第1話

 青い空に、綿菓子みたいな雲が泳ぐ、なんてのは紋切り型のつまらない描写で、実際いま、僕の眼前に見えるのは、なんでもないような青空だった。けれど無理矢理に、そんな描写の型に落とし込めそうだな、と思った。僕が作家か何かだったら、絶対にそんな描写はしないけれど。青い空に、白い雲。それだけで充分だ。つまらないことにこだわっていると、生きていけない。

 生きていけない。

 ふふ、と自嘲気味に笑ってみる。独りきりの部屋に、寂しい音が、響く前に消えていく。ベッドの上に座り、窓から空を見上げる行為は、なんだか気取っていて嫌いじゃない。意味の無いこと。僕はそれが大好きだ。何らの深刻さも伴わないことは、存外すばらしい。

 僕は右手に持っていた文庫本を枕元に投げた。飽きてしまった。小説の言葉というのは、何故こんなに難しくて退屈なんだろう。もっと簡単に言えばいいのに。それでも僕は小説が好きだ。読んでいる間は、自分を忘れられるから。この下らない人生を。

 偉い学者さんは、人生は短すぎると言う。せいぜい百年、そのくらいでは、自分の解き明かしたい謎を明らめるのは困難だそうだ。ご立派なことだと思うけれど、僕にはただただ信じられない。三十年でも永すぎると思う。

 僕は立ち上がると、ぐっと身体を伸ばす。今日は何もすることが無い。晩春の晴れた日、午前十一時。僕は既に退屈していた。意味の無いことは大好きだが、だからといってまったくの暇を愛せるわけでもなかった。ややこしい性格だと、自分で苦笑してしまう。

 とりあえず昼食を摂ってしまおうと、部屋を出る、その前に学習机に歩み寄った。右手を伸ばしてスマートフォンを手に取る。画面が明るくなっていた。トークアプリの通知には、彼女の名前があった。心が少し、ほんの少し浮きたつのを抑えられない。同時にため息をやり過ごす。それは「えーと…」という呟きとなって、口から零れ落ちる。いつもの事だ。

 確認してみると、メッセージが届いてから一分も経っていなかった。僕はすこし躊躇して、しかし相手が彼女であるということに依って、すぐさま返事をすることを決意した。二十秒ほど考えて、僕は無難な返事を送りつける。

『準備するからちょっと待ってて』


 ドアを開けると、途端に世界が明るくなる。良い天気だ。僕は空を見上げて思わず目を細め、そのまま視線を前に戻し、意識的な笑みを作った。口元を不自然なくらい柔らかく釣り上げる。

「やあ」

「はろー、元気?」

「人並みには」

 庭先に立っていた少女に近づく。彼女は僕が隣に並ぶかどうかといったタイミングで、ふらりと歩き出した。気取っているわけではない。彼女は実際に、そんな擬音が相応しいような歩き方をするのだ。言葉で表現するのは難しい。少なくとも僕はそれ以外に形容する方法を知らない。

 庭を抜けると、僕らは右に折れて、並んで歩いた。暖かい、というよりむしろ、すこし暑い。季節は間違いなく夏へと歩みを進めている。夏は少し苦手だ。暑くて何をする気にもなれなくて、息をするのも面倒になる。ただし、火照った身体を冷房で冷やす、あの感覚だけは好きだ。

 隣の彼女はキーホルダーに指を引っ掛けて、家の鍵をくるくると回していた。そういう仕草は、どこか男性的にみえる。しかし彼女の容姿は非常に女性的だ。長い髪はお世辞抜きに美しく、ぱっちりと大きな瞳はすこし垂れていて、柔らかな印象を与える。取り立てて美人と言うほどではないが、たしかな愛らしさがある。昔からそうだった。

 彼女は目だけを動かして僕を見ると、口を尖らせて呟く。

「なんか、いま失礼なこと考えたでしょう?」

「超能力者かな?」

「そこは否定してよ」

 僕は曖昧に笑って首を振った。もう、かれこれ十年近くの付き合いになる。自然、互いのことはある程度理解している、つもりだ。僕の思い上がりかもしれないけれど。きっと彼女は、僕のちょっとした雰囲気や息遣いから、なんとなく思考の方向を読んでしまえるのだろう。ちなみに、僕にはそれができない。彼女のことを分かっているつもりではあるが、一向に自信が持てない。

「文乃、課題やった?」

「え、全然」

「平常運転だねえ」

「そういうレイニーはどうなのさ?」

「君の解答をアテにしていた」

 文乃は僕を睨み、けれどすぐに笑った。僕らは互いの歩幅を意識せずとも、ペースを合わせて歩ける。頭一つ分くらいの身長差があるから、僕はゆっくりと歩かなければならない。コツは、自分の歩幅を三等分した、そのうちの二つ分くらいを一歩とすることだ。彼女のほんの少し後ろに身体をもって来るくらいのイメージで。これが僕の居場所なのだ。


 木立文乃こだちあやの。それが彼女のフルネームだ。

 僕らは小学校の頃から同級生で、もっと言えば同じ保育園に通っていた。筋金入りの幼なじみだ。

 未だに僕らが親密なのは、互いの家が近くにある、ということが大きく影響している。僕らは退屈すると、ほんの軽い気持ちで互いの家を行き来する。それは僕からであることもあったし、彼女からであることもあった。

 腐れ縁、なんて言うと怒られそうだから言わないけれど、僕らの関係はまさにそれだと思う。別に、打ち合わせたわけではないのに、僕らはずっと同じところにいる。生まれてこの方、ずっと同じ環境で育ってきた。僕らは自然と、そうして生きてきた。

 だから、文乃に対しては、リラックスして接することができる。それでも、僕はどこか気取っているに違いないのだけれど。はっきりとは分からない。でも、やはりそこには何かがあるのだと思う。薄い薄い、僕自身も普段はほとんど意識しないような境界線。それは確かに存在する。

 それを踏まえても、僕らの仲は良好と言える。互いに異性であるが、僕はそれを意識したことがない。そういった場面に出くわすと、配慮こそするが、それで僕の内面がどうなるということもない。


 十分ほど歩くと、古びた、小さな喫茶店にたどり着く。木をベースにした建物で、日陰になっている側の壁には、くねくねと細い蔦が這っている。下手にすれば廃墟のような侘しさを感じさせるそれが、この店には良く似合っている。おそらくわざと放置してあるのだろう。入口には樽が二つ、並べて置いてある。その上に小さな黒板が立てられ、簡単にメニューが紹介されている。文乃がドアを引き開けて入店する。頭上で鐘が鈍く鳴る。僕もそれに続いた。

 店内もそれほど広くない。カウンター席が三、四あって、テーブルが五つ。テーブルも椅子もこげ茶色の木材で出来ていて、年季が入っている。この喫茶店は僕らの行きつけの店だった。とにかく雰囲気が落ち着いている。客が少ないことも魅力のひとつだ。しかし何より魅力的なのは、値段がリーズナブルであることだ。高校生でも十分手が出せる。そして美味しい。

 水を持ってきた店員にフレンチトーストとミルクティーを注文する。ここのフレンチトーストは甘さに容赦がなくて好きだ。向かいに座った文乃は、ブレンドを頼んだ。

「私より女子力高い注文しないでよ」

 文乃は苦笑しながら言う。僕は自他ともに認める甘党で、ここへ来た時には、たいてい同じものを注文する。コーヒーなんて苦くて飲めない。

「女の子はもっとオシャレなもの注文するんじゃないの?」

「フレンチトーストにミルクティーは充分乙女だよ…」

 そうだろうか。男性にも割と人気なものだと思うけれど。しかし、これもいつも通りだ。

 文乃はさっぱりとした性格で、彼女の嫌いな表現をするなら男勝りだ。と言っても、それは過剰な表現だと思う。たんに、さばさばしているというだけで、文乃は充分女の子らしい。けれど本人はそれを気にしているようだ。昔、そう言ったら『乙女心は複雑なの』と怒られた。正直よく分からない。

「子供舌、変わんないねえ」

 文乃は僕の背後の虚空を見つめて言った。昔のことを思い出しているのだろうか。僕はなんとなく目を伏せる。別に意味はない。ただのポーズだ。

「まあね。苦いものなんて飲める方が信じられないよ」

 甘いものは幸福の象徴だと思うのは僕だけだろうか。

「…しかし、ほんとに長い付き合いだねえ、私たちも」

「そうだね」

 何故だろう、文乃は僕と目を合わせずに言った。そこに、ほんの少し、不満の匂いを感じた。僕は過剰に笑ってみせる。

「腐れ縁、ってやつかな」

「酷い言い方」

 文乃がぷっと吹き出したのを見て、僕はやっと冷静さを取り戻す。こういう時、僕が感じるのは曖昧な恐怖だ。それを誤魔化す術を、僕はたった一つしか知らなくて、だから言いたくもないことを言って、余計に怖くなってしまう。

 僕は話題を変えたくて、必死に頭を捻った。思いのほか早く次の話題を見つけて、安堵する。

「そういえばさ、あの子とはどう?」

「ん?ああ、梨子?」

「そう」

「んー、そうだなあ」

 文乃が顎に手を遣って考え始めたところで、店員が注文の品を持ってきた。軽く頭を下げながら食器を受け取る。僕はハチミツのかかったフレンチトーストを切り取って口に運ぶ。文乃もカップに口をつけた。

「なかなか心を開いてくれないんだけどね。面白い子だよ。こんど、レイニーにも紹介してあげる」

 紹介してあげる、なんて言われても嬉しくない。僕も相手も困ってしまうだけだ。僕はミルクティーを一口含み、彼女を眺めて、自分の側頭部を指してみせた。

「寝癖、ついてるよ」

「えっ、うそ」

 文乃は慌てて髪を抑えた。どうにも、僕が相手だと気が緩むらしい。これも幼なじみの特権というやつだ、と思うと、すこし嬉しくなるけれど、それでも僕は気取ってしまう。自分で自分が嫌になる。しかし、それを治そうと思うほどの気力はない。ミルクティーの心地よい甘さを感じながら、寝癖を直す文乃をぼんやりと観察した。

「…いま、不意に思ったんだけどさ。文乃は、なんで僕の友達になってくれたの?」

「え?んー、考えたこともなかったな。小さい時からずっと一緒にいたし。…面白いから?」

 文乃はそう言って、片手は髪を抑えたままで、左手を使ってカップを持ち上げた。何も入れないブラックのコーヒーを顔色ひとつ変えずに飲み込む。文乃は僕よりもずっと大人っぽい。昔から思っていた。

 それは文乃に限った話ではないけれど。僕はいつだって、人より遅れている気がしてならない。

「ふーん、そんなもんかあ」

「そんなもんだよ」

 時間はゆったりと流れていく。僕は、彼女と過ごす、この緩んだ空気が好きだ。

 最後の一口を咀嚼していると、文乃が席を立った。

「ごめん、ちょっとトイレ」

 僕は無言で頷いた。紙ナプキンで口を拭きながら、カップを持ち上げた。

 たとえば、僕が全くの人見知りだったとして。文乃が居なかったとして、そんなことは考えたくもないけれど、僕は果たして、生きていただろうか。文乃がいたから生きてこられたとか、そんな下手な告白がしたいのではない。単純な興味による思考だ。

 おそらく、僕には一人の友人も居なかったことだろう。これまで、大きく人に嫌われたことはなく、また反対に好かれたこともない。いじめられはしなかったが、必要ともされなかった。静かな人生。そう言ってしまえば聞こえは、まあ悪くない。ふふ、と、また独り笑ってみる。

 ミルクティーはとうに冷めていて、僕は一息にそれを飲み干した。

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