱり、本人が思っているよりもずっと、女の子らしいと思う。
「いやあ、ほんとにね。時々、自分でも呆れるよ」
「なよなよしてるから、余計にそうなるんじゃない?」
彼女は歯に衣着せぬ物言いをすることがある。というか、僕といる時は普段より容赦がない。教室で見る姿は、もう少しお淑やかだ。
「そう言われてもねえ」
僕が文乃の言葉で傷つくことはほとんど無い。彼女の言葉は一見すると乱暴でも、僕を傷つける意図はないということが分かっているから。彼女は必要以上に嘘を吐かない。僕に気を遣ってオブラートに包むくらいなら、むしろ思いついたままの、出来たての刃物みたいな言葉をくれる。信頼のもとに成り立つ会話だ。こんな僕でも、それは分かってしまうから、時折、へんな罪悪感に苛まれる。僕は、どこかで文乃と同じところに立てていないのだと思う。
「ほら、スポーツは特にさ、気合いでいかないと」
「できる人はいいね」
文乃は僕と違って、大抵のことを要領よくこなしてしまえる。特別、秀でているわけでもないが、生きていて困ることは少ない、はずだ。本人いわく『中の上を、安定して維持する』ことをモットーにしているらしい。とても羨ましい。
「できるってわけじゃないよ」
文乃は白飯を口に放り込んだ。僕はうどんのつゆを飲んで、ふいと目を逸らす。ここは眺めが良い。中庭が見渡せて、いまは、アザレアが沢山咲いているのが見える。ごく一般的な公立高校なのだが、こういう所は本当にしっかりしていて感心する。
「あ、梨子。おーい」
文乃は不意に手を挙げると、ちいさく叫んだ。そのまま手を振っている。僕は躊躇いながら、後ろを振り返った。
明らかにこちらを見ている女の子が一人、確認できる。安達梨子さん。同じクラスだから、一応知っているが、ほとんど話したことも無い。ボブカットの可愛らしい女の子だ。とにかく顔立ちが整っている。あくまで僕の主観だが、美少女である。
安達さんはゆっくりと、こちらに歩み寄ってきた。完全な無表情だ。ちっとも感情の気配がしない。彼女はいつだってそうだ。瞳はどこか虚ろで、ぼうっとしている。クラス内で話しているところも、ほとんど見たことがない。だから、男の子からの人気も高いはずなのに、誰も近寄れない。その雰囲気は、もはやミステリアスなんて表現で片付けていいものではない。
これはあまりにも失礼なので、口が裂けても言えない。けれど、僕はいつも、彼女を死人みたいだと思う。喜怒哀楽がすっかり抜けていて、冷たい死体が動いているみたいな。
安達さんは僕らのテーブルにたどり着くと、文乃の隣に座った。動作の一つ一つが非常にゆっくりとしていて、上品だ。立っても座っても花に見える女の子というのは、彼女みたいな人のことを表現しているのかもしれない。文乃の三倍は上品だ。
「殴るよ?」
「だからなんで分かるの?」
「そりゃあ、まじまじと見比べられたら、いやでも分かるよ」
「誠に申し訳ない」
内心が露骨に現れてしまっていたらしい。未だに僕を睨む文乃を横目に、安達さんは弁当の包を広げる。こぢんまりとした弁当は、明らかに手作りらしかった。僕は五秒くらい迷って、それを話題にしてみることにした。
「安達さん、それ、手作りなの?」
安達さんは僕の顔をちらと見て、小さく頷いた。無視されなかったことに安心する。それも覚悟の上だった。
なにも、そんな危険を犯す必要はないのに。分かっている。今は文乃が居るのだから、沈黙を過剰に恐れる必要は無いのだ。しかし、僕の本能は黙っていることを許さない。難儀な性格だと、自分でも呆れる。
「すごい。いや、僕、料理できなくてさ。ほんと尊敬するよ」
僕にとって会話の種類は三つしかない。一つ目は、ひたすら相手に同調して、ただのイエスマンと化す、それだけのもの。二つ目は、自分を卑下し、へりくだって、なんなら地面に頭がめり込むくらいに低く構えて、相手を上に立たせるもの。三つ目は、何としてでも、相手を褒め称えるもの。この三つだ。
僕は人から話しかけられた時、このどれかに進展させようとする。そして失敗して、あたふたと、また言いたくもないことをペラペラ喋る。無様にてんてこ舞いする。
安達さんはしばらく、僕の顔をじっと見ていたが、すこし首を傾げただけで、そそくさと食事を始めてしまった。僕はまた滑り出しそうになる口を、比喩ではなく本当に手で抑える。相手が話さないなら、これ以上、僕がてんてこ舞いすることもないだろう。
「私だって、毎日お弁当作ってるんですけどー」
「前に褒めたじゃん」
「なんか腹立つ」
「ええー」
文乃が水を含む。
なんだかんだと言って、彼女と二人きりでいる時が一番楽、ということは否定できそうにない。
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