第28話 平成31年4月28日(日)「空手」

 この季節にしては肌寒い。それでも、空は晴れ渡り、道端のツツジが色鮮やかに咲いているのを見ると心は浮き立つ。武道館は立派な建物で、荘厳。わたしが試合に出る訳でもないのに、身が引き締まる思いがする。今日はここで空手の大会が行われる。先日稽古に参加させて頂いた道場の方々が中心となって開かれる大会で、わたしは見学に来た。その時に親しくなった可恋ちゃんが出場するのでとても楽しみにしている。


 わたしは高校から空手を始めた。昨年、高校に進学して何か新しいことに挑戦しようと思った。運動は好き。ただ、小柄だし、チームスポーツはやや苦手だった。自分のペースでできる競技がいいなと探していたら、女子の空手部が新設されると聞いた。伝統や上下関係の堅苦しいイメージのある武道だが、新設ならそういう煩わしさを感じずに済むかもしれないと思って飛び込んだ。


 それから1年ちょっとが過ぎ、一緒に始めたメンバーで今も続いているのはわたしを含めて4人だけだ。今日は他の3人にも声を掛けたが、断られた。みんなサボったりはしないし、稽古も真面目にやっているものの、それ以上やろうという貪欲さが足りない。わたしより身体が大きく、運動神経も良いんだから、もっと伸びると思うのに、やる気を引き出すのは難しい。部長として、歯がゆさと自分の力不足を感じていた。


 武道館の中は喧噪に包まれている。まだ開会前なので、道着を着た選手たちはウォーミングアップや瞑想にいそしんでいる。関係者と思しき人たちが最後の準備に忙しく走り回っている。観客もほとんどが関係者のようなものなので、あちこちで挨拶の声が飛び交っている。


 わたしが辺りをキョロキョロと見回すと、稽古をつけて頂いた師範代の先生がいらっしゃった。他の方と談笑されていたが、近付いて挨拶をする。


「おはようございます」


「おはようございます。東京からわざわざ来てくれてありがとう」


「いえ、楽しみにしていました」


 わたしが微笑むと先生は可恋ちゃんの居場所を教えてくれた。彼女は道場の隅で瞑想するでもなく武道場を見ていた。近付いて声を掛ける。


「おはよう、可恋ちゃん」


「おはようございます」


 丁寧に頭を下げてくれる。もっとフランクで良いよと言うのだが、先輩ですのでと躱されてしまう。武道少女だから仕方ないか。とはいえ、そういう風に接してくれないと、外からは彼女の方が年上に見えるだろう。身長は彼女の方が10センチ以上高いし、何より大人っぽい落ち着きがある。初めて会った時は、大学生かと思ったほどだ。


 挨拶もそこそこに、開会のアナウンスが流れて、わたしは「頑張って」と手を振りながら観客席へ向かう。彼女は丁寧に一礼して見送ってくれた。


 空手部として何度か大会に出場したものの、観客として見るのは初めてだったりする。わくわくしながら迫力ある動きを観戦する。男女別に組み手と形の競技が次々と行われる。一応わたしも選手だけど、見ていて自分ならこうするんじゃないかと考えられないほどレベルが高い。公式な大会ではないので、選手の年齢はかなり幅広く、その技にただただ凄いと感心するばかりだ。


 部活では組み手と形の両方を練習する。組み手は1対1で対戦する分かりやすい競技だ。コンタクトは禁止で、フェイスガードを付けて行われる。フルコンタクトの流派もあるけど、わたしはよく知らない。形は型とも書き、流派ごとに決められた指定形や得意形を演じる。個人戦は1対1の対戦だけど、ひとりひとりが演武を行い、審判5人の旗判定でどちらが良かったかを決める。オリンピックでは採点方式になるんだけど。


 ようやく可恋ちゃんの登場だ。先攻の赤い帯を締め、演武が始まる。礼のあとに形の名を告げる。他の選手が叫ぶように言うのに、可恋ちゃんは聞き取りやすい通る声で言った。動き出すと目を奪われる。なに、これ。言葉では表しにくいが、他の選手とは明確な違いを感じる。演舞が終わってようやく自分が口を半開きにしたまま見入っていたことに気付いた。


 青い帯の選手の演武が終わり、判定。審判は全員赤の旗を挙げた。形には個人戦と団体戦があり、団体戦は選手たちのシンクロする動きや、分解と呼ばれる殺陣のような動きに見応えがあり人気になっている。個人戦はどうしても地味な印象を持っていたけど、彼女の演武を見てそれが間違いだと思った。


 2回戦。今度も赤い帯を巻いて登場した。毎回異なる形を披露しなければならない。先ほどとは違う技だけど、惹きつけられるのは一緒だ。彼女の形は気合いを前面に出すものではない。発声の時以外はメリハリの利いたダンスのようにも見えるが、発声に籠められた気迫がこれは命を懸けた闘いだと示していた。


 組み手は初心者同士でもかたちにはなるが、形はなかなか様にならない。空手じゃないけど、大相撲の四股を見てもらえば分かるかもしれない。相撲は遊びでもできるけど、あの美しい四股は素人には真似できない。同じように、形の習得には地道な鍛錬が必要だ。身体の大きい相手との組み手は威圧されてしまうので、わたし自身は形の方が好きなのだけど、試合に出られるレベルに至っていない。


 準決勝。赤い帯の選手が演武を終え、青い帯の可恋ちゃんが登場する。これまでの演武によって観客の多くが注目している。館内が静謐に包まれ、彼女の息づかいが観客席まで聞こえてくる。演武が終わると一転して歓声が沸き起こった。わたしも「可恋ちゃーーーん!」と大声を出した。次は決勝戦だ。


 その前にお昼休憩が挟まれる。どうしようか迷っていたら、ジャージ姿の可恋ちゃんがやって来た。


「林さんの分のお弁当も作ったので、ご一緒にどうですか?」


「え、いいの? ありがとう」


 わたしは大げさに喜んでみせた。つられて可恋ちゃんが笑ってくれる。時折見せる歳相応の笑顔にドキッとしてしまう。お弁当箱はピンク色の小さなもので、女の子らしい。開けると数多くの具材が彩りよく並んでいる。華やかさの欠片もないステンレスの巨大な弁当箱にご飯がギュッと詰め込まれ、おかずもとにかく量・量・量といった感じのお母さんが作ってくれるお弁当とは天と地の違いだ。もちろん、お母さんには毎朝作ってもらって感謝はしているんだけど。


 わたしは「凄かった」「感動した」といった言葉を連発して自分の気持ちを伝えようとする。ボキャブラリー不足で、もどかしさばかり感じてしまう。もっと国語を勉強しておけばよかった! 可恋ちゃんは、そんなわたしの空回り気味の言動をニコニコ笑って受け止めてくれる。


 他のスポーツでもそうだけど、自分の思い描く通りに自分の身体を動かすことは簡単なことじゃない。自分の形をビデオに撮ってもらって見た時、その滑稽さにどれほど頭を抱えて落ち込んだことか。自分の意識している部分、例えば右手だけはちゃんとできていても、その時の他の部分、左手や足の動きなどはまったくひどいものだった。今日出場している選手はもっとレベルが高いので、自分の思い描くイメージに近い動きはしていると思う。しかし、その精確性にセンチ単位とミリ単位の差があるのではないかと感じた。


「そろそろ行ってきます」


「頑張ってね! 全力で応援するから」


 可恋ちゃんがわたしに礼をする。武道でよく使われる「礼に始まり礼に終わる」という言葉が浮かんでくる。武道の堅苦しさを好きじゃなかったけど、少し考えが変わったかもしれない。わたしは頭をかいた。空手っていいな。今日は来て良かった。空手がますます好きになった。わたしは高揚感を胸に、可恋ちゃんの演武が始まるのを待った。

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