第33話 令和元年5月3日(金)「嘘」

「風俗、か……」


 スマホの画面に映る風俗の求人広告を眺めながら呟く。深い深いため息が出る。今日何度目だろう。


 世の中は連休で浮かれているが、私はどんよりとした気分に沈んでいる。順風満帆だった人生がこの半年で大きく狂った。一流企業に勤める父。一戸建てに家族四人幸せに暮らしていた。私は現役で東京の有名私大に合格し、多くの友だち、優しい恋人を得て、明るい未来を信じて疑わなかった。


 去年の暮れ、父が懲戒解雇された。青天の霹靂だった。会社の金を使い込んで、愛人に貢いでいた。それだけでもショックだったのに、刑事告訴を免れるために家を売り、祖父母の老後の資金を拝み倒して融通してもらい、サラ金に借金までして工面した。学業優秀だった弟は大学進学を諦めた。


 奨学金にこれまでのわずかな貯金、今後バイトで稼ぐ分まで充てれば私の学費は払える。しかし、東京での生活費はどう切り詰めても足りないことが明らかだった。私は金銭的な困窮の苦しみを生まれて初めて知った。


 私は恋人に泣きついた。彼は優しい人で、同棲することを許してくれた。生活費も将来働いて返すという私の約束を受け入れてくれた。彼には感謝しかない。それなのに、二人の関係は変わってしまった。私は彼に引け目を感じてしまい、彼もそんな私をどう扱っていいか分からなくなった。会話が減り、一緒に暮らすようになってかえって一緒にいる時間が減った。


 バイトを掛け持ちしていると付き合いが悪くなり友だちも離れていく。常にお金のことばかり考え、些細なことにもイライラするようになった。余裕がなくなると今まで普通にできたことができなくなる。ミスが増え、それがストレスを高める悪循環。わずか半年で私の精神状態はボロボロになっていた。


 ゴールデンウィーク、彼は友人たちと旅行に出掛けた。私と一緒にいても息が詰まるだけ。お互いに分かっている。そんな時に私は不注意から左手の小指を骨折した。何でもない失敗に苛立って左手を机に叩きつけ、打ち所が悪かったのか激痛が走った。自分の愚かさを呪ったけど後の祭りだ。痛みでバイトにも行けず、仕方なく病院に行った。


 手持ちでは治療費が足りなかった。バイト代は連休明けまで入らないし、急に休んで前借りという訳にもいかない。彼に連絡すれば、旅行を切り上げて帰ってきてくれるだろう。それが分かるだけに躊躇ってしまった。悩んだ末に頼ったのが大学のゼミの教授だった。フェミニズムの研究者で、女性問題のフィールドワークでの実績が評価されている。今年度うちの大学に来たばかりだが、先生と接した学生の評価は高い。


 最初のゼミで先生は自己紹介代わりに最新の自分の論文を全員に配った。学費のために風俗で働く女子大生への聞き取りをまとめたものだった。他の生徒にとっては他人事だったろうが、私には切実な話だった。


 私は先生に助けを求めた。先生はすぐに病院まで来てくれて、治療費を立て替え、私の話を聞いてくれた。私はそこで大きな嘘をついてしまった。ケガの原因を自分の不注意だと言えなかった。あまりにも間抜けだし、それだと助けてくれないのではと思ってしまったから。明確にではないが、DVであるかのように言ってしまった。先生と彼、私を助けてくれる二人に対する裏切りであることは分かっている。それでも、本当のことは言えなかった。


 先生は自宅に私を泊めてくれた。しばらく居ていいからと言われ、私は少し肩の力が抜けた気がした。彼からはDVはおろか攻撃的な言葉さえ言われたことはなかったのに、彼の家にいることは精神的にきつかったんだと気が付いた。


 少し休みなさいと先生に言われ、お金のことに追われバイトに明け暮れた半年間で自分の心がどれだけ荒んでいたのか分かってきた。今まで自分を見つめる時間もなかった。そして、改めて今後のことについてしっかり考えないといけないと思った。


 大学を辞めるのも選択肢のひとつだ。しかし、これまでに費やしたお金は無駄になる。それ以上に、今まで私が努力してきたことすべてが消えてしまいそうでそれだけはしたくなかった。


 大学を続けるのであれば、最大の障害がお金であることは間違いない。就活や学業のことも考えればバイト漬けという訳にもいかず、効率よく稼ぐのならどうしても風俗という選択肢が浮かび上がる。風俗で働く人のことを下に見る気はないが、自分がその世界に入ることに躊躇してしまうのは仕方ないだろう。


 また、ため息が出る。その時、ノックの音がした。


「お昼、できました」


 先生の娘さんの声が聞こえた。先生は毎日朝早く出掛けて行き、夜遅く帰って来る。先生こそ少し休んだらどうかと思ってしまうほどだ。代わりに、娘が食事や洗濯などをやってくれる。紹介された時高校生に見えたが、中学生と言われて驚いた。大人びていて、ちょっと怖く感じた。


「ありがとう」


 ダイニングに行くと二人分の食事の用意ができていた。豪勢という訳ではないが品数が多く手間をかけて作っている感じ。母が作ってくれた食事を思い出す。愛人に貢いでいた父を責めることなく、むしろ私がなじるのに対して父をかばっていた母。私はそんな母にも噛みついて色々と言ってしまった。


 向き合って黙々と食べる。ここに来て三日経つが、彼女とほとんど言葉を交わしていない。何を話していいか分からないし、彼女が無口で助かっている面もある。彼女を見つめる。こんな良いマンションに住み、母親は名の知れた大学教授で何不自由なく暮らしている。私も半年前までそっち側にいた。恋人や友だちたちと気の置けない会話をしながら毎日楽しく食事をしていたことを思い出す。もうあの頃には戻れないんだ。左手の痛みが増した気がした。


 私は泣き出しそうになるのを我慢して食事を終え、客間に戻る。無性に寂しかった。誰かと話したくなった。でも、思い浮かぶ顔は昔の私の友人たちであって、いま話せる相手ではなかった。スマホのアドレス帳を眺める。しばらくして、そのひとつに電話した。


「姉ちゃん?」


 久しぶりに聞く弟の声は少し大人びたように感じた。


「時間いい?」


「これからバイトだけど、少しなら平気」


「バイト始めたんだ」


「うん」


「……ごめんね」


「何が? 別に姉ちゃんが」


 私は弟の声を遮るように「あー、なんとなく?」と言った。あまり弟に気を遣わせたくなかった。


「……姉ちゃんは大丈夫?」


「あんたの声を聞いたら少し元気出たわ」


 弟は黙っている。返答に困るよね。


「また電話するわ。……あと、家のこと、よろしく」


「うん。ウチは大丈夫だから、姉ちゃんこそ元気で」


「うん」


 電話を切ると息を吐く。ため息ばかりついていても仕方がない。弟は真面目だから、少しは姉らしいところを見せないと。そのために私に何ができる? 私は安っぽいプライドを捨てることから始めようと思った。

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